少年ユーチューバーの父「学校のあり方見直す時期」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=5613433
この件については、多少の私見がある、折角の機会なので久々に文章を纏める気持ちになった。
まず、公教育というモノが万全ではない事は誰しもが感じている事であると思う。
最低でも日本人としてこの国に育っている者であれば、自他の経過は判らないにせよ、これを感じたことのない人は滅多に居ないだろう。
だが同時に、それにしても何故、今の公教育がこういった形態に成り上がったのか、という疑問を抱いて、それを声にしている人を見たことが無いのも事実である。
その上で、私が「この不登校児童とやら」に掛ける事の出来る言葉はあまりない。
何故なら、私自身として「取り敢えず、嫌でも学校に行っておいて損は、そんなに無い」と云い得るからである。
あと、学校に通わなくても生活していける、というのも事実であるが、それは可能性の問題であると言い切って間違い無い。
仮に、0.001%でも数字の上であるにせよ、可能性はゼロではない、と言い切れるからである。
勿論、結果論になる。
その上での戯言は私の義務であるにせよ……「学校に行かなくても生きていける」……は事実であるが、それが「満足のいける人生」になるかどうかの保障はない。
だからと云って、一定の学業を修めたトコロで必ず幸せになるとは断じて云わない。
それでも分別のある大人は、だからこそ忠告するのである。
大人であれば今の日本という国で生きていくということ、或いは、何れかの外国で生活していくという事、又は人間としてこの地球上で人生とやらをどうにかして成り立たせていく道というものをある程度知っている。
逆に他の道筋があるならば教えて欲しいのだが……。
この少年が踏もうとする道にどれぐらいの道があるのか。
再び云うが結果論として、彼の少年が人生を全うできるとして、それがどの程度の可能性になるのであろうか。
屡々、社会に対して革命的なキッカケをもたらした偉人が居るコトは事実である。
そしてその多くが自他共にその人生を全うしたと云い得るのであろうか、英雄が居て人を殺すの例え通り、僕で在れば「人として立派なのは結構だが、だからといって、少児の無知の儘、荊棘を踏み締めるのを座視するのは大人の分別ではない」と言い切れる自信くらいはある。
一部の人間は確かに公教育を背景にしなくても生きていけたのかも知れないが、だからといってそれは特異の才能の所以であり、その特異の才能は、数多の公教育により整備された社会に保障された世界があっての事である事を理解していない。
この少年が「間違い無く特異の才能」の萌芽であるというのならば結構、だが、主張は無謀の幼児と差異はなく、父親の妄言に介けられているというだけで見るべきはなかろうとならざるを得ない。
僕は全ての人間がまれながらにして平等という理想を、求める事はあっても、現存する事を信じてはいない、だからこそ、その埒外にある人達が、無知の少年、愚鈍の父親を唆す言葉を並べているのを見ると、一応の言葉を投げ掛けたくなるのである。
そして無知の儘それを擁護する筋肉馬鹿や、恨みで動く反社会的な豚を厭うのだ。
ログインしてコメントを確認・投稿する