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2019年05月02日10:51

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第5章 行いを放棄することについての章

4月22日の日記「第4章 知識による行いの放棄についての章編集する」に続きます。
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第5章 行いを放棄することについての章


クリシュナが明確に説明したにもかかわらず、アルジュナはまだうろたえているようでした。彼は行いをすることと、行いを放棄することの違いがはっきりとしていませんでした。

「モークシャ(自由)」に至るためには2つのライフスタイルがあります。
1つは知識の理解のために、社会の義務と権利を手放し、瞑想と学びに没頭する生き方をする「「ンニャーサ(出家)」。その生き方を選んだ人を「サンニャーシー(出家した人)」。といいます。

もう1つは、社会の中で義務を果たしながらも、知識の理解をめざして行いの態度を改める生き方。行いを「モークシャ(自由)」への手段とし、「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の態度で遂行すること。その生き方を選んだ人を「カルマヨーギー(カルマヨーガを収めた人)」といいます。

“義務” という行いさえも放棄する「「ンニャーサ(出家、放棄)」の生きかたか?
“行い” をしながら自由を目指す「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」の生きかたか?
どちらの道が優れているのかをアルジュナは知りたかったのです。」
クリシュナはどちらの道も「モークシャ(自由)」へ人を導き、どちらの生き方もゴールにおいて違いはない、と答えました。

クリシュナは個人の本質は「ブラフマン(普遍な存在)」=「プルシャ(本質・実存)」であるといい、「ブラフマン(普遍な存在)」に支えられ、現れている物事と物事を現わした力のことを「プラクルティ(可能性、根本原質)」={マーヤー(力)}といいました。

「プルシャ(本質・実存)」は行いをせず、また誰かに行いをさせることもありません。行いをするのは「プラクルティ(可能性、根本原質)」です。
「プルシャ(本質・実存)」は「プラクルティ(可能性、根本原質)である3つの「グナ(質)」を存在させ、機能させる原因です。人の肉体や、感覚、考えは「「プルシャ(本質・実存)」によって “存在” を支えられた「プラクルティ(可能性、根本原質)」によって機能しています。

自分自身を「プルシャ(本質・実存)」として認識する時、その人は束縛から解放されます。その人の知性は「ブラフマン(普遍な存在)」と一体になります。汚れや傷もなく、“好き・嫌い”」という区別から解放された存在がもともとの自分自身であるということを納得し、自由になることが 「モークシャ(自由)」です。

真実を知る賢者にも、体・心・感覚がある限り、それらの性質によっれ“好き・嫌い”という思いや、できること・できないこと、悲しいこと・嬉しいことなどあります。世界を味わう体・心・感覚がある限り、賢者も普通の人と同じように世界を味わい、世界に反応します。しかし賢者はそれらに引きずられたり、乱されたりすることはありません。自分自身は、それらを支えている “存在” であることをよく知るからです。

自分自身は世界の移り変わりや体・心・感覚の動き、物事を静かに見ている存在「サークシー(目撃者)}です。「サークシー(目撃者)}はいろいろな状況を揺れることなくただ見ています。賢者は自分自身が「サークシー(目撃者)}であることをよく知っています。

賢者は感覚の喜びに没頭して、我を忘れることがありません。感覚の喜びには必ず “始まりと終わり” があり、変わりゆくものだと知るために、溺れることがないのです。
クリシュナは、すべきことを社会の中で果たしながら知識を求める「カルマヨーギー(カルマヨーガを収めた人)」も、知識のために社会の義務と権利を手放す「サンニャーシー(出家者)」も、その生き方に違いはあっても、求めていることはどちらも「モークシャ(自由)」であり、どちらも自由に至ることができると断言しました。

「カルマヨーギー(カルマヨーガを収めた人)」は心の中にある「ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)から湧く様々な思いや欲望を「ヨーガ」によって昇華させ、知識を妨げる不純や障害を取り除くことができます。「カルマヨーギー(行いのヨーガ)」は心を浄化する手段です。

しかし、サンニャーシー(出家者)」にはこの心を浄化するための「カルマヨーギー(行いのヨーガ)」という手段がありません。「サンニャーサ(出家)」の生き方を選ぶ人は、すでに心の浄化はできているということが前提だからです。自ずと知識の追求だけを望む生き方を、他の物事に惑わされることなく選択することのできる人、瞑想の質を十分に備えている人が「サンニャーサ(出家)」の生き方です。こういう人は、人としてのごく自然な成熟のプロセスの中で自由への道を選ぶのです。

この章でクリシュナは、アルジュナに「カルマヨーギー(行いのヨーガ)」を勧めました。この時点でのアルジュナには、知識を理解するための心の準備がまだ必要であることを、クリシュナは見抜いていました。だからこそアルジュナに “戦いなさい、君のすべきことをしなさい。行いをして「カルマヨーギー(カルマヨーガを収めた人)」として生きなさい” といったのです。

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