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2019年04月22日08:59

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第4章 知識による行いの放棄についての章



クリシュナは「アダルマ(不調和)」が蔓延した時には調和をもたらすために、どこにでも、どの時代にも姿を現すといいました。「イーシュヴァラ(全体世界)」は人々の「ダルマ(調和)」を求める祈りによって、物質的な姿形「アヴァターラ(化身)」として現れることがあります。クリシュナは人々の祈りから現れた「アヴァターラ(化身)」であるといわれます。
アヴァターラ・クリシュナは人に行いの正しさを示します。

人はそれぞれ積み重ねてきた「カルマ(行い)」の結果によって、生まれや、義務、役割が違います。それぞれに与えられたことを、結果にしがみつくことなく遂行し、行いを「ダルマ(調和)」に一致させ、人としての精神的な成長と心の浄化を目的とし、行いをすることを「カルマヨーガ(行いのヨーガ)」といいます。

人は何をすべきか、何をすべきではないのか、するとしたらどうするのか。これらを自由意志によって選択できます。

物事の本質を理解する賢者は自分の “好き・嫌い” や欲望、期待から行いを選択するのではなく、「ダルマ(調和)』に従います。そして自分自身を「カルタ―(行い手)」とは認識しません。自分自身の本質は「アートマン(真我、真実)」、「ブラフマン(普遍な存在)」であると理解しています。

「アートマン(真我、真実)」は個として自由意志から選択し、行いをすることがありません。「アートマン(真我、真実)」を知る賢者には基本的に “自由意志の選択” に基づく行いはありません。それは結果の束縛を受けることがないことを意味しています。

体・心・感覚というのは人が使う道具です。それらは「アートマン(真我、真実)』に存在を支えられていますが、「アートマン(真我、真実)」は道具ではありません。賢者は体・心・感覚といった道具を使いながらも、行いの主体「カルター(行い手)」ではないということを知っています「行為の無為」。

自分自身の真実とは、「アートマン(真我、真実)」である。この真実を知ることによって、自分を満たすための物事や状況を手に入れる必要がなくなります。最初から自分自身が、完全に満ちている ”存在“ ですから、幸せになるために何かを得る必要がないのです。自ずと欲望は手放しされてしまいます。

世界が「ブラフマン(普遍な存在)」に満たされ、支えられているという事実を知る人は、 “行いをする人” も “行い” も、 “行いの結果”も、そのすべてが「ブラフマン(普遍な存在)」」にほかならないことを知ります。

この知識を理解するために、ヨーガとして行いを捧げることを、この章の中では「ヤグニャ(奉納)」という言葉で表します。クリシュナは、経典の勉強や、感覚や呼吸をコントロールするなどの行いを「ダルマ(調和)」に一致させ、行いを捧げる「ヤグニャ(奉納)」について詳しく説明しました。

“行いの放棄” とは、“自分が「カルター(行い手)」である” という自我意識を真実の知識で取り除くことです。

自分自身の真実は変わることのない 「アートマン(真我、真実)」である、とわかることで、単なる “行い手” としての個人の結論は取り除かれます。この自我意識が取り除かれたとき、人と全体世界の本質は同じであることが理解され、人は個として体・心・感覚という属性を持ちながらも、自由になります。

体・心・感覚という道具たちは、それぞれの性質によって世界に反応し,意志をもって行いをしているかのように見えます。しかし、その人自身の本質は変わることがない「アートマン(真我、真実)」です。自分自身を「アートマン(真我、真実)」だと認識する人に個人としての意図はないため、自由意志から生じる行いも、そこから生じる争いや緊張もありません。

それ故、行いと結果が繋がる「カルマの法則(行いと結果の因果律)」に縛られることはありません。知識によって行いを放棄すること、これが第4章のテーマ、「ニャーナ・カルマサンニャーサ(知識による行いの放棄)」です。

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