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2018年08月17日14:41

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8月歌舞伎座/納涼歌舞伎(3部)南北ワールド「盟三五大切」

18年8月歌舞伎座(3部/「盟三五大切」)


南北ワールド「忠臣蔵外伝」


「盟三五大切」は、08年11月の歌舞伎座以来10年ぶり、5回目の拝見。
「盟三五大切」は、1825(文政8)年9月、江戸・中村座初演の南北版「忠臣蔵外伝」もの。

歌舞伎座「納涼歌舞伎(中堅、若手出演)」は、軸になっていた勘三郎、三津五郎の逝去以来、出演役者の顔ぶれが「激変」している。今回は、新・幸四郎、猿之助、獅童が軸になっているが、今月の3部制上演の出し物では、これが、数少ない見もの。

「盟三五大切」の主な配役。私がこれまで観た源五兵衛、実は、不破数右衛門:先代の幸四郎(2)、吉右衛門、仁左衛門、そして今回が当代の新・幸四郎。このほかの主な配役。三五郎:菊五郎(2)、勘九郎時代の勘三郎、仁左衛門、今回が獅童。三五郎女房・小万:時蔵(3)、雀右衛門、今回が七之助。家主・弥助:左團次(3)、歌六、そして今回が中車。八右衛門:先代の染五郎(2)、愛之助、歌昇、今回は、橋之助。菊野:芝雀時代の雀右衛門、亀治郎時代の猿之助、孝太郎、梅枝、今回は、米吉。三五郎の父親・了心:四郎五郎、幸右衛門、芦燕、田之助、今回は、松之助。助右衛門:東蔵(2)、幸右衛門、彦三郎時代の楽善、今回は、錦吾ほか。

今回の場面の構成は、以下の通り。
序幕第一場「佃沖新地鼻の場」、同 第二場「深川大和町の場」、二幕目第一場「二軒茶屋の場」、同 第二場「五人切の場」、大詰第一場「四谷鬼横町の場」、同 第二場「愛染院門前の場」。

源五兵衛を巡る「百両」の動きと金の性格。
薩摩源五兵衛伯父・冨森助右衛門 →(軍資金の一部・助力)→ 薩摩源五兵衛、実は不破数右衛門 →(美人局と知らずに、巻き上げられる)→ 船宿・船頭、笹野屋三五郎 →(父親から金の無心・工面)→ 了心こと、不破数右衛門の元家臣・徳右衛門、三五郎の実父 →(旧主のために、工面)→ 薩摩源五兵衛、実は不破数右衛門。


江戸湾佃沖の三角関係  


このうち、序幕第一場「佃沖新地鼻の場」。幕開きは、シンプルな黒幕を背景に舟の場面。順番に3艘の舟が行き交うことになる。「佃沖新地鼻」だから、漆黒の闇のなかでの、佃沖の江戸湾である。まず、1艘。お先の伊之助(吉之丞)という船頭と賤ヶ谷伴右衛門(片岡亀蔵)を乗せた舟である。ふたりは、深川芸者・「妲妃(だっき)の小万」の噂をしている。舟は、そのまま、舞台上手の袖に入って行く。

向う揚幕から花道を通り、別の舟が来る。小型の舟だが、中央に、緋毛氈が敷き詰められている。舟先には、手持ちの、現代ならアウトドア用の行灯。緋毛氈の上には、酒の入った徳利と煙草盆。乗っているのは、先ほどの噂の主、深川芸者・妲妃(だっき)の小万、実は、三五郎の女房・お六(七之助)と船頭の夫・三五郎(獅童)である。妲妃とは、中国古代の悪女伝説の一人。小万の手には、役者絵を刷り込んだ団扇が握られている。夕涼みしながら、ふたりは、客から金を搾り取る相談をしているようだ。

ここで、古いことを書くようになる。13年前、05年9月、歌舞伎座の舞台では、本舞台に舟が差し掛かると上手より、小さな樽が流れて来る。中に、沙魚(はぜ)が入っている。いやに、リアルだったが、今回も同じ演出で、懐かしかった。というのは、10年前、08年11月の舞台では、この小道具は省略されていたからだ。やがて、ふたりは、闇夜と密室の舟上という状況を良いことに、緋毛氈の上で、カーセックスならぬ、シップセックスの態(てい)。情事の場面となる。


