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2019年07月24日20:32

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『ジャンプ』伝説の編集長が語る「21世紀のマンガ戦略」【前編】

『ジャンプ』伝説の編集長が語る「21世紀のマンガ戦略」【前編】
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文化学園大学(東京・西新宿)は4月23日、「Dr.マシリトと語る21世紀のMANGA戦略」と題する特別講義を開催した。

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 文化学園大学の「デザイン・造形学科 メディア映像クリエイションコース」では、多彩なゲストが出版・映像・Webのメディア状況を3年生に向けて語る、「新しいメディアのカタチ」という授業が行われている。その一環となる特別講義では、『週刊少年ジャンプ』の元編集長であり、現在は白泉社の代表取締役会長を務める鳥嶋和彦氏が招かれて登壇。同大学の特別外部講師・原田央男氏との対談を通して、デジタル化で大きく変わりつつある漫画業界の現状と今後について語った。



 当日、学生のほか一般聴講者も詰め掛けた教室に登壇した鳥嶋氏は、90分の講義前のあいさつで「電子や紙媒体で定期的に雑誌を買っている人はいますか?」と、挙手を求めた。すると約半数の手が挙がり、「白泉社の新入社員より雑誌を買っているね(笑)」と鳥嶋氏。

 実はここ数年、白泉社の新入社員に同様の質問をしているそうで、「定期的に雑誌を買っている」と答えた社員はゼロだったという意外な結果が語られた。出版業界の内側でも大きな変化が起こっていることがのっけから明かされ、原田講師からの質問で特別講義の幕が上がった。

●「漫画雑誌はもう終わる」と思ったから、『少年ジャンプ』を逃げ出した

原田: 今日はよろしくお願いします。戦後の書籍と雑誌の売り上げは1990年代半ばをピークとして、以後右肩下がりで落ち続けていることはよくご存じのことと思います。そして『少年ジャンプ』が653万部という、世界規模でも未曾有の発行部数を達成したのが1995年。しかもこの年は「Windows 95」が発売され、インターネット元年と呼ばれた年であったことも実に象徴的といえるでしょう。出版業界の業績が悪化した理由の1つが、まさしくPC、スマホ、タブレットといったデジタル機器の普及によるものだからです。紙媒体ではなく電子媒体で漫画を読む傾向が、今現在に至っても続いている。

 日本の出版業界は世界の出版業界の中でも特殊なところがあって、活字本よりも漫画本のほうが売れるような形で営業が維持されてきました。しかしその漫画雑誌の主軸である『少年ジャンプ』ですら、部数減がずっと続いているわけですね。

 そこでまず伺いたいのは、鳥嶋さんは『ジャンプ』が漫画誌のトップに上り詰めて以後、部数が下がり始めるという、大きな曲がり角の時期に編集長を務められたわけですけれども、当時はそういう事態にどう対処されようとしたのでしょうか?

鳥嶋: 『少年ジャンプ』に編集長として戻る3年前に、僕は『Vジャンプ』を創刊したんですね。その時は「1つのモニターにマンガ・アニメ・ゲームが映る」というコンセプトで始めたんです。ちょうど今、スマホでマンガ・アニメ・ゲームが見られるような状況が到来すると予測していたんですね。『少年ジャンプ』を出て新雑誌を創刊したのも、「漫画雑誌はもう終わるだろうな」と予測していたので、沈みかけた船から早く逃げたかった。それで『Vジャンプ』を創刊して、『少年ジャンプ』を逃げ出しました。

 ところが会社は収益が全てなので、未来をどう予測するかといったこととは関係なく、収益が落ち始めると、経営陣は「目先の利益をどう確保するか」と考えるんです。『少年ジャンプ』の部数が落ちたら、『Vジャンプ』の未来なんかお構いなしに、僕を『少年ジャンプ』に戻せば部数が元に戻ると考えたんですね、愚かしくも。『ジャンプ』の部数が回復するなんてことは絶対にないと、僕は考えていました。なぜかというと時代がもう、漫画だけじゃなくてゲーム・アニメの状況に移ることが見えていたから。

 それと同時に、『ジャンプ』の部数がどんどんと落ちていた最大の理由は、『ドラゴンボール』が終わったから。どういうことかというと、長く続いたヒット漫画が終われば、固定客だった読者が離れるんです。そうすると、今まで惰性で見ていた客がいなくなるので、雑誌の実態が見えるんですね。『少年ジャンプ』が面白くない、新しい漫画が出てきていないというのは、数年前からみんな分かっていたわけです。分かっていなかったのは、当の『少年ジャンプ』と集英社だけ。そういう状況だったんです。

