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2018年09月16日17:50

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9月国立劇場(人形浄瑠璃)・第一部「増補忠臣蔵」ほか

18年09月国立劇場(人形浄瑠璃)・第一部/「良弁杉由来」「増補忠臣蔵」


「良弁杉由来」は、1887(明治20)年、大阪・彦六座で、人形浄瑠璃として、初演された。新作ながら、作者不詳の名作で、つまり、無名の座付き作者たちが、書き上げ、竹本の太夫たちが、練り上げて、現在残されているような形で、伝えられて来た作品だろう。この演目では、特に、浄瑠璃の豊竹山城少掾の名前が、残っている。私は、歌舞伎では、4回拝見しているが、人形浄瑠璃で観るのは、8年ぶり、今回で2回目である。

「良弁杉由来」は、通し上演の場合、歌舞伎も人形浄瑠璃も、季節感の変化、場の変化(各段に、具体的な地名が使われているのも、おもしろい)が、愉しみな舞台である。「志賀の里」=初夏、「物狂」=春、そして、「東大寺」、「二月堂」=30年後の盛夏、というわけである。

今回の場面構成は、次の通り。「志賀の里の段」、「桜の宮物狂いの段」、「東大寺の段」、「二月堂の段」。

「志賀の里の段」:「宇治は茶どころ茶は縁どころ、宇治におとらぬ志賀の里」という竹本で、若緑の茶畑が広がる野遠見(奥に琵琶湖と対岸の山々の遠景)で、開幕。志賀の里は、現在の滋賀県大津市。無人の舞台に竹本の文句が、響く。親子の縁が、切らせられるという悲劇の開幕の文句は、皮肉だ。「志賀の里」は、基本的に、歌舞伎も人形浄瑠璃も、演出は、変わらない。人形浄瑠璃の方が、強風で、酒宴の床几に掛けてあった緋毛氈が吹き飛び、次いで、下手上空から大鷲(山鷲)が飛んで来て、光丸(みつまる)という渚の方の嫡男を抱いていた乳母の手元から幼子が奪い去られ、足に子どもを引っ掛け、天空高々と上手に向かってオオワシが飛んで行く場面があり、歌舞伎よりも迫力がある。顔を隠した一人遣いの人形遣いが、宙吊りされた大鷲の足を持ち、足に繋がるワイヤーで大きな羽を動かす。下手上空から降りてきた大鷲の脚に光丸の身体を引っ掛けると大鷲は、放され、宙吊りのまま、上手の上空へと飛んで行く。母親の渚の方は、「命の限り根限り、尋ねおほせでおくべきか」と姿形も荒々しく、大鷲の行くへの方へ「駆け行き給ふ」ということで、次への伏線。

「桜の宮物狂いの段」:大坂の桜宮は、桜満開。花見の風俗の中で、展開される「桜の宮物狂い」では、人形浄瑠璃の場合、花見客を目当ての花売娘やシャボン玉を売る吹玉屋が、笑いを振りまきながら桜並木を下手から上手へと行き交う。

やがて、花見客に紛れきれない風体のおかしい老女が、桜の小枝を持ち、下手から、ヨロヨロと出て来る。あれから、30年、行方不明の光丸を探して、物狂いになってしまった渚の方の哀れな姿だ。黒かった髪も、乱れた白髪となり、長々と延び放題になっている。紫の鉢巻きを病巻きにしている。里の子らが、狂女を囃し立てて、虐めている。私が観た歌舞伎では、花見の風俗描写と里の子らの弱い者いじめを別々に演じていたが、人形浄瑠璃で丁寧に演じられて、大元は、こういう場面だったということが判る。