役者の世代替り


21年前、97年10月、歌舞伎座で、初めて「盟三五大切」を観たとき、この場面は、勘九郎時代の勘三郎と雀右衛門だったが、濃厚なラブシーンに見えた。封建時代の演出を残す歌舞伎の舞台では、性愛の場面では、写実は、避けたがる。象徴的に、所作で、外形的に示す場合が、多い。そういう中で、この場面は、数少ない、扇情的な性の描写がリアルになされた場面だったと、思う。15年前、03年、歌舞伎座の菊五郎も、濃厚だった。菊五郎は、時蔵の手を己の下半身に誘う。さらに、菊五郎の手は、時蔵の下半身、そして胸へと、これまた、味が濃かった。船上の緋毛氈の上に横たわり、抱擁するふたりの姿に、女性客の多い観客席は、息を呑んでいるように思えた。13年前、05年、歌舞伎座の仁左衛門は、同じ時蔵を相手に、もう少し、薄味で演じていた、ように思う。女形は、立役との関係で、演技が異なって来るのだろうか。今回の獅童と七之助も、薄味だった。舟の中に横たわっているだけのように見受けられた。


「美人局」発覚


この船上の情事の場面で、黒幕が、切って落とされると、月夜の江戸前。満月の明るい江戸湾。遠く対岸のシルエットが浮かぶ。

舞台奥、上手に、第3の舟が現れる。小万と三五郎を乗せた舟にくらべると、大きさは倍ぐらいある。屋形のある舟だ。小万と三五郎を乗せた舟が、小型車なら、屋形のある大きな舟は、大型車という感じだ。月夜で、明るい中、屋形の中には、やはり、緋毛氈が敷き詰められていて、そこに薩摩源五兵衛(幸四郎)がゆったりと乗っている。舟先には、やはり、手持ちの、アウトドア用の行灯。気がついたかどうか、この船には、実は、船頭は乗っていない。配役が省略されているのだろう。

以前に観た舞台では、この場面は、暗闇からぬうっと、薩摩源五兵衛の出、という印象が残っている。小さな屋形舟で、闇で見えなかったが、情事に耽るふたりの舟の近くまで、いつの間にか、そっと、近付いていたような感じで、薩摩源五兵衛が、舟に乗っている。源五兵衛は、陰険にも、ピーピング・トムのように、ふたりの情事を覗き見ていたのが、判るという趣向だった。薩摩源五兵衛は、ゆるりと立上がって、自分の舟の舳先の方に移動する。白地に紺絣は、の着物に、黒い絽の羽織を着ていて、颯爽としている。覗き魔の、疚しさなんて無い。薩摩源五兵衛に気づいても、平気で愛想を振りまく小万。こういう場面になると、女性の方が、大胆なんだろうなあ。憮然とした表情の三五郎が、気の毒になる。新・幸四郎の薩摩源五兵衛役は、2回目。9年前、09年11月、染五郎時代に新橋演舞場で初演している。新・幸四郎がどういう源五兵衛を演じてくれるか。

3艘の舟を効果的に使った演出で、歌舞伎座の舞台は、一気に、江戸時代の江戸前の海風の世界へタイムスリップする。巧みなイントロである。このシンプルな場面だけで、観客は、一気に南北ワールドに強引に引きずり込まれてしまうのではないか。


南北版「忠臣蔵外伝」


ところで、「盟三五大切」は、粗筋を簡単に辿ると、こうである。塩冶家の浪人・不破数右衛門は、御用金三百両を盗まれ、その咎で浪人となり、いまでは、薩摩源五兵衛(幸四郎)と名前を変えて市井に生きている。

数右衛門は、旧臣下の徳右衛門、いまは、出家している了心(松之助)に御用金の一部百両の工面を頼んでいる。その一方で、深川の芸者・妲妃(だっき)の小万(七之助)に入れ揚げている。小万は、船頭・笹野屋三五郎(獅童)の女房・お六である。三五郎は、実は、徳右衛門の息子の千太郎で、訳あって、勘当の身であるが、父親が旧主のために金の工面をしていると聞き、これを用立てて、勘当を許してもらおうとしている。そのために、女房のお六を小万と名乗らせて、芸者に出しているのだ。

その金策が、実は、源五兵衛から金を巻き上げるということから悲劇が発生することになる。三五郎は、源五兵衛から金を巻き上げて、父親に用立てる。父親は、その金を旧主の薩摩源五兵衛こと、不破数右衛門に渡そうとする。そういう金の流れと人間関係の情報が、両立していないことから、この芝居の悲劇は起こる。

