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2018年08月27日00:02

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8月26日

 すれ違いざま、同僚は口元を手でおおい「おれは無視をされているかもしれない」とぼくに耳打ちした。その時ぼくはいくつかの仕事を抱えてバタバタしていたので、「そうなんだ」としか言えずにその場を後にした。それからもたびたび彼の視線がぼくに向けられているのには気づいていたけれど、やはり話を聞く時間がなかなか取れず、手を挙げて合図をしたり意味深くうなずいてみせたりして昼休憩まで繋いだ。
 ぼくは手を引かれ、ひと気のない廊下のどん詰まりまで来た。そこで彼はダムが決壊したみたいにまくし立てた。ある女性が先週あたりからまったく目を合わせようとしないこと。挨拶をしても化石みたいに反応がないこと。無視をされていると確信してから胸が痛み、食事がのどを通らず、ためいきばかりが出ていくこと。
 焦らしたせいもあるのか、彼の憤りはなぜか埒外のぼくにも向かってきており、唇がふれ合いそうなほど顔を近づけ「おれが無視をされる言われはない!」とがなり立てた。ぼくは後ずさりしながら「そうだね、そうだね」とよく事情を知らぬまま言い、隙を見て逃げ出そうとしたけれど、ついには壁にまで追い詰められてしまった。
 彼が何よりも傷ついたのは、その女性が周囲のひとたちとは明らかな差異をつけた態度を自分に向けることだという。たとえば他の男性スタッフと話しているときには愛想よく振る舞い、軽妙に会話をたのしんでいるにもかかわらず、ひとたび自分と顔を合わせれば目に冷ややかかな軽侮の色を浮かべ、ぷいっと顔を背けてしまう。この落差は、彼をひどく不穏な心待ちにさせ、慢性的な睡眠不足におちいらせた。一貫して機嫌が悪いならまだしも、自分への嫌悪だけが浮き彫りにされるのはずいぶんこたえたみたいだった。
 「俺の方から謝った方がいいのかな」と彼は弱々しく言った。
 「身におぼえがないのに?」ぼくは目を丸くした。
 「だって仕方ないだろ。おれは一刻も早くこの状態を抜け出したいんだよ」
 「でも、だれかを無視をするような人に謝る必要はないと思うけどな」
 「みんなそうやって言うんだよ。だったらどうすればいいんだろう。なあ、教えてくれよ」
 同僚は深いためいきをついた。それから鼻に指をつっこんで奥の方を掻きはじめた。小鼻が指の形に盛り上がり、そこでくりくりと動いているのがわかる。ぼくと目を合わせながらそうしているので、よほど彼は精神的に参っているのだと感じた。
 「これまでに何人くらいに相談したの?」ぼくは尋ねた。
 「お前が5人目かな」
 「多すぎるよ」
 「なにが」 
  「ぼくは思うんだけど、こういうのはあまり他言しない方がいいんじゃないかな」
 「なんでだよ」
 「だって今のところ君に非はないわけだろ?無視をされるようなことをしたおぼえは一切ない。だからこれは彼女の一方的な嫌がらせということであり、つまりは彼女が悪人であるというストーリーだ。そうだよね?」
 「うん。たぶん」
 「それならさ、周囲の人間に彼女は悪人なんだと吹聴して回るような行為は、やっぱりよくないよ。だれかの悪事を広めるのは感心できたことじゃない。それは君の正義が失われていく行為だ。せっかく潔白であるはずの君に、汚点ができてしまう。これはのちのち君自身を不利な状況に追い込むことになるとおもうな」
 「うーん」 
 「君は完璧な被害者でいるべきなんだよ。下手に動いて、そこを攻め込まれたんじゃ話にならない。だからこれを相談するのは、ぼくで最後にしよう。辛いだろうけど、じっと黙って耐えよう。今のところ正義は君のところに落ち着いているんだ。怖いものなんて何もないじゃん。ましてや、謝る必要なんて少しもない。堂々としてたらいいんだよ」
 同僚はしばらくのあいだ沈黙した。目をつむり考え事をしていた。そして「君に話してよかった。すこし気が楽になったよ」と言った。「もうこの話は誰にもしない。君で最後にする。だから君も誰にも言わないでくれよな」
 ぼくは励ましの意味をこめて、彼の背中を2度たたいた。
 そのあと彼は休憩室へ向かい、そこにいた大勢の前で自分が現在、無視をされているという話をはじめた。こんなに早く自身の言葉を打ち破る人をぼくは初めて見た。しかも、ぼくにしたときよりも構成がダイナミックになり、セリフがいくらか誇張されていた。窓の外を大型のトラックが通り過ぎたときには、みんなが聞き取れるように声を大きくした。もう止まりそうになかった。
 ぼくはテーブルの上からイカの形をした煎餅を手に取り、一口かじった。「あ、けっこう辛いよこれ」とあえて彼に向けて言ってみた。でもそれは、彼の淀みない告発を止めるにはいたらず、ほんの一瞬視線を奪っただけで、あえなく不穏な渦の中に吸い込まれていった。彼は目を剥いてまくし立てている。ぼくはあきらめて残りのイカをぼりぼりと食べた。それから冷蔵庫からお茶取り出して舌を冷やした。
 
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