「嘘偽りの無い大丈夫。」
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自作発言は厳禁です。 ※
想定時間は10〜15分程度。
こちらの作品は
「少しだけ特別な水曜日。」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964242262&owner_id=24167653
を意識して書かれたものです。
―本編―
“大丈夫”とは何だろう。
大丈夫とは、元々は男らしい、しっかりしている、健康的である、危なげない。そんな感じの意味の言葉。だいじょうぶ、だいじょうふの他に、この漢字でますらおとも読むらしい。
私はこの言葉をよく使っている。いや、むしろ使い過ぎている。単純に自分の言語能力が、自分の心を表すのに追いついていないという事だろう。
大雑把に赤色と言っても緋色と朱色、紅色、牡丹色は少しずつ違うように、相手や場面といった種々(しゅじゅ)の状況が異なれば、その種々の状況に応じた「伝わって欲しい気持ち」も「伝えるべきことがら」も違ってきて、結果として「遣うべき言葉」も違う筈なんだ。
大勢に向けた公演や歌、芸術作品等においては、あえてそこを限定的にし過ぎない方が良いという事もきっとあるのだろう。あえて抽象的な言葉その他によって表現する事で、受け取り手に自らの中から具体的な言葉や気持ちを引っ張り出して貰い、受け取り手の中で完成させて貰う。そういった技法もきっとあるのだろう。
だが、それが良いと思うときもあれば、そうでないときもある。解釈の余地なんて生まれないで欲しい。本当に、今自分が抱いている気持ち。それ、そのものをできる限り誤解なく、できる限り正確に伝えたい。そんなときもある。
前者と後者の違いは、状況の違いよりも自らの心持ちの違いによって生まれるのかも知れない。私は大勢に向けたものなら前者、一人ないし極めて限定された対象に向けたものなら後者が適っていると思う事が多い。
だがそれは単に私の心持ちの問題で、一人ないし極めて限定された対象に向けたものであろうと、受け取り方はその人に任せると言い切ってしまえる人も居るのかも知れない。反対に大勢に向けたものについても、極力自分の意図がそのまま伝わるよう、解釈の余地など生まれないようにしたいという人も居るのかも知れない。
何が言いたいのかと言うと、私は彼に対して、他ならぬ彼に対して“大丈夫”という言葉を使ったのを後悔しているという事だ。
私は、近頃すっかりこの言葉を便利に使いすぎてしまっている。知らない子供をあやす時にも大丈夫、強がる時にも大丈夫。人を励ましたい時にも、安心させたい時にも、大丈夫。
私は、よりにもよってあの時、彼に心配して貰っておいて「大丈夫。安心してな」などと言ってしまった。
恐らくその後、別れの挨拶くらいはしたのだろうが、おおむねその「大丈夫。安心してな」が私の彼に放った最後の言葉に近いものだろう。
私はあの時、心配してくれた彼に対して、どれほどの誠実さを以てその言葉を使っただろう。深く考えず、とりあえず使える汎用性の高い言葉の一覧の中から適当に、その時の状況に対しある程度の妥当性を持った言葉を引っ張り出しただけではないのだろうか。
それこそ、仕事先で使う「ありがとうございます」「お疲れ様です」「少々お待ちくださいませ」「大変失礼いたしました」「非常に心苦しいですがこちらでは対応しかねます」と同じようなものだ。とりあえずその言葉が反射的に出るようにと、あらかじめ自分の中で機械化されている。
仕事先なら、それも別に良いのだろう。頭の中にひな形を用意し、そこにその場面において適切と思われる語句を当てはめる事で瞬時に文面を完成させ、声を発する。それが求められる場所も確かに存在するのだから。
でも、彼に対してそれは嫌だ。彼は私が自分の心を整理し、その心を表すのに適切な言葉を探すという行為に時間をかけていても、それを、じっと待ってくれたじゃないか。
だったら私は、ちゃんと本当に自分の言い表わし伝えたい事をきちんと考え抜いて、その上でその伝えたい事を伝える為に必要な言葉を探して表現すべきだったんだ。
なのに私はその場で適当に「大丈夫だよ。安心してな」と、でまかせを言ってしまった。どれほど薄っぺらく軽い言葉だった事だろう。
だからこそ。私は彼とまた会う機会がもしあったなら、その時は「ふふん、だから大丈夫って言ったろ。」って言いたい。会う機会はなくても、もし彼が私を見つける機会があったなら、彼に「大丈夫そうだ」って思われたい。