源五兵衛のところへ、伯父の富森助右衛門(錦吾)が、百両の金を持って来る。この金を塩冶義士(史実の「赤穂諸事件」の、いわゆる赤穂義士のこと)たちの頭領・大星由良之助に届けて、仇討(高家への討ち入り)の一味に復帰せよと助言する。しかし、源五兵衛は、小万らに騙された挙げ句、小万の身請け金の立て替えとして、百両を渡してしまう。三五郎は、源五兵衛に小万の亭主だと名乗り(美人局)、身請け話をちゃらにし、百両をだまし取る。

三五郎と小万こと、お六は、騙りに参加した小悪人どもと祝杯を上げたが、寝入ったところを、源五兵衛に襲われる。殺人鬼・源五兵衛の見せ場、殺し場である。小悪人たち5人は、殺されるものの、三五郎、小万のふたりは、悪運強く、生き延びる。


殺人鬼、一つ目の殺し場


源五兵衛の演じる「殺し場」は、ふたつある。5人殺す場面と、2人を殺す場面。まずは、一つ目の殺し場。

二幕目・第二場「五人切の場」。源五兵衛を騙して、百両を巻き上げたに成功して祝杯を上げている面々がいる。処は、内びん虎蔵(廣太郎)宅である。まず、三五郎(獅童)が、2階の座敷で、小万(七之助)との情事の果てに、乱れた蒲団の上で、けだるさを感じさせながら、酒を呑んでいる。小万の腕の入れ黒子「五大力」の「力」の字を、「七」と「刀」に書き換え、さらに、「五」の前に、「三」を付け加えて、「五大力」を「三五大切」ということで、「源五兵衛への心中立て」の小道具のはずの「五」を「三五郎への心中立て」の「三五」に変造してしまい、ひとり、悦に入っている。やがて、ふたりは、再び、情愛の世界へ入るのか、障子が閉め切られる。

やがて、夜も更け、三五郎らが2階、虎蔵が、ひとり抜けて、その他4人は、1階で、寝込むため、灯を消す。そこへ、障子の丸窓を押し破って、殺人鬼と化した源五兵衛が入って来る。まるで、「忠臣蔵」の五段目の定九郎の出か、あるいは、「伊勢音頭恋寝刃」の10人殺しの福岡貢の出のようだ。

だんまり(暗闘という演出)のなかで、5人殺しの殺し場が展開する。まず、衝立の後ろで、情事に耽った果てに寝込んだと思われるお先の伊之助(吉之丞)と芸者菊野(米吉)は、三五郎・小万の夫婦と間違われて、殺される。伊之助の首は、斬られて衝立の上に載っかっている。首から下の胴体(吹き替え)は、衝立の後ろからよろめき出て座敷内で倒れ込む。着物を掛けたままの行灯の灯で、衝立の首を確かめる源五兵衛。これは、お先の伊之助の首。三五郎ではない。

血まみれの刀を下げたまま、2階への階段を昇る源五兵衛。しかし、三五郎・小万の夫婦は、階下の異変を感じ取り、二階の床や羽目板を壊して、下へ逃げて座敷へ出て来る。源五兵衛が、侵入した壊れた丸窓を利用して、さらに、外へ、花道へと逃げ出してしまう。

すれ違いで、逃げられたと知り、1階に降りて来る源五兵衛。惨劇を知らずに寝ているごろつき勘九郎(片岡亀蔵)、ごろつき五平(男女蔵)が、次々に血煙を上げられる。提灯を持って、外から帰って来た虎蔵も殺される。締めて、5人殺される。

その後、三五郎・小万の夫婦が、逃げ込んだ四谷鬼横町の長屋は、かって民谷伊右衛門が住んでいたところだ。さらに、家主の弥助(中車)は、伊右衛門の従者・土手平であったと共に、お六の兄であったことが判る。その上、弥助は、実は、「不義士」伊右衛門と共犯で、旧主・塩冶家の御用金三百両を盗んだ盗賊の一味であった。

かつて、この部屋には、高家に出入りしていた大工が住んでいた。この大工が隠し持っていた絵図面が、風の悪戯で家の中から飛んできて、三五郎と弥助に見つかる。この絵図面こそ、塩冶浪士たちが主君の敵と狙う高家の絵図面であった。三五郎(獅童)は、絵図面を横取りしようとする弥助(中車)を殺した後、百両と絵図面を、戻ってきた父親の了心(松之助)に渡す。