 あとですね、僕が個人的に思うのは、『少年マガジン』『少年サンデー』が創刊60周年で、『チャンピオン』『ジャンプ』がほぼ50周年。これはどういうことかというと、団塊の世代がちょうど子どもの時に週刊少年漫画雑誌が創刊されて、彼らの年齢が上がった時に青年誌が始まり、さらにいろんな漫画雑誌が始まる。結局、雑誌の流れを作ってきたのは全部、団塊の世代なんですね。彼らが老いていなくなれば、雑誌は落ちていくわけです。ちょうど今、人口動態の推移がこういうふうに出てきている。非常に明らかなことだと、僕は思います。

●雑誌の発行部数ではなく、コミック1タイトルの総収益を新たな指標に

原田: 漫画雑誌がこれ以上売れないだろうと思った理由の1つとして、ゲームやアニメといった新しい娯楽メディアが出てきたからとおっしゃいましたが、鳥嶋さん自身はすでに編集者の時から個人的にゲームに親しまれていましたから、実感としてそう感じられたということでしょうか?

原田: そこまでゲームに魅力を感じていたのであれば、それに対して編集長として、どう対抗しようと考えられたのでしょう? 

鳥嶋氏: さっき言いましたけど、部数自体が面白さの証明、読者がそれだけいるという証明ではなくなっていたんですね。『少年ジャンプ』に戻って分かったのは、相変わらず会社が部数だけにこだわっていて、単純な指標で仕事をしている。もう部数が戻らないのは分かっていたので、会社を納得させるためには部数とは違う数字の指標を立てる必要があった。

 今は出版社の誰もが分かっていることですが、漫画1タイトルから上がる収益がどれだけなのか。雑誌の収益、単行本の収益、それから漫画原作がアニメになることで入ってくるロイヤリティー。こういうものを含めたトータルで、1つの作品がどれだけの収益を生むか。その総計が雑誌の収益であって、それをどういうふうに上げるかが大切だということを、会社の中で提案したんです。

 結局会社って、お金が儲(もう)かればいいので。部数を上げるよりも、そういう数字を上げることのほうがはるかに合理的で、理にかなっていて、現場も疲弊しないで簡単だと、説明と説得をしたんですね。

●いかに早くサイクルを回してヒットの芽を探すか

原田: 非常に合理的な考え方だと思うんですけれども、『少年ジャンプ』に限らず漫画雑誌であれば、有望な新人作家の発掘も部数増の手段として欠かせません。鳥嶋さんはそちらについても、編集者時代から力を注いでいましたよね。

鳥嶋氏: 新人の発掘・発見と育成ですね。僕が戻った時の『少年ジャンプ』は、「パチンコ屋の新装開店と一緒だ」とよくスタッフには言っていました。中身は変わっていないのに、外の看板だけが別っていう。ヒットしていない、力がないと分かっている作家を“新連載”と打ったって、同じ人がやっていれば、読者から見れば焼き直しなんですね。読者に見え見えで、それじゃあ全然新しくない。今いる作家を一回全部捨てて、新しい作家を導入するしか、本当の意味での誌面の立て直しはできない。

 新人を使うことの最大の良さは、感性が読者に近いから、ヒットを非常に作りやすいんですね。さらに、新人はベテランに比べて構成能力は落ちるんですが、原稿料が安い。原価が安いから失敗しても響かないんです。新人の新連載を起こして、潰(つぶ)して、それをいかに早いサイクルでやっていって、ヒットの芽を探すか。これしかないんです。

 実は『少年ジャンプ』の原点がそこにありまして。さっきも言いましたけど、『ジャンプ』は『マガジン』『サンデー』から約10年遅れて創刊したんですね。『少年ジャンプ』が10万5000部で創刊した時に、『マガジン』『サンデー』は100万部。作家をリクルートに行っても、作家のところに後から講談社や小学館の編集者から電話がかかってきて、全部断られる。結果的に、『ジャンプ』では新人を使うしかなかったんです。他に手がなかったので。

 だから、今に至る『ジャンプ』の三大編集方針の1つは、新人の発掘・育成・登用です。でも新人だから力がない。だから2つ目の編集方針は、作家と編集者が二人三脚で作る。徹底的に打ち合わせをする。『マガジン』『サンデー』は作家にお任せで、編集者がチェックしないんですね。原稿を頂いてくるだけですから。原稿を“玉稿”と呼んで押し頂いてくる。そういう編集部でしたから。

