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2018年11月01日21:12

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11月

11月になって、ふと思い返して10月の日記を見てみたら一月に2回しか日記を書いていなかった。もう少しこまめに書かないと”日記”にはならないなー・・・と反省。

<読書>
「進化する遺伝子概念」(J. ドゥーシェ著、佐藤直樹訳、みすず書房、2015)・・・読書開始。久しぶりの生物関係の本。現代では”遺伝子”とは何か・・・と言う問いかけに対しては、DNAだの塩基配列だのコドンだのと言った用語がペラペラ出てきて、一見当たり前すぎて疑問は殆ど無い問題になっている様にも感じることもあるけれど、よく考えてみると”遺伝子”の概念と言うのは意外なほど曖昧で、その抽象的な意味や意義はもとより物質的・化学的機能・機序の観点から見ても解明されていないことが多いことに気がつく。ワトソン・クリックのDNA二重螺旋の発見以来、”遺伝”がもつとてつもなく広範囲な現象領域の全てを”遺伝⇔DNA”のセントラルドグマに集約して単純化してきたことの限界が見えてきているらしい。遺伝のもつ継承(不変)と進化(変化)という本質的には矛盾にも見えるもののバランスの説明は確かにとても難しい。
まだ、読み始めたばかりで、本書がどういう主張をしているのか判らないけれど、楽しみに読んでいきたい。
ところで、本書の著者はフランス人なのだが、”はじめに”にこんな記述がある・・・・

<遺伝学が流行りである。新聞でもラジオやテレビでも、「遺伝子」、「遺伝学」、「ゲノム」、「DNA]などの言葉が出てこない日は無い。もはや、遺伝学への関心が、専門的な生物学者の世界から遠く離れて一般人に広まった様である。もしそうなら、これは科学と言う文化にとって、すばらしい勝利かも知れない。ことにフランスでは、文化を構成しているのが芸術や文学や哲学あるいは人文科学、社会学、歴史学、それに多少の人類学の知識であって、少なくとも自然科学のような「難しい」学問から文化が出来ているのではないと信じられているので、これは特異なことである。>

文化への自然科学の寄与についてのフランスのこう言う認識はちょっと意外である。この著者独自の限定された認識なのか実際一般的な認識なのかは、よく判らないところもあるが、確かにフランス(ヨーロッパ全般?)における芸術や人文科学に対する興味・意識、社会への浸透力の強さはしばしば感じることはある。その意味では、少なくとも相対的な意味合いにおいては、社会における[文系]>[理系]の比重という伝統はあるのかもしれない。

そんなことを考えていると、こんな新聞記事を思い出した・・・・

<ニュースA>
>日本の研究力低下、悪いのは…国立大と主計局、主張対立(https://www.asahi.com/articles/ASLBD56JXLBDPLBJ006.html?iref=comtop_favorite_01)

まあ、日本の[理系]基盤の弱体化はかなり前から言われていて、そのあからさまな契機が”国立大法人化”と”国の「競争政策」”にあるというのもよく議論にはなる話である。それに対して、大学と政府と”どちらが悪いのか?”・・・・と言う議論の立て方は、随分情け無い・・・・と言うか、両者共(或いはソウ書き立てる新聞)に「学問」と言うものに対する矜持・認識に欠ける話で、それ自身我が国の「文化」における”自然科学”の地位の低さを示しているなー・・・とも思う。
理系にせよ文系にせよ、組織の様式だとか予算の配分だとか言う話は、実際の研究実行段階においては重要には違いないけれど、それ以前に(科学)研究に取捨選択の過程を取り入れるのであれば、取捨選択に当って「(”未知”を見据えて)何を研究するのか?」についての”理念”が当然必要である。それには、言わば科学の”目利き”が必要だが、残念ながら未だ輸入文化としての科学の影を引きずる我が国では、そう言った”目利き”の組織・人材の層が薄いと思う(勿論、優秀な”研究者”は我が国にも多く居るが、優秀な研究者=優秀な目利き・・・と言う訳ではない)。
ある意味で科学は理念を物質化・具象化する学問であるけれど、その理念を見通すことなく行われると大抵の場合物資化・具象化された結果は実利的ではあっても”その場(時)限り”のものになって、文化として定着することは無い。実利の先を見通す理念なしに研究を取捨選択して”集中”を行えば、(”当り”も無論無いことは無いだろうが)”外れ”も多くなって全体的な効率は当然落ちる(・・・研究力低下)。いっそ明確な理念が無いのであれば、寧ろ下手に取捨選択するよりは薄く広く(公平に?)分散したほうが(突出した”当り”は減るかも知れないが)全体の効率は上がる可能性はある。歴史的に観れば、バブル崩壊以前の我が国は多かれ少なかれ分散方式で自然科学の研究基盤を維持していたが、昨今の集中方式で基盤研究力の低下をきたして来た・・・と言う事だと思う。
その意味で、もし我が国にも強力な科学の”目利きの文化基盤”があるのであれば、集中方式も悪くは無いのだろうと思うが、残念ながら未だのソウではない(らしい)我が国では、限定された予算をどう生かすのかについては何か別の方策(必ずしも昔の”ばらまき”戻ることでもない)を模索する必要に迫られている時期に来ているらしいように思われる。