主な主遣いは、次の通り。渚の方は、和生(前回は文雀)。雲弥坊は、簑一郎(前回は勘壽)。良弁僧正は、玉男(前回は和生)。

人形浄瑠璃の舞台では、下手、上手にそれぞれある小幕に挟まれた舞台、今回は川の設定である。下手から移動した渚の方は、舞台上手の柳の木のところで、川面に己の顔を映す。自分の惚けた姿を認めて、ふと、正気づく。桜の小枝を川に棄て、もう片方の手で、柳の木を握り締める。紫の鉢巻きを取り外し、己を「浅ましや」と呟く。故郷に帰ろうと思い、下手から川に乗り出して来た乗り合い舟(上り舟)に乗せてもらう。船中で、乗り合わせた人たちの噂話が、自然と聞こえて来る。「南都東大寺の良弁(ろうべん)僧正は、幼い頃、鷲にさらわれて来た」というではないか。老女は、帰郷を止めて、南都・奈良へ向かうことにする。この辺りは、歌舞伎では、省略している。人形浄瑠璃では、きめ細かに演じる。

「東大寺の段」:「東大寺」は、書割のみの背景として使われる。奈良の東大寺を探し当てて来たけれど、大寺院を前に萎縮してしまう。通りかかった伴僧(雲弥坊)に、事情を話し、手助けをしてもらおうと訴えかけるが、乞食非人の格好では、物乞いと間違われてしまう。必死で、幼子が鷲にさらわれた30年前の出来事を訴えて、相談に乗ってもらう。上人の用で出かける途中で、忙しいと言いながらも、相談に乗る伴僧の雲弥坊は、良弁杉に貼紙をするという知恵を思いつき、老女の代わりに訴えの内容も書いてやるという親切さ。ユーモアもあり、なかなかの人柄の僧侶である。気持ちが、ほっとする場面だ。

桜宮から東大寺まで、渚の方の正気づきの場面から、船中の噂話で奈良を目指す、東大寺門前での貼紙作戦などへ、きめ細かい展開で、「二月堂」の場面への展開が、非常に良く判る。歌舞伎の「通し」でも、判り難い部分が、人形浄瑠璃では、実に懇切に描かれていることが判る。

「二月堂の段」:「二月堂」は、大団円の場面。背景は、書割。30年、離ればなれになっていた母と子が再会を果たすという話。高僧は、母を大事にした。そういう単純なストーリ−なので、歌舞伎では、役者の藝と風格で見せる舞台だ。軸となる良弁僧正役者が、風格で見せる場面だ。さらに、この場面では、30数人という大勢の僧や法師らが、二月堂の階上から連綿と立体的に登場する。それでいて、舞台では、歌舞伎でも大勢の僧や法師らは、ほとんど背景代わりになっている。なんとも、贅沢な役者の使い方をする芝居である。これが、歌舞伎の演出なのだ。役者の藝と数で、勝負という訳だ。これに対して、今回の人形浄瑠璃では、どうだったか。

良弁僧正登場を前に、供たちが、次々と姿を見せる。供奴は、離れた場所から、毛槍を投げあって、受け取りあって、というサーカスのような藝を見せて、観客席を沸かす。一人遣いのツメ人形の存在感を示す見せ場が続く。ああ、これの代わりが、歌舞伎では、着飾った大勢の僧や法師らの連綿の行列という演出なのだな、と判る。僧正と老母との再会の場面、輿に母を載せる場面などは、歌舞伎も人形浄瑠璃も、変わらない。

竹本は、「志賀の里」では、渚の方が、睦太夫(前回は英大夫。当時は、大夫とかいた)。「桜の宮物狂い」では、津駒太夫ら(前回は呂勢大夫ら)。「東大寺」では、靖太夫(前回は英大夫=現在の呂太夫)。「二月堂」では、千歳太夫(前回は綱大夫)。

歌舞伎は、「二月堂」を軸となる渚の方の老女形が、良弁僧正の立役を相手に、藝と風格を見せるという一点に向かって収斂して行くというのが、究極の姿なら、これに対して、人形浄瑠璃は、渚の方という「女の一生」をドラマチックに、奥方、狂女、老女と、きめ細かく描く歴史物語というのが、究極の姿だろう。

それを奥から支えるのが、竹本の語りであろう。人形浄瑠璃は、きめ細かく、奥深く、歌舞伎は、一枚の絵の平板さ、但し、豪華な錦絵という辺りが、この芝居の落としどころとなるのかもしれない。

