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2019年06月09日14:24

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映画 ”僕たちは希望という名の列車に乗った”   


”僕たちは希望という列車に乗った”

恒例の父(86歳 ドイツ関連の仕事に従事)とドイツ映画&食事。

1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、列車に乗って訪れた西ベルリンの
映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当たりにする。
クラスの中心的な存在であるふたりは、級友たちに呼びかけて授業中に
2分間の黙祷を実行した。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した
彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは
“社会主義国家への反逆”と見なされる行為だった。
やがて調査に乗り出した当局から、一週間以内に首謀者を告げるよう宣告された
生徒たちは、人生そのものに関わる重大な選択を迫られる。
大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、
それとも信念を貫いて大学進学を諦め、労働者として生きる道を選ぶのか……。
(公式HPより)

予想以上にいい映画。
次第に厳しくなる追及に対して密告するかどうかの葛藤にハラハラ、
友情、親子、恋愛、現代にも通じる社会的テーマ、
それらすべてがうまく詰まっていました。
そして希望のある終わり方(先日見た”希望の灯り”よりもはっきりした)もすごく良いです。
これ、もっともっと評価されるべきエンターテイメントな作品やと思います。

クルトの母の”行きなさい”の強い言葉、反対していた父親との硬い握手、
テオの両親と弟との別れ(家族一緒に行くのかと思ったけど)、
そして最後のクラスみんなの意思表示の場面、ジーンときました。
実際、母親の場面とかでは周りからはすすり泣きの声が。

原作は実際に生徒の一人だった作者が書いた”沈黙の教室”、
宣伝では黙祷となってますが、
実際は先生が話しかけても2分間は”沈黙”しようという、
追悼しつつも半分は軽い冗談だったはず。
それがあれよあれよで話が大げさになってしまう恐怖。
それぞれの立場の人間が成果を上げたかったというのと、
ナチス時代の恨みや社会主義という複雑状況がそうさせたのでしょう。

親の過去まで暴いて子供に思い通りの供述を得ようとする体制側に、
すごく恐怖を感じますが、でもこれは資本主義の現在でもありうる話で、
いわゆる政権側に忖度する官僚の姿勢なんかはまさに同じ構造。
こういうメッセージがある作品がちゃんと作れるドイツは素晴らしい。
しかもそれが一流のエンターテイメントの作品として成り立っているし。
監督は前作の”アイヒマンを追え”でも同じようなテーマで撮っていて、
主張が一貫しているし、上手い監督です。

最後の場面で一人賛成しなかった女の子がいたのが、すごくリアルでよかった。
そら、いくら友情や信念は共感できても、
個人の事情やその場の圧力に流されず同じ行動を取らない、取れない人は必ずいる、
ある意味その孤立を選ぶ”強い意思”をさりげなく表現しているところに、
この映画の奥深さを感じました。

時々、社会主義から見た西側の書き方に頭がこんがります。
あちらから見ると当時の西側は資本家が搾取する、デマの国なんでしょうが。
まあ、難しいところです。社会主義も本当に公正に機能すれば理想ですから。
あと、生徒たちが意外と民主主義的多数決を重用するのも面白かった。

タイトル、ちょっと思わせぶりで、ライトノベルみたいですが、
なんとか興味を引き、たくさんの人に見てもらおうという配給会社の苦労が
しのばれます。
ほんま、ハラハラして、感動して、考えさせられる映画なので、
純数な若者のたちの素晴らしい青春映画として
先入観なくたくさんの人に見て欲しいです。


https://www.youtube.com/watch?v=hDAVEwL1V80



ここからは父親との鑑賞後の会話での備忘録的なもの。

映画の中で出てきたテオの父親が参加した1953年の東ベルリン暴動
(ノルマ未達の労働者の賃金カットから起こった)、
当時大学生だった父はよく大学の友人とこの問題を話し合ったそうです。
もちろん当時の日本では自由を求める労働者を応援する意見が多く、
もし授業で追悼の沈黙をしても映画とは違って許されてたでしょう。

父は1961年、ベルリンに東西分断の壁ができた二週間後にドイツに留学しました。
当時西ドイツの大学に東ベルリンからこの映画のように逃げてきた学生がいて、
たまたま西ベルリンにゼミ全員で行くことになった時、その生徒だけは飛行機で
行ったらしいです。列車だと東ドイツを通るので逮捕される可能性があるから
だったそうです。

ちなみに映画の中で生徒たちが乗る列車が出てきますが、あの路線は実は環状線で、
寝坊したらまた東ベルリン市内に戻ってくるという間抜けな現象が起こります。

当時(昭和36年)でもまだ元ナチスの残党狩りは普通に行われていて、
父もC級戦犯の裁判を傍聴しに行ったことがあるとのことです。
”上官の命令で殺しただけ、そうしないと自分が殺される”と反論していたとか。
公務員、ビジネス、芸術の分野で活躍している人が過去ナチス関係だったという
事実が暴かれるスキャンダルが頻繁にあり、
街中で若者が、年配者に向かって”このナチ野郎”と罵っているとこも、
よく目撃したらしいです。

父はたまたま1889年ベルリンの壁崩壊の時にもドイツにいましたが、
南ドイツの街にいたせいもありますが、翌年のワールドカップで
ベッケンバウワー監督率いるドイツが優勝した時の方が市民は盛り上がっていた
そうです。

1960年代にドイツに留学していた父の話、結構貴重な話なので、
もっときちんと聞いて、残しておきたいところです。
と言いつつ、がっつり父と向き合って話を聴くというのも、
なかなか気恥ずかしいもんですが。



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