<ニュースB>

新聞を読んでいて、相互に直接の関係は無いが、”政治の不幸”と言った言葉を感じるニュース2題・・・

>辺野古での工事、政府が再開 撤回の効力停止翌日(https://www.asahi.com/articles/ASLB06FMYLB0TPOB00B.html?iref=comtop_8_01)
>日韓の「解決済み」ひっくり返す(https://www.asahi.com/articles/ASLBY4QCBLBYUHBI01D.html?iref=pc_rellink)

両者共に”法”と”情緒”の齟齬が退っ引きならない・・・と言うか、引くに引けない対立に至っているという点で共通しているところがある。
辺野古問題では、政府が沖縄県の承認撤回の効力停止と言う手続きをとることは”異常”だという有識者が居る。しかし、”異常”という点で言えば沖縄の承認撤回の経過も行政のあり方から言えば”異常”に見える。政府も県もお互いに”異常”な対応しか取れない事態を見ると、ソコに至るもっと根本の両者の考え方に”法治”に馴染まないものがアル様に思う。

徴用工問題では(慰安婦問題とは異なり)、”道徳的優位”を外交で使う・・・と言う”不幸な”外交戦略だけに依存して政権が変わるたびに元大統領が逮捕されて、その外交実績も反故にされる韓国政治の貧困により大きな問題があると思うが、少なくとも日本側もだからと言って慰安婦問題で犯した感情的な愚論の轍をこの問題で再び踏まぬ様にしたいものだとは思う。
・・・・将に両問題とも”どうにもならない”政治の袋小路で、個人的には当面様子見・・・と言う無力感を感じる。、

<音楽>
ベートヴェン:弦楽四重奏全集、アマデウス弦楽四重奏団 DG 00289 483 5645

CD7枚にBlu-ray Audio Disk と言う構成。最近ちょくちょくPure-Audioと称してBlu-ray Diskがオマケについて来るセットがあるけれど、Blu-ray diskに収録のハイレゾ音をCD以上の高音質で再生する適当なプレーヤーがないので、このディスクは私にとっては宝の持ち腐れなのだけれど、まあ何(十?)年後かに良いプレーヤを手に入れているかもしれないので別段文句を言う筋合いは無い(私の寿命のほうがよほど問題だ・・・・)とも思って購入。
アマデウスSQと言うのは、私は結構好きな四重奏団でモーツアルトやシューベルトやブラームスの室内楽は今も良く聞くのだけれど、どうもベートーヴェンだけはあまり聴いて来なかった様に思う。ブダペストSQとかスメタナSQと言った重量級の古い四重奏団とアルバンベルクSQに代表される理知的でより現代的な四重奏団の間に挟まれて、アマデウスSQのベートーヴェンは何となく中途半端・・・・と言う印象が私にはあったように思う。それが、最近歳のせいで神経がいい加減になってきたせいなのか、性格が穏やかになって”中途半端”に対する許容度が出来てきたせいなのか、今まで印象の薄かったアマデウスSQのベートーヴェンが聴きたくなっている。そして、実際聴いてみると、とても良い・・・・今までなんで敬遠していたのか不思議なくらい音楽に馴染んで聞く事が出来る。古い世代の四重奏団に比べると線が細いし、新しい四重奏団に比べるとちょっと情緒的な甘さがある・・・・・けれど、その余り逞しくも理性的でもない、言わば軟派の中途半端なベートーヴェンが今の私には妙に親しみがある。
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