mixiユーザー(id:9783394)

2018年12月14日05:42

195 view

威信を守る〜後編〜(0145 E.R.A.)

前回冒頭で少し書いたように、純イギリスのGPレーシングカーは1920年代のサンビーム以降長らく登場していませんでした。だから、1934〜38年に17台生産された純イギリスのレーシングカーであるE.R.A.は、勝利を重ねて本稿のタイトル通り「威信を守った」イギリスの至宝と言えます。
現在の所有者は良い状態で維持することに腐心し、4台作られた原形のAタイプは全て、13台作られた改良型Bタイプは12台、すなわち生産17台のうち16台か現存するという驚くほど高い生存率を誇ります。しかも全て走行可能なんです。
なおC/D/Eタイプもありますが、それらはA/Bタイプを改造したもので新しいシャシー番号は与えられておりません。例えば4号車は1935年に作られたR4Bですが、次々に改造されて最終的にR4B/C/Dというシャシー番号になっています。

E.R.A.のエンジンは、ヴォワチュレット・クラス用としてライレーの直列6気筒1486ccOHV("DUHC"、本稿0122参照)が基本ですが、1100cc及び2000ccクラスに適合するような排気量のモノも用意できました(ライレーが作っていたからです)。
これにジェイミソン(前回参照)設計のルーツ式スーパーチャージャーを取り付け、メタノールを燃料に15psi以上の過給圧をかけて、1500ccエンジンは180〜200馬力、2000ccは250〜275馬力の出力を発揮しました
そしてウイルソン社のプリセレクター・ギヤボックスと共にオーソドックスな梯子型シャシーに搭載されていました。なお、BタイプはX型の補強メンバーがシャシー中央部に追加されています
このシャシーに取り付けられていたサスペンションは、前後ともリジットというオーソドックスなモノでした(すでに4輪独立は当たり前でしたけど)。
ブレーキはガーリング製のドラムブレーキで、市販車にも油圧式ブレーキが浸透しつつあった頃ですけど、E.R.A.が採用したのは実績(安心感)のある機械式でした。

さてここで、製作された17台すべてのスペックやヒストリーを書きたいところですが長くて退屈ですので、外せない"White Mouse(ホワイトマウス)"チームのことに絞りましょう。
1935年初頭、E.R.A.は第3番目のオーダーを受けました。それは東洋のシャム(現在のタイ)王国のPrince Chula Chakrabongse(プリンス・チュラ)からで、従兄弟のPrince Birabongse Bhanutej(フランス・ビラ)の21歳の誕生日にレーシングカーを買い与えたい、というものでした。
2人のシャムの王子は、プリンス・チュラがマネジメント全般、プリンス・ビラがドライバーの「ホワイトマウス(白ネズミ)」という名称のレーシングチームを作ろうとしていて、そのマシンには2人が留学していたイギリスのレーシングカー(ヴォワチュレット・クラス)を選ぶのは当然のことだったのです。
フォト

E.R.A.からデリバリーされたのは1500ccエンジンを搭載したR2Bでした。ビラブルーと呼ばれた明るい青(シャム/タイのナショナルカラーでもあります)に塗られたこのR2Bは、1935年シーズンは一度もリタイヤせずに良い成績を残しました。優勝こそないものの、フランスGPとスイスGPで2位に入ったのです。

翌1936年シーズンはチームにR5Bが加わりました。それに伴い、R2Bは“Romulus(ロムルス)”、R5Bは“Remus(レムス)”と呼ばれるようになりました。なお、ロムルスとレムスはギリシャ神話に登場する、狼に育てられた双子の兄弟です。
プリンス・ビラは引き続きR2Bに乗り、モナコGPやフランスGPでの勝利に加え、マン島のレースで2位、ニュルブルクリンクで3位になるなど目覚ましい戦績を残しました。特筆すべきはワークスE.R.A.に乗るメイズを抑えてのブルックランズでの優勝でしょうか。
フォト

1937年になるとR2Bは古さを隠せず、より新しい他車の後塵を拝することが多くなりました。先頭集団にはいたのですが勝てないのです。
なお、このシーズンはR5Bは使われず、Tony Rolt(トニー・ロルト)に売却されています)。

そこで翌1938年、チームは3台目のE.R.A.、R12B(後にR12B/Cに)を迎えます(これに伴いR2Bは引退することになります)。
新しいR12Bの安定感は素晴らしく、1938年シーズンに出場したレースの半分に勝ったという記述があります。真偽のほどは?

1939年シーズンは第2次世界大戦が勃発(9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告)し、GPレースはフルに開催されませんでした。
E.R.A.はダメージを負ったR12B/Cに替えて引退させたR2Bを引っ張り出しますが、フランスGPでポイントをあげたのみでした。

R2Bは1971年までプリンス・チュラが所有しました。ワンオーナーであること、プリンス・ビラの操縦でGPに数多く勝利していること、などの理由で「究極のE.R.A.」とされています。
ボア57.5×ストローク90.8mmの直接6気筒1488ccエンジンは最終的に166bhp/6500rpmを発揮し、ホイールベース2438mm、車重915kgの車体を280km/hで走らせたといいます。

なお戦後の話になりますが、あのBloody Mary(ブラディ・マリー、カーグラフィック"CG"誌2005年1月号参照。またはmixi日記2007年7月5日 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=488376515&owner_id=9783394 )を作った John Bolster(ジョン・ボルスター)がシルバーストーン・サーキットでR2Bをクラッシュさせました。路面にこぼれていたオイルに乗ってしまってスキッドしたとされています。1949年のことです。
フォト

大ケガを負ったボルスターはこれを機にレースを引退し、モーター・ジャーナリストになりました。

8 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年12月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     

最近の日記