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2019年08月03日07:38

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戦争には短期戦と長期戦

石原莞爾が陸大を卒業した大正7年、長引いた第1次世界大戦が終わりました。この戦争は、世界の誰もが長期戦になるとは思わなく、戦争は短期間に終わると思ったのだが、それに反して長期戦となり戦争は5年間続いたのです。

この戦争を石原莞爾が見て世界の予想を裏切った長期戦争の原因は何かと研究しました。ベルギーの中立国までも侵して短期決戦を挑んだドイツが、同じように短期戦争で敗けたかを研究の対象にしました。

それで石原莞爾は連合国の中でこの戦争を長期戦争と判断したものを探し求めて、イギリスのキッチナー元帥を発見しました。南阿戦争で有名を馳せたキッチナー元帥だけは戦争は長期戦になると忠告していたのです。

戦争には長期戦争と短期戦争の2通りの型があると石原莞爾は第1次大戦を見つめながら陸大を卒業したのです。関ヶ原の戦いの直前、徳川打倒の旗を会津若松に掲げて、挙兵した上杉景勝の家臣・直江兼続の配陣を日光等の関東北部から奥羽口の白河にたずねて、石原莞爾は驚嘆しました。

直江兼続は主戦場を白河の南にある革籠原として、軽兵を越堀と芦野に出して戦いを挑んで、敗れながら退却して、敵を主戦場に導いて主力を若松、宇都宮街道の高原に伏せて、徳川親子の大軍を袋の鼠にして懺滅を計ったその雄大な作戦には多大の興味をもちました。

上杉討伐で江戸城から宇都宮に出陣して、上杉勢に戦いを挑まなかった徳川家康も流石であると思いました。短期戦の名人は織田信長で、長期戦の名人は徳川家康でしょう。織田信長は数多くの戦いに勝利して天下を取れなかったが、徳川家康は数多くの戦いに敗れながら最後に勝利して天下を取りました。

源頼朝は自ら戦わないで天下を握りましたが、源義経は短期戦で数多くの武勲を残しながら、奥州藤原家に落ちぶれて衣川にて消えました。戦いには武力戦と政治戦があります。国を守るものは、国防の大役に任ずるものは武力戦だけを心得て、政治戦を知らなければ国防の大役は果たし得ないとして政治戦もまた勉強しなければならないと石原莞爾は考え東亜連盟創始者、木村武雄氏に語ったそうです。

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