夕暮れはいづれの雲の名残とて花橘に風の吹くらむ
藤原定家
今となっては恥ずかしい事だが、私も若くして何が本当に美しいかも分からなかった頃は、
定家の匂い立つような官能美がつまらなくわざとらしいものに見え、あざといとさえ感じられていた。
定家の歌の美の真髄は、万葉集、古今集をはじめ定家以前の古典(伊勢物語、源氏物語等)への深い造詣と、昔の人の心情(境遇・運命)に共感し寄り添う心が無ければ見えてこない。
定家は必ず、歌に自分自身の心情のみでなく昔の人の心情を重ねて詠んだ。
それらの歌は定家個人の心情を超えて遥か過去にまで遡り、
幾重にも深く織り込まれ熟成され、昔の人の心情と呼応し、
この世の無常やもののあわれや虚しささえも超えて、
有心的幽玄的叙情の象徴美へと昇華した。
定家の歌の真髄は、まさにこの“本歌取り”(古典との交響)にこそある。と言う事に気付くのに、
私には少なくとも自分自身の無知と未熟さを反省するだけでなく、
多少なりとも世間の辛酸を舐め、諸行無常を悟り、自然と人生の終焉を意識するような経験とある程度の年齢に達する事が必要だったのである。
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