だからちゃんと、本当に大丈夫になるんだ。
では再び、“大丈夫”とは何だろう。ここで大丈夫という言葉の色んな意味の中から、私が彼に伝えたい「私は大丈夫だ」というところの“大丈夫”とは特に“無事に生きていて、その無事である状態がある程度以上に安定性と継続性が認められる事”を指すのだと考えてみる。
今、私は少なくとも事故や盗難等の有事が起きない限りは普通に生きていけるだけの収入を得る事ができている。では、これを指して“大丈夫”と言えるだろうか。いや違う。
なぜなら私は、いつか来る頑張れなくなる時を恐れているからだ。
機械の電池が切れた時のように、さっきまでできていた事が、ふと何もできなくなる。そして機械のように再び電池を入れ替えてすぐに再開なんて事はできない。そんな理不尽で面倒臭い事に、またなる事を恐れているからだ。
そうして私は、幾度となく自分が積み上げて来たものを自分で壊してきた過去がある。あの時の頑張りも、またあの時の頑張りも、何度も何度も自分で壊してきた。そして今の頑張りを壊すその時は、今日じゃなくても、明日じゃなくても、いつかきっとやって来る。
きっと私は、またいつか、電池が切れた機械のようになる。そしてそれまでの頑張りで積み上げたものを壊してしまう。当然、もし社会人である今またそんな事になったら当たり前の如く職は失う事となるだろう。
その恐れを無視して言う“大丈夫”は、きっと嘘だ。じゃあどうすれば、その恐れと向き合った上できちんと“大丈夫”で居られるのだろう。
思いつく限り三つ。
まずは、なるべく壊さないで済む状況を作る。そのためには心の電池を節約する事。頑張りすぎない。たとえ良い事であっても、無理に何かをしようとし過ぎない。何かするにしても、気長に、すぐに結果を求めない。焦らない。焦っているとしたらその焦りをきちんと自覚し、色んな事を試してなるべく落ち着こうとする。お香でも音楽でも。そして落ち着こうとする事に焦らない。
次に、壊し方を先に考える。計画的に壊れたのと不意に壊れたのでは、その壊れた先の結果は全然違うものになる。だから自分が限界を迎えて、壊し方を選べなくなる前に、限界が近づいた事を察したら自分から壊す。その心の準備を先にしておく。そしてどんな壊し方なら自分が立ち直り易いかを先に考えておく。例えば八つ当たり等をしてしまったら、立ち直るのは余計と難しくなるだろう。単純に何もできなくなって、部屋からも出られなくなって職を失うだけならまだ立ち直り易いだろう。
最後に、壊しても大丈夫だと思える状況を作る。自分の電池が切れてしまった時、どんな事に不安を覚えるのかを考え、また、どんな制度に頼れるのかを先に調べておく。どんな社会保障制度があり、それを利用できる要件はどのようなものか、先に調べておく。退職届け他のセットを先に用意しておくのも良い。今、先にひな形を印刷しておこう。
ああそうだ、ついでに3つ目の一環として、自分が自分を壊してしまった時のために、そんな自分へのお手紙を書いてみよう。「今までたくさんたくさん、頑張ってくれてありがとう。後は任せろ。」……この言葉がその時の私の心にどんな作用を起こすのかは、今の私が計り知る事はできないけれど。
こんなところだろうか。
思えば今までの人生で、本当に、幾度となく自分が築いたものを自分で壊して、その度、自分は生きる事に向いていないんじゃないかと悩んだものだ。でも、とっても大きな自慢に値する事があるんだ。多分私、その度、そんなには人に八つ当たりしないで生きて来られてる。
もしそれが違っていたら、多分今思っている事もまた大きく違っていたのだろう。
かと言ってそれでも不安は全然なくならないけど、私は今でも一つ一つ、焦らずゆっくりと、“大丈夫”を作るために頑張っているよ。
最近またひとつ、つらい時に対処する方法を覚えたんだ。目を閉じて深呼吸して「ここでどうするのが格好良いか」って考えてみるんだ。偉いでしょ。ほら、私さ、頑張ってるんだよ。頑張りすぎないようにだから歩みは遅いけど、頑張っているんだよ。
だから、もしいつかの未来また彼と出会えるのなら、それはあの時とは違う、嘘偽りの無い「大丈夫」をちゃんと口に出せるようになるその時まで、もうちょっとだけ待っていててね。
なんて、嘘。もし会えるのなら今日でも明日でも、いつでも会いたいですよ。
―完―
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