贅言;竹本の文句を追って行くと、「母の慈悲」「母の恩」「恩と情の親心」という表現が頻繁に出てくる。明治に創作された新歌舞伎は、抹香臭い文句で、少々嫌になった。


国民的な共同幻想としての「忠臣蔵」


共同幻想としての「忠臣蔵」は、いつしか、史実の赤穂諸事件(1701年から1703年。主君の刃傷・切腹事件からを家臣たちの討ち入り・切腹事件まで)を超えて、フィクションの「忠臣蔵」事件までになって行くことをいうが、今回は、これについては詳しくは論じない。一例だけを書いておくと、浅野内匠頭の江戸城での吉良上野介への刃傷事件の際、国許の赤穂にいた国家老の大石内蔵助らは、その後、主君の遺恨を雪ごうと主君の血筋でもないのに、主君の「敵討」を敢行する。その大石内蔵助の物語は、幕府による統制抑圧の中でも、庶民の間で生き続け、大石内蔵助は、史実の風貌・キャラクターとは無関係に、フィクションの風貌・キャラクターに昇華して行く。

例えば、史実の大石内蔵助は、実名で芝居を構成することを許さない徳川幕府の「御政道」に抑圧されて、大岸宮内(おおぎしくない)という人物になった。1747(延享4)年に京都の中村久米太郎座で上演された「赤穂諸事件もの」の歌舞伎の演目「大矢数四十七本」で、大岸宮内が登場した。この人物は大石内蔵助をモデルにしている。初代澤村宗十郎が演じて大当たりをとった。

翌年、1748(寛延元)年、大坂竹本座の人形浄瑠璃で、「仮名手本忠臣蔵」が、初演された。大石内蔵助をモデルにした登場人物は、大星由良助という名前であった。これも大当たりとなった。人形浄瑠璃の演目「仮名手本忠臣蔵」は、やがて歌舞伎でも上演されるようになった。1750年、江戸三座で、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」が競演され、大星由良之助役では、初代山本京四郎、初代坂東彦三郎らに加えて、大岸役者であった澤村宗十郎も、江戸三座の一つ、江戸・中村座で大星由良之助を演じ、当代随一と評される。大星由良之助役者の登場である。

「仮名手本忠臣蔵」は、人形浄瑠璃で1746年初演の「菅原伝授手習鑑」、1747年初演の「義経千本桜」と並ぶ、人形浄瑠璃・歌舞伎の三大作と言われる。並木宗輔を軸とした人形浄瑠璃の原作者グループの3年連続のヒット作の一つである。史実の大石内蔵助は、この後、フィクションの大星由良之助に成り代わって行くのである。以降の江戸時代は、大石内蔵助は、霞んで行き、赤穂諸事件は、いつの間にか「忠臣蔵」事件として、大星由良之助が前面に出てくる。合わせて、浅野内匠頭は、塩谷判官に、吉良上野介は、高師直として、庶民には、記憶されて行く。大星由良之助像は、歴代の由良之助役者のイメージで練り上げられて行く。

幕末から明治維新へ。史実の人物を歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台から追い出していた徳川幕府の「御政道批判」抑圧もなくなり、明治期になって、史実ものが、当時の言葉を借りれば「活歴もの」として、蘇った。歌舞伎界でも演劇改良運動が叫ばれ、九代目市川団十郎らが推進役を果たした。「忠臣蔵」も、その波を被るようになり、「仮名手本忠臣蔵」に対抗して、やがて「元禄忠臣蔵」という演目が、新歌舞伎の旗手・真山青果という劇作家のよって生み出された。「元禄忠臣蔵」は、1934(昭和9)年に「大石最後の一日」として初演され、1941(昭和16)年には、「泉岳寺の一日」が初演された。全部で、10編の作品が完成し、古典ものが全11段の「仮名手本忠臣蔵」なら、新歌舞伎は、全10編11作の「元禄忠臣蔵」として、知られるようになった。「元禄忠臣蔵」は、その後、映画化され、長谷川一夫の大石内蔵助などが広く庶民にも知られるようになって行った。