 それから3つ目は、読者の声を聞く。新人の原稿ばかり並んでいるので、本当の評価はどうなのか。部数が伸びないから「果たしてこの原稿はどうなの?」というのが、編集部の中でもあったと思うんですね。だから読者の声を聞こうということで、アンケートハガキで○を3つ付けてもらう。これが『ジャンプ』の三大編集方針です。

原田: 実際に鳥嶋さんの編集長時代にもそういう方針の下で尾田栄一郎さんを発掘して、『ONE PIECE』が新たな『ジャンプ』の主役となりましたね。

●漫画は時間軸も国境も越えて、出版社のビジネスをはみ出している

原田: ところがその『ONE PIECE』を持ってしても、『ジャンプ』の部数の落ち込みに歯止めがかかっていないわけですから、それはやはり読者が紙媒体からデジタルに乗り換えていっているということでもある。

 ただ鳥嶋さんとしてはゲームなどを含めたメディアミックス路線をすでに『ジャンプ』で進めていましたから、編集長になってもそういうデジタル化への対応を一方で考えていたはずですよね?

鳥嶋: 漫画とアニメとゲームって、非常に親和性が高いんですね。漫画に色がついて動けばアニメ、それを自分の手で動かせばゲームなんです、簡単に言うと。そういう順番でできているんです。

 僕が漫画編集の現場にいた頃は、ゲームやアニメは漫画に勝てないと思っていました。なぜかというと、10代の才能の発見・育成に関してノウハウがないから。ゲーム会社もアニメ会社も、会社は儲かるけど個人が儲かるシステムにはなっていない。著作権が個人に帰属しないんですね。10代で才能があって億万長者になれるとしたら、漫画しかないんですよ。漫画からゲームやアニメになるのは非常に簡単なので。初版30万部売れればすぐ話が来る。

 そういう意味で言うと、簡単に作れて、簡単に潰せて、非常に早くヒットの芽が探せるのは漫画なので。だからアニメやゲームに対して、漫画はアドバンテージがあると思っていました。

原田: そういうアドバンテージがあるにしても、1990年代はデジタル機器の人気が高まる一方で、漫画を紙媒体ではなくデジタルで読む世代がやがて出てきます。それに対して、正面から漫画のデジタル化に対応しようとは思われなかったんでしょうか?

鳥嶋: 今に至るまでそうですけど、電子コミックは紙のオマケですね。それまでのビジネスモデルは、雑誌で儲かって単行本で儲かるという、ここまでしか考えていない。それで途中からは、単行本で雑誌の赤字を埋めていく。単行本をどう売るかということに、ビジネスの重きを置いたんですね。単行本を売るためにどうするかということで、メディアミックスを考えてやっていた。

 なぜかというと、アニメーションで知ってもらえば、その原作の存在が分かって売れるからです。TVアニメの視聴率の1パーセントは100万人。1パーセントに知ってもらえば、100万部刷れるわけです。『Dr.スランプ』の最高視聴率が36.5パーセント、3650万人が見てくれている。『Dr.スランプ』の単行本の最高初版が260万部ですから。そう考えれば簡単なことでしょ。

 話を戻すと、電子コミックに関して出版社が真剣に取り組んでこなかったのは、途中をカットしちゃうからですね。「出版社は机と電話があればできる」と言われたのは、制作は印刷所、流通は取次、売る場所は書店と、こういうふうに分業化されて合理的にできているからです。でも電子だと、書店がいらない。取次がいらない。印刷所もいらない。

 ただ、出版社は漫画だけで成り立っているわけではないので。簡単に言えば、漫画を売ってもらって、売れない雑誌や活字の単行本を抱き合わせで売ってもらっているようなものです。だから時代の趨勢(すうせい)がそうだからといって、あまり露骨にデジタルにシフトするわけにはいかない。出版社の中で起きていた議論は、「単行本を書店で売ってから、あまり時間を置かずに電子書籍を売ると、単行本の売り上げに影響が出て、書店に迷惑が掛かかって書店が疲弊する。とてもそんなことはできない」というのがいちばん大きなものでした。

●出版社は「もう終わり」

原田: それは大きな出版社であればあるほど、取次会社とか印刷所とか、そういうところとがっぷり手を組んでいて、デジタルに特化すると、それらと手を切ることになるので逆にできない、と。そのため小さい出版社のほうがデジタル化への取り組みが早かったり、あるいは出版社以外のゲーム会社などがデジタルコミックという形で漫画の配信に乗り出したりして、それに比べると大手出版社のほうがデジタル化に乗り遅れた形になっています。そういう状況が今現在においても、変わっていないということでしょうか? 