三五郎の父親、了心は、百両と絵図面を旧主の不破数右衛門こと、薩摩源五兵衛に渡したが、そのことを初めて知った三五郎は、父親の旧主・不破数右衛門こと、薩摩源五兵衛の罪の全てと己の罪を一身に被って自害し、源五兵衛には、塩冶「義士」として、主君・塩冶判官の「敵討ち」に加わるように懇願する。源五兵衛は、件の長屋に姿を変えて潜んでいたほかの塩冶「義士」らとともに、高家への討ち入りに参加して行く。


殺人鬼、二つ目の殺し場


様式美の殺し場。小万(七之助)らの居所を突き止め、三五郎の留守に小万だけが残る長屋へ粘着質の殺人鬼・源五兵衛(幸四郎)が、やはり、戻って来た。「おのれ、みどもをたばかったな」と怒り狂い、源五兵衛が、小万と赤子を殺す。二つ目の殺し場である。一つ目の殺し場が、「数を稼ぐ」なら、二つ目の殺し場は、もちろん、凄惨なのだけれど、様式美溢れる殺しの立ち回りとなる。私が観たこの場面では、10年前、08年11月、歌舞伎座の、仁左衛門の源五兵衛と時蔵の小万の舞台が印象に残る。以下、*印の部分は、その時の劇評である。

*「お前は、鬼じゃ、鬼じゃわいなあ」という、科白とは、裏腹に、艶かしい殺し場が、展開する。性愛は、撫でるように相手を愛撫する。仁左衛門と時蔵の殺し場は、刀で女体を撫でこそしないが、仁左衛門の振るう刀は、性愛のように、時蔵を愛撫しているように見えたのだ。殺しにも、「体位」があるかのごとく、ふたりは、幾つかのポーズを決めながら、(本来の言語論理からすると、全く矛盾する表現になるが)撫でるかのように、嬲(なぶ)りながら、仁左衛門は、時蔵を相手に、執拗に(あるいは、丹念に)刀を振るい、凄惨な殺しの地獄に堕ちて行く。様式美溢れる修羅の世界が拡がる。

上手の障子の間にも薩摩源五兵衛は入り込み、赤子の里親・おくろ(歌女之丞)を殺す。障子に殺し場のシルエットが映る。挙げ句、障子の間からか開けて連れ出した赤子さえも、手を添えさせて母親の小万自身に殺させるという残忍な行為も厭わない源五兵衛。

そういう所業とは、裏腹に、エロチックな所作で、エロスとタナトスの世界を構築して行くように見えた。性愛と死のアナロジー。エクスタシーの極みは、死に至る快楽。セクシャルとエロチックとは、違うということを感じさせたのが、この殺し場だった。セクシャルは、目に見えるもの。エロチックとは、目に見えるものに刺激されて、脳が認識するばかりで、目には見えないイマジネーションの世界。というように、区別すれば良いのだろうか。エロチスムとは、脳だけが、間接的に認識する感性。虚実の皮膜があると、それは、より鮮明に感じ取れるのではないか。

雨音が響き始める。小万の切首を懐に入れて、薩摩源五兵衛(幸四郎)は、外に出る。降り出した雨に気づいて、長屋に戻る。部屋の土間に置いてあったボロ傘を差して、再び表に出る。花道七三で、傘を広げ、殺しの現場から、立去る色悪。

性愛の極みのような殺人。その上、切首持ち去り。なにやら、昭和の阿部定事件を思い出す。理不尽な愛欲の果ての、男女の愛憎の極北の世界がここにもある。殺人鬼が去った後、舞台は、中央に残された赤子の遺体があるばかりで、暫く、動きが無い。音も無い。

花道七三で、薩摩源五兵衛(幸四郎)には、スポットが当たる。ボロ傘の内に佇む幸四郎に花道向う揚幕辺りからのスポットの光が焦点を合わせる。その影が、黒御簾の上に映し出される。幸四郎の歩みに合わせて、シルエットが次第に大きくなってくる。ああ、「先代萩」の仁木弾正のようだ、と私は思う。この場面は、上手の障子の間から下手の花道まで、シルエットで始まり、シルエットで終わる。