この結果、史実の大石内蔵助は、フィクションの世界では、大岸宮内になり、大星由良之助になり、さらに、大石内蔵助になって(戻って?)行った。この過程で、大星由良之助役の歌舞伎役者の風貌・キャラクターが、史実の大石内蔵助の風貌・キャラクターと誤解されるようになって行く。だから、現代の人々に「忠臣蔵」(フィクションのドラマである)の登場人物の名前を挙げてみてくださいという問いを発すると、ほとんど誰もが、大石内蔵助の名前を挙げるのは、江戸時代の人々は、「忠臣蔵」(フィクションのドラマである)の登場人物の名前としては、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助の名前を挙げたことだろう。したがって、「赤穂諸事件」は、国民的な共同幻想としての「忠臣蔵」になってしまった、ということである。このテーマは、いずれきちんと述べたいと思っているが、今回は、「増補忠臣蔵」である。国民的な共同幻想としての「忠臣蔵」は、共同幻想の果てに、原作にない場面が、増補されて上演されるようになった。


「増補忠臣蔵」。人形浄瑠璃で観るのは、今回で3回目。「増補忠臣蔵」は、別称、「本蔵下屋敷」は、とも言われる。私がこの演目を歌舞伎で観たのは、今年の3月、国立劇場が初めてであった。「増補忠臣蔵」の東京での上演は、この時の国立劇場が65年ぶりというから、無理もない。人形浄瑠璃では、私は過去に2回観たことがある。常打ち官許の大歌舞伎に対抗して、寺社の境内で臨時に開催された江戸時代の宮地芝居は、近代に入っても、「小芝居」という形で、脈々と流れていた。小芝居では良く、「増補もの」と呼ばれる「下屋敷もの」を演じる。「増補もの」は、人気狂言にあやかろうと、柳の下の泥鰌を狙って作られる。「増補もの」は、そういう成り立ち方で小芝居、中芝居の舞台にかかったことが多かったので、作者の名前が、あまり残されていないようだ。「増補桃山譚」、通称「地震加藤」は、河竹黙阿弥作だけに、逆に原作を食い、「増補もの」として、歌舞伎事典にただひとつ記載されていた。

「増補忠臣蔵」は、別称、「本蔵下屋敷」は、とも言われる。通し狂言「仮名手本忠臣蔵」の九段目「山科閑居」場面の伏線となる状況を前もって芝居にした、後日談ならぬ、いわば「前日談」という趣向である。1878(明治11)年、大阪・大江橋座で、「仮名手本忠臣蔵」の七段目(一力茶屋)と八段目(道行旅路の嫁入)の間で上演するために、別途に新作されたもの。作者不詳。

これまで舞台を拝見したのは、01年2月、14年5月、いずれも国立劇場。最初は、七代目鶴澤寛治襲名披露の舞台。三味線方の人間国宝・竹澤団六が、七代目鶴澤寛治(当時72歳)の襲名披露興行だった。その寛治さんが、今月(18年9月)5日、亡くなってしまった。享年89。改めて、哀悼の意を表したい。

贅言;この舞台では、鶴澤寛治「口上」の後、襲名披露狂言として「増補忠臣蔵」が上演されたのだった。歌舞伎の派手な襲名披露の口上は見慣れていたが、人形浄瑠璃の襲名披露の口上を観るのは、初めてであったので、驚いた。本人は、無言でお辞儀しているだけなのだから。

「増補忠臣蔵」は、「仮名手本忠臣蔵」の、二、三段目(主君・桃井若狭之助と家老・加古川本蔵)を受け継ぎ、九段目(大星由良助と加古川本蔵)に至る経緯の「隙間」を埋めようという作品。なぜ、加古川本蔵は、若狭之助の元を去り、娘・小浪のために、命を投げ出して大星由良助を助けるために山科へ行ったのか、なぜ、高家の屋敷の図面を持って行ったのかなどを観客に説明するために作った。それだけに説明的すぎて、嘘くさい。