鳥嶋: 変わらないですね。最近思うのは、漫画というのは出版社をはみ出し始めているんですね。どういうことかというと、出版物でくくれないんです。さっきも言いましたけど、漫画というのはアニメやゲームの基になるし、国境も簡単に越えていくわけです。

 出版社のビジネスは今まで、雑誌に載って単行本になって、しばらくするとアニメになるという時間軸で区切るのと、国境及び言語で区切っていて。要するに、ゆっくりとビジネスを進める基盤があったんですね。ところがデジタルによってこれが全部崩れてくる。時間軸も崩れてくるし、国境の問題も崩れてくる。出版社はこれに対応しきれていないんです。

 もっと言うと、今のところ大手出版社は漫画しか儲からないんです。漫画で得た利益を漫画の周辺に戻さずに、他の雑誌や出版部門の赤字の補填(ほてん)にしちゃうわけですね。だからはっきり言えば、出版社自体はもう終わってます。雑誌ももう終わりです。だけど、ここで大事なことは、漫画自体はさっきも言ったように、コンテンツを生んで変換していく可能性があるので、生きています。

 だとしたら、終わっているビジネスと、まだ可能性のあるビジネスとをどう切り分けるかということが、僕は今、出版社の幹部が考えなきゃいけない問題だと思っています。これを一緒にしたままで、出版社としてなんとか形を保とうとしているがゆえに、いろんな齟齬(そご)をきたして、いろんなバカなことをやっている。いろんなことがブレていると、僕は思っています。

●新しい才能の育成に関して、出版社に勝てるノウハウを持つソフト産業はない

原田: 鳥嶋さんがそこまで状況を認識されているということがよく分かりました。ただこの問題は白泉社だけでなく、本来、出版業界全体で取り組んでいかなければならないことですよね。果たしてそれは可能でしょうか? 

鳥嶋氏: できると思います。簡単に言うと、雑誌の時代は終わりです。白泉社の社長を辞める最後のあいさつでも言ったんです。「雑誌は終わりだ。出版社も終わりだ」と。「でも」……。さっきも言いましたけど、「才能の発見・育成に関して、出版社に勝てるノウハウを持っているソフト産業はない」。だから作り続けるんです。

 どういうことかと言うと、編集者の固定相場制が終わったんです。これからは編集者の変動相場制の時代になる。これまでは『ジャンプ』の鳥嶋、『マガジン』の○○、『サンデー』の××といった具合に、必ず雑誌名があって編集者がいたわけですね。編集者はその雑誌に載せるために新人漫画家を発見・育成していた。でも、その雑誌をもう誰も見ない。どうする? 固定相場制は終わりです。

 ということは、1人1人の編集者がそれぞれ、出版社自体を体現してやらなければいけない。マネジメント、ディレクション、それからプロデュース。これを1人の編集者がやれるかどうか。

 僕が考えるこれからの出版社は、1人1人の編集者をエージェントとして雇って契約していく。ヒットを出せる編集者にはインセンティブでお金を出して、どんどん好きなことをやらせる。ダメな人間は切り替える。もう、このやり方しかないんじゃないでしょうか。そうしないと、新しい人間の発見・育成はできないと思います。

 以上が講義前半の内容だ。後半では鳥嶋氏の希望により、聴講者からの質問に直接答える形でさまざまな質疑応答が行われた。漫画と出版の過去・現在・未来についてより深く、熱く語られたその模様は、関連記事の後編で読める。

(伊藤誠之介)
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流通と媒体の変化が、あるジャンルに大きな変革を強制する。そんなものは、昔から大変たくさん起きてきた。それは、近代産業によって更に加速した。そのいい例が紙芝居であって、戦後にあれだけ流行ったものが、あっという間に貸本(とテレビ)にとって代わられた。戦後者不足から再生し、出版するコストが下がってきたからである。

この流れが加速し、物があふれてくれば、貸本から売買に変わるのも当然であろう。貸して返す、から、買って、売るまたは捨てるという方向に動いた。それは大量消費社会からすれば当然の帰結と、今なら言える。

