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2018年12月08日19:51

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性的欲望もたない「アセクシュアル」 恋愛経験なく自責の念も

■性的欲望もたない「アセクシュアル」 恋愛経験なく自責の念も
(AERA dot. - 12月08日 17:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=541054

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他者に性的に惹かれない性的少数者を指す「アセクシュアル」という言葉が
広がりつつある。社会で生きづらさを感じる当事者も声を上げ始めた。

【写真】東京・町田市議会議員の東友美さん

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「恋愛しないなんて人間じゃないよ」

 5年前、なかけんさん(22)はバイト先でそう言われた。なかけんさんは恋愛したことがなかった。そもそも、恋愛感情が分からない。ショックを受け、自宅でパソコンを開きネット検索した。「『恋愛感情』『ない』」

「たどり着いたのが『アセクシュアル』でした。ああ、これだったんだと安心しました」

 アセクシュアルの定義は統一されていないが、「恋愛的感情の有無にかかわらず、他者に性的に惹(ひ)かれることがない人の総称として提案したい」と、アセクシュアルを研究する三宅大二郎さん(27)は言う。他者に恋愛的にも性的にも惹かれない人や、恋愛的には惹かれても性的には惹かれない人など、多くのカテゴリーがある。なかけんさんの場合は前者だ。性的少数者の一つとされるが、当事者にもまだ、この言葉の認知度は高くない。

 恋愛的にも惹かれないアセクシュアルの人は、思春期に周りとの違いを感じ始めることが多い。「誰が好き?」と聞かれても、恋愛の「好き」が分からず答えにつまる。相手が自分に恋愛感情を持っていることが理解できずに、関係性が壊れてしまうこともある。「まだ運命の人に出会ってないだけ」「恋しないなんて人生損してる」という周囲の言葉に戸惑い、何か欠陥があるのではないかと自問し、恋愛できない自分を責めてしまう。

「アセクシュアルを含めた性の多様性について知ってほしい」と、なかけんさんは動き始めた。「性」を語るユニット「性性堂堂」を作り、ユーチューバーの活動を始め、三宅さんと「アセクシュアル啓発委員会」も立ち上げた。

 11月10日には、早稲田大学のGSセンターでトークセッション「あなたの『好き』と、わたしの『好き』、どう違う?」になかけんさん、三宅さんら5人が登壇し、当事者としての思いや悩みなどについて語り合った。会場には325人が集った。

 アセクシュアルの当事者発信は広がってきている。東京・町田市議会議員の東友美(ひがしともみ)さん(34)も声を上げた一人だ。町田市議会の9月定例会で、アセクシュアルであることを公表した。

「市にはLGBTの支援が何もないんです。だから相談窓口を作ってほしいと思い、議会で訴えてきました」と話す。自身も性的少数者の当事者だと公表することで、強い意志で問題に取り組んでいくという表明でもあった。

「アセクシュアルという言葉を知ることで、悩んでいる人に、自分一人じゃないことも知ってほしかった」(東さん)

 東さんが違和感を覚えたのは高校生のとき。周囲の恋愛トークについていけなかった。「人並み」になりたいと男性と付き合ってみたが、うまくいかない。

「この“欠落”も自分の個性」と受け止めて生きてきたが、性的少数者の支援活動をする原ミナ汰さんから、「それは欠落でも何でもない」と言われた。

「うれしいと同時に、すっきりしました。これでいいんだと思えたんです」

 アセクシュアルを公表してから、SNSなどには「あなたのような人間が日本を壊す」と否定的なコメントもあったが、「これから理解していきます」「私もそうです」といった言葉も多く寄せられたという。

「当事者もそうでない人も、知る機会があれば変わっていくことがあると思うんです」

 東さんはそう期待をする。なかけんさんも思いは同じだ。

「アセクシュアルである自分を受け入れることで、自分の生き方を大事にしたいと思えた。知ることで救われる人もたくさんいると思うから、まずは知ってほしい」

(編集部・大川恵実)

※AERA 2018年12月10日号
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少し調べればアセクシュアルの他にノンセクシャルもあって、若干意味が異なるらしい。

asexual はギリシャ語由来の否定の接頭辞 a によりsexualを否定する。nonsexualもラテン語由来の接頭辞 nonによりsexual の非定を行う。

sexual は性的な、という意味だから、a- は性的でない、という意味になる。non- も性的でないになるのだが、この辺りは英語のニュアンスと日本語のニュアンスの違いがあって、分かりにくい。

セクシャルというものは恐らく5万年前の人は、こういうものに悩みはしなかったろうと思われる。欲求がないなら、それで構わないという生き方をしただろうからである。

逆に言えば、欲求があれば同姓であろうが動物であろうが、死体であろうが幼児であろうが、そう構わず行動に移した、または移す事が現在よりも簡単であったろうと思われる。

もちろん、相手の意思や集団としてのタブーは早くから存在していたはずで、そう乱暴に行動できたとも思えない。

ヒト属の最初に登場した警察官が誰であるか記録にはないが、我々が抱える悩みの多くには「人がそう定義したから」という側面がある。

そういうものが極めて社会性の根付いたものであって、簡単に言ってしまえば、社会は常に自分たちの現在をバックアップして後世に伝えようとしており、当然ながら、そこに善悪というフィルターはない。

だが、そこから取り出す時には、現在の善悪という属性を付した形でしか取り出せないので、人間に本来備わっている同調性が、自動的に他者との比較を行う。

特に思春期、青年期にはその傾向が顕著であって、人との違いには敏感でもあろう。これは一つに教育の問題がって、正解が極めて狭い範囲で設定された問題としか触れていなければ、そこからはみでる幅が大きいほど、不安を感じるのは当然である。