近代人から見れば、「仮名手本忠臣蔵」の加古川本蔵は、短気な社長・若狭之助の危機を救う、いわば危機管理の達人なのだが、江戸の美意識から見れば、高師直側に勝手に賄賂を贈り主君の気持ちを忖度せずに妥協した「へつらい武士」と蔑まれた。これは、武家社会の前近代性を批判して、明治になって別の作者の手で作られた狂言。だから、新しい物語では、若狭之助は本蔵の危機管理に感謝をし、「忠臣義臣とは汝が事。(略)ふつつり短慮止まつたもそちが蔭」。自分の短慮を反省するという近代性を付加している。「通し」上演の際、七段目と九段目の間に入れて上演されたこともあると言うが、そういう演出では長続きはしなかったようだ。単独で上演されるスタイルが定着して行った。

「本蔵下屋敷の段」では、まず、塩冶判官の刃傷事件以降、若狭之助から(主君の意向を妨害したため)蟄居を命じられた加古川本蔵の下屋敷(そもそも、家老職の武士には、下屋敷などない。作者の無知が滲み出る)。若狭之助の妹・三千歳姫(人形遣い:一輔、前回は簑二郎。以下、同じ)は、塩冶判官の弟・縫之助と婚約しているが、事件関係者の縫之助と接触せぬようにと、ここに預けられている。若狭之助の近習・伴左衛門(玉佳、前回は玉輝)は、三千歳姫に横恋慕している。姫を手に入れようと「殿の上意」と偽り、祝言を迫って、嫌がられている。さらに、伴左衛門は、主君・若狭之助や家老・加古川本蔵を殺し、主家乗っ取りを謀ろうと企み、茶釜に毒を入れる。その様子を上手障子の間から覗き見る本蔵(玉志、前回は玉也)。伴左衛門は、三千歳姫を無理に連れて行こうとして本蔵に阻止される。伴左衛門は、逆に、へつらい武士の汚名を主君に着せたとして本蔵の不忠を責める。そういうところに、本蔵成敗の御錠が主君よりあり、ふたりの立場が逆転をし、近習・伴左衛門は家老・本蔵を縛り上げ、得意満面、奥庭の座敷、主君の前へと引き立てて行く。

「前」の語り、竹本は、呂太夫、前回は千歳大夫。三味線方、前回も今回も竹澤團七。「切」の語りは、今回は、咲太夫。三味線方は、燕三。琴は、燕二郎。前回の語りは、津駒大夫。三味線方、鶴澤寛治。琴の演奏は、鶴澤清公であった。国立劇場昼の部は、奇しくも、亡くなった鶴澤寛治の襲名披露所縁の演目だったことが判る。

下屋敷は、奥庭の座敷に変わる場面で、庭の遠見と襖の絵柄が、衣装の引き抜きの演出のように瞬時に替わる。下から湧き出るように座布団と脇息が出て来る。庭には、本蔵処刑のための土壇場が設えられる。奥から主君・若狭之助(玉助、前回は、今は亡き紋壽)登場。一旦、縄を掛けられ、奥庭の土壇場まで引かれた本蔵だが、彼の真意は、実は、主君には理解されている。座敷から庭に降りた若狭之助は、本蔵に向けた刃を後ろにいる伴左衛門にむけ直し、斬り殺す。人形は、どたっと、真後ろに倒れ込む。

後は、真意解明となり、本蔵には、高家の屋敷の図面と虚無僧の衣装(袈裟)などが若狭之助から与えられ、「山科閑居の段」へ繋がるようにできている。

別れの段に、先ほどの三千歳姫の琴の演奏がある。三千歳姫の座る上手の障子の間、奥には、花車の掛け軸。この大道具だけで、若い女性らしい部屋の雰囲気が出る。本蔵は、主君の所望を受けて、姫の琴の演奏に尺八を合わせる。主君との今生の別れの場面である。本蔵は山科へ向かうことになる。琴の演奏者の動きに本舞台の姫を操る人形使いの手の動きが連動している。
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