どのような流通を経てもコンテンツを乗せている事に変わりはない。だが、多くの傑作とされる紙芝居はほとんど残っていないだろう。貸本で人気を博した漫画も、読む機会はもう少ないだろう。

手塚治虫の初期作品が今も話題になるのが異常なのであって、多くの作品は、ひっそりと今も忘れられようとしている。

ここまでは、しかし、漫画という形態の発展に全てが寄与しているし、沢山の生み出された作品は、いずれも紙の上に描かれた、漫画というジャンルであった。紙芝居にはコマ割りがない代わりに、人が場面を変えながら、音声を付けていた。それは半映画・半漫画というべきハイブリッドの様式であった。貸本漫画はそれができない代わりに、コマ割りと擬音が発展するのは自然と言えよう。

マンガは小説とも批評とも異なる新しい表現様式として現在の主流にある。この表現媒体が、新しいインターネットとデジタル(画像)というものと親和性が悪いわけもない。世界中の人々がそれを読む楽しみを知っている。

マンガという読み方については、twitterでも日常的な伝達手段になっているし、それは素人であろうと、読む楽しみを与えてくれる。それが話題となって出版にまでこぎつけた人も沢山いるだろう。

そうしてくると、これまでの雑誌に載っている「プロの漫画家」の作品というものが、実は漫画のなかのある表現形式のひとつでしかない事に気付いてしまう。ああいう形だけの漫画だけではない、というのは従来は、新聞の四コマか、政治批評の一コマ漫画くらいしかなかった。

ところが、デジタルに溢れる漫画は、そういう「プロ」の水準など構いはしない。だが、その「印刷物」ではない漫画に逆にリアリティを感じる。それが新しい波に感じる。

なぜなら、プロの作品は、どうこういってフィルターが掛かっているのだ。きちんと書いた冨樫義博の連載より、落す落さないでもめた末に鉛筆書きのプロットのままである方が、よほど生き生きと感じる。アニメーションのセル画によりも、原画の方が、よほど人間を感じてしまうのと同様である。

今後はコンピュータの発展で、コマとコマの間を補正してアニメーションにする仕組みも生まれるだろう。そうすると漫画とアニメーションの境界さえ消えてしまう。

だが、絵画と映画と漫画がきちんとすみ分けているように、アニメーションと漫画もどちらも生き残るだろう。どちらにも良さがある。

そして漫画ほど、多くの人が自分を表現できるものはない。落書きは、飛鳥時代の便所の壁にもポンペイの壁にもあったのである。その落書きを、漫画というスタイルにまで推し進めたのが日本の漫画家たちの功績であって、それを知った世界中の子供たちは、もう落書きなど書く事はないだろう。漫画を書くからだ。

デジタルの登場で、新しい表現が開拓されるはずだ。従来にあったページという概念がどうなるかさえ分からない。絵巻物のようにひたすら流れるようなコマ割りも可能なら、上下、左右、読み進めるうちのどちらに行っても構わない。下に落ちるシーンでは、ひたすら下に向かうコマ割りがあっても構わない。中心が大きなるようなコマ割りだって可能だ。擬音がいきなり出てきたり、読んでいる最中にいきなりコマが変わる爆発シーンだってある。いきなり暗くなる事だってある。

誰もが個人事業主になりやすい環境がそろっている。本業を持ちながら、作品を発表する人が増えてゆく。ツールがそろってゆけばゆくほど、様々な表現が増える。

そういう中で編集者は、ブラッシュアップする仕事になってゆくのだろう。それはダイヤの原石を磨くのに近いか。ビジネスが変わる。出版社というものがどういう形で変わるのか。何を売るのか、どうやって売るのか。

インターネットという鉱山で始まるゴールドラッシュか。話題になった人の作品を持って読みたいと誰もが思う。そうなった時にこそ、出版社が必要だ。きっと。そういう時にもっとも儲かったのは黄金を掘った人ではない、シャベルを売る人だと聞いたことがある。

もちろん、大量消費社会がこれ以上、続くはずがなく、紙(森林)を大量破壊する本がデジタルの置き換わるのは当然の流れだ。30年後には紙の本を見た事のある子どもはいないだろう。

きっと、それでいい。僕たちだって、今さら竹で出来た本を読みたいとは思わない。パピルスの本も粘土に刻まれた書物だってもう読まない。そういうのは歴史博物館で体験できれば十分だ。

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