学校で教える内容について常に100点を良しとする圧力がある。掛け算の順序問題だって、その根底にあるのは、そのような理由で×とされ点数が下がることは許容できないという圧力であって、それ以外の理由は後付けの類である。

しかし、教科によって違いがあるものの、今の教えている内容のうち、100年後にも変わらないのは50%程度であって、残り30%は恐らくそのまま、最後の20%は確実に書き換えられるであろう。ただし算数、数学は除く。

ということは、残り20%が理解できない子供は聡明なのかも知れないという仮定がありえて、その子供にとって間違いが自明なものを間違っていないと教えられれば混乱し意欲を失い、ついには未来のノーベル賞受賞者を(別にだから賢いってわけではないが)ただのうだつの上がらないサラリーマン
にしているかもしれないのだ。

学業で重要なことは50点以上をとれば十分。75点もとれば最高であって、それ以上の点数では、ちょっと体制に従順すぎて心配になる。人は配置、と語ったのは確か武田信玄だったか、とかく人を使うとは、どう配置するかという意味であって、配置する以上はレイアウトを持っていなければならない。

いずれにしろ、同調しようとするから違いに気づく。人類種は違いを見つけるのに長けた動物だから、違いがあれば、そこに執着するのも自然なのである。

様々な違いが、多く人類を前進させる力の源泉となったが、同時に様々な悲劇も生み出した。肌の色、人種、民族、文化、そして性。女性が今も社会的にはアンフェアな立場にあるというのは確かであろう。少なくとも、男女の違いを見分けられない人間は極めて少ない。それは2歳児でも判断できるほどの違いなのだ。

そうすると恋愛感情というものと、恋愛における肉体的性と、快楽としての性と、様々な視点から人を分類するのは簡単である。しかも、恋が性欲の効率的な消費行動にすぎないとすれば、次は愛の登場である。

そもそも愛ってなんだ、男女もあれば、同性もある。相手の星系を滅ぼした後に愛とか叫んだ人もいる。家族もあれば、会社もある。民族もあれば、国家もある、人類といったかと思えば、動植物もある。鯨だっている。

ウナギをこよなく愛するという人が、この絶滅の危機にあっても平気でウナギを食べるのを見ると、この人の愛とはなんだろうと思ったりする。虫をこよなく愛するという人が、網を持って虫を取っては、殺して解剖する科学者を見ると、これを愛といわれる虫こそがいい迷惑だろうと思ったりもする。そういえば、今でも愛されていると語ったAKBのストーカーの人もいた。

愛など自己満足でいいんだろ?と言われればそういう気もするし、でも相手もいることだから、と思えば、なら俺一人を愛する分には問題なかろう、という人もいるが、人間は社会的動物だから、俺一人の命は、俺一人の勝手気ままにはできないものである。家族、友人、コミュニティ、そういうものから完全に離れるのは難しい。ロビンソン・クルーソーでさえ、空想の中で毎日のように他人と会っていたはずである。

いずれにしろ、性と恋愛というのを分離できそうだし、分離できなさそうだし、分離できるならば、更に細かく分類できるだろう。愛という一言で片づけられるような恋愛などひとつもない。性的衝動であったり、依存であったり、転換、歪曲、投影、理想化、抑圧、どのような気持ちから起きたかなど分かりようもない。ストックホルム症候群だってひとつの愛の形だろ?

人間には感情というものがある。民族、文化、時代さえも超えて、我々は感情をとっかかりにして人間同士のコミュニケーションを続けてゆく。もちろん、感情を持つのは人間だけではない。地面で跳ねているミミズに感情を感じる。

それを分離し、分類してゆけば、多くの人に見られるパターンと見られないパターンが現れるのは当然だ。その中で、他の人が持っているものを自分がもっていない(かも知れない)、と考えるのは恐怖であろう。フロイトはまず男女の間でこの感情を分析してみせた。

他の人が持っていないものを持っているのは多く、ギフトと呼ばれる。確かに学術や芸術でそういう才に恵まれた人もいる。だが、同様に、小児性愛というギフトをもらった人もいる。

一方で他の人が持っているものを持っていないことに引け目を感じる人もいる。性的な愛情を感じる能力を持っていないと考える人がいる。同性しか愛情を感じない人もいる。タイガーウッズのように乗り越えなければならなかった人もいる。あれはもっと根深い人種や文化というアメリカ文化そのものとの対峙だったのだろうと思ったりもする。

だが、空気を読む能力を失っているからこそ、仕事に最高のパフォーマンスを発揮する人もいれば、相手に同調できないから、優れた精神科医になった人もいる。ないこともまたギフトなのである。

ある、とない。これを数学的に表したら0とそれ以外という事になるだろうか。では負のギフトとは何であろうか。この正負を決めるのは神ではない。我々の社会である。

もし神が食欲を感じないギフトを授けていたら、と考えると怖くなる。そういえば、中国で空腹しか感じられないギフトをもらった少年が死亡したという記事を読んだ。痛みを感じない人は骨折しても気づかないそうだ。

プログラミング的に考えると恋愛感情を感じないというのは、そういう能力がないとは考えない。もし神ならそんなひとりひとりをオーダーメイドで設計したりしない。全員を同じ設計にしておく。恋愛感情という関数ポインタはあるに違いない。ただ、NULL(ナル、ヌル)なのだろう。

衝動が起きて悩む人もいる、衝動が起きなくて悩む人もいる。

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