阪急梅田駅
ここのディスプレイに
松岡修造氏が出ていました。
松岡修造氏は熱い男!!
その曾祖父は
阪急電鉄を作った、あの「小林一三」である。
「イナゴでも乗せるのか」といわれていた「遊覧電車」の予定であった、箕面有馬電気軌道を
沿線開発するほか
「三流温泉」と呼ばれていた宝塚温泉客の「余興」だった少女歌劇を興したその「熱いDNA」は、間違いなく曽孫の松岡修造に引き継がれている。
■彼のいない日本は寒い。なぜ、松岡修造はここまで熱いのか?
(まぐまぐニュース! - 06月13日 04:20)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=240&from=diary&id=5152957
元プロテニスプレイヤーにして、その明るく前向きで熱すぎる言動が大人気の松岡修造さん。信じられないかもしれませんが、以前の松岡さんは物事の捉え方が「消極的」だったといいます。無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、あの和の鉄人・道場六三郎さんとの対談で、その消極的な性格を現在の前向きすぎるものに変えたメンタルトレーニングを紹介しています。
中村天風と松岡修造
プロテニスプレーヤーとして、日本のテニス界を牽引してこられた松岡修造さんですが、現役時代はケガとの闘いの連続でもありました。
松岡修造(スポーツキャスター)×道場六三郎(銀座ろくさん亭主人)
道場 「松岡さんは現役時代、世界を舞台に大活躍されましたけど、その陰ではいろんな逆境や試練もおありだったのではないですか?」
松岡 「僕の場合は怪我が多かったですね。プロになって3年目、21歳の時のことですが、初めて世界ランキングトップ100の壁を破ってこれからだと意気込んでいた矢先に、両膝に痛みを感じるようになりました。翌年の春に手術を受け、リハビリをしながら夏に復帰したものの、悉く初戦負け。ランキングは445位まで下がり、焦りは募る一方で、何もかもが絶望的に思えてきました。自分を悲劇の主人公のように考えてしまっていたんです」
道場 「どん底に落ちてしまった。度重なる試練をどう乗り越えられましたか?」
松岡 「根本的に僕は物事の捉え方が消極的なんです。たぶん世間の人は逆だと思っているでしょうけど(笑)。だから、『何でこんなに頑張っているのに、こうなっちゃうんだ……』と思うことがすごく多かった。それを前向きな捉え方に変えるために、様々なメンタルトレーニングを取り入れたんですが、一番よかったのは中村天風先生の『絶対積極』の思想ですね。ちょうどウィンブルドンベスト8に入った年に中村天風先生の本を読み、講話テープを聴き始めました。中村天風先生が一日の始まりに唱える言葉があって、それを自分なりにアレンジし、一日二回声に出して言うようにしたんです」
道場 「どういう言葉ですか?」
松岡 「『独立決断/自分はけが、病気は絶対しません/怒らず、恐れず、悲しまず/正直、親切、愉快に/力と勇気と信念を持って/自己に対する責務を果たし/愛と平和とを失わざる今日一日/厳かに生きていくことを誓います』。これを朝起きた時と夜寝る時、鏡の前で毎日言い続け、試合に復帰した姿や優勝した姿をリアルにイメージしていったことで、自分の本当の力を生み出せるようになったんです」
image by: 松岡修造オフィシャルサイト | SHUZO MATSUOKA OFFICIAL SITE
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