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2018年08月31日22:11

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8月31日

 しばらく家を留守にして何日かぶりに帰宅をすると、キッチンの片すみで大きなバッタが死んでいた。からからに乾いていて、足を弱々しく曲げたままじっと動かない。そこがキッチンだというのは、食べ物や飲み水を求めながら絶命したような印象をぼくに持たせた。そもそもどこから侵入してきてのかについては、まるで見当がつかなかった。出掛ける際には、もちろん戸締りをした。長く家を空けることで普段よりも念入りに行ったはずだった。それでも、バッタ1匹分の隙間がどこかにあり、外と通じているということだろうか。もしくはずっと前からどこかに身をひそめ、ぼくたちがいなくなるのを待っていたのだろうか。いずれにせよバッタは死んでしまった。ぼくは少しはみ出た半透明の羽根を中にしまいこみ、土に還してやることにした。
 その晩、12時を過ぎたころにインターフォンがなった。家族はもう寝ていて、ぼくだけが起きていた。こんな時刻に訪問者というもの考えにくく、静けさの中に不気味な余韻がのこった。ぼくは足音をたてずに玄関にまでいき、のぞき穴に目をあてた。でもドアの前には誰の姿もなかった。きっとだれかのいたずらだろう、とぼくは思った。以前にもこういったことが何度かあった。我が家のインターフォンは道路にむき出していて、酔っぱらった歩行者なんかが手を当てていくようなことがあるのだ。今回もその類のものだろうと思い、長くため息をつくと、ふたたびピンポーンと音がした。心臓がはねあがり、うしろへ転倒しそうになった。まだ誰かが外にいる。たぶん明確な用件をもった誰かだ。そしてそれはバッタの顔をした人である可能性が高い。今ぼくは、「食べ物をください」と言われて完結する怪談のなかにいるのだと思った。
 迷いに迷ったあげく、勇気をだしてドアをあけてみた。すると道路の暗がりの中に、高校生らしき男子がぽつんと立っていた。野球部員といった丸刈りで、よく日焼けをした青年だった。ぼくはドアの隙間から彼の動向をうかがっていると、学生はおもむろに頭を下げて「あ、すいません。ドアがとれてしまいまして」と言った。ぼくは彼が何を言っているのかわからなかった。とくべつ害意も感じなかったので外へ出ていくと、うちのスライド式の門扉がレールから完全に外れてしまっていた。門は塀に立て掛けてあった。
「自転車にのってたらよろけてしまって。ここにぶつかって、これ外れちゃって」と学生は歯切れ悪く、申し訳なさそうに言った。
そういえば先刻、妙にけたたましい音が外で響いたことを思い出した。
「そうなんだ。きみに怪我はなかったの」と聞くと、「問題ありません」と首を縦にふる。
 でも、どういうぶつかり方をしたら門が外れていくのかよくわからなかった。それにはどうしても意図的な力を、然るべき方向にくわえて取り外す必要がある。倒れ込んだだけでこうなるとはどうにも考えにくい。ぼくは訝しく思いながらも、とりあえずは元どおりにするために門をレールにハメ込んでいった。学生も反対側にまわり、それを手伝った。「手を挟まないようにね」と言うと「はい!ありがとうございます!」と返事をする。
 無事に門がハメ込まれ、スライドがスムーズにいくことを確認したあとに、学生は「すいませんでした」とふたたび頭を下げた。
「こんなに夜遅くまで学校にいたの?」とぼくはたずねた。
「いえ、友達の家にいました。パソコンの設定を直してあげていて」と学生はいった。
「ふうん。きみはパソコンに詳しいんだ」
「いえ、友達が馬鹿なだけなんです」。
 
 学生が自転車でさっていくのを見送ったあと、ためしに門に向かって軽く体当たりをしてみた。すると門はがらがらと音をたてて簡単に外れてしまった。どうにもストッパーになるネジが緩んでいたものらしかった。学生は本当のことを言っていた。しかもそのまま逃走せずに、自分の罪を正直に告白する心の澄んだ男だった。ぼくは疑いの目を向けてしまったことを恥じた。本当に申し訳なく思った。濁った心を持っているのは自分の方なのだと、つくづく嫌になった。そしてその濁った心は、バッタが姿をかえて「いつでも入れますから」と忠告しにきた、という可能性をいつまでも捨てようとせず、ぼくをなかなか寝付かせてはくれなかった。

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