大詰第二場「愛染院門前の場」では、珍しく、「本首」のトリックが使われる。他人の女房の首を斬り落とし、それを懐に入れて帰って来ただけでも、グロテスクなのに、源五兵衛は、その首を机の上に飾り、お茶漬けを喰うなど、死と食(生)を併存させる辺りは、南北の凄まじいまでのエネルギーを感じさせる。さらに、死人の首(七之助)が、口を開けて、箸に挟んだ飯を喰おうとして、観客を驚かす。「切首」の身替わりに、七之助が、机の上に、自分の首を出していたから、「本首」という仕掛けだ。

この場面では、棺桶代わりの四斗樽のなかから、三五郎、実は、旧主・不破数右衛門のために尽力している了心、こと徳右衛門の息子・千太郎が、「モドリ」という悪党の善人戻りの演出となる。三五郎(獅童)は、己の腹に出刃包丁を突き立てて、自害を図り、棺桶の板をバラバラに壊して、飛び出してくる。「世に迷いしたわけゆえ」と、言いながら……。ここの三五郎は、「忠臣蔵」の勘平切腹とダブル・イメージされる。三五郎が、勘平なら、小万は、お軽か。

今回の獅童は、三五郎は初役だ。七之助の小万も、初役。「一途さゆえにどんどん墜ちていく。色気たっぷりに、あまり悪い人に見えないように演じたい」と、七之助は楽屋で語っている。仁左衛門と時蔵が演じた時は、殺し場が、濡れ場のように見えた。色気では、雀右衛門や時蔵の「大人の色気」に、まだ及ばないように見受けられた。七之助は、いずれ化けるだろう。今後の精進を期待したい。


キーパースンは、誰? 


この芝居の人間関係を整理すると、キーパースンになっているのは、三五郎の父親の了心こと、不破数右衛門の元家臣・徳右衛門だというのが、判る。しかし、了心が、三五郎と源五兵衛にそれぞれの関係を告げなかったために、三五郎は、源五兵衛を罠(美人局)に嵌(は)めて、金をだまし取り、源五兵衛は、それを恨んで殺人鬼となり、小万、こと三五郎の女房・お六ら8人を殺してしまう。いわば、同士討ち。

薩摩源五兵衛をめぐる主な人間関係。
薩摩源五兵衛伯父・冨森助右衛門 ―― 薩摩源五兵衛、実は不破数右衛門 ―― 了心こと、不破数右衛門の元家臣・徳右衛門 ―― 船宿・船頭、笹野屋三五郎、実は了心の息子 ―― 三五郎女房・お六こと、芸者・妲妃の小万、源五兵衛の愛人、実は、美人局 ―― (源五兵衛)。

そういう意味では、忠臣・徳右衛門こと、了心こそ、悪行の連鎖の鍵を握っていたことになる。それにもかかわらず、塩冶義士、いわゆる赤穂義士のなかに、脱落した不義士どころか大悪の真性・殺人鬼が紛れ込んでいる、というお話が浮き彫りにされる。南北の「忠臣蔵」とは、そういう忠臣蔵なのだ。


「義士」の中の殺人鬼


「騙し、騙され、その挙げ句の悲劇」というのは、歌舞伎の作劇法のひとつである。騙される源五兵衛(幸四郎)は、前半では、実は、「忠臣蔵」の塩冶家の家臣・不破数右衛門で、かつて盗賊に奪われた御用金(三百両)の一部百両を工面して、討ち入りに加わろうという「志」を持っている。源五兵衛は、その敵討ちというミッションが、巧く行かないという屈託感を抱く、世間知らずの武士だが、「美人局」組の、小万(七之助)らに百両を奪われ、さらに、小万には、三五郎(獅童)という亭主がいたということで、騙されたと知った後半は、人格が、変わってか、本来の、というか、粘着質のしつこい悪党、真性・殺人鬼になるから、人間は怖い。世間知らずの、弱い男が、惨忍になると、破滅的なほどの惨忍さを発揮する。源五兵衛は、破滅型の人間の闇淵の底深さを象徴しているように思える。特に、小万に刀を握らせて、我が子を殺させるべく、トドメを刺させる場面は、「根っからの殺人鬼」、悪鬼であることを印象付ける。赤子さえも、手を添えて、母親の小万自身に殺させる、という残忍さ。薩摩源五兵衛という浪人は、魔が差した、のではなく、本来彼の中に魔物を飼っている、のではないか。

一方、騙しに成功すると、自信過剰の、「非常識人」である三五郎は、脇が甘い。そのからくりを明かして、源五兵衛の怒りに火を着けてしまう。己より、さらに、非常識の極みに居て、執念深い、粘着質の源五兵衛の性格を知らなかったばっかりに……。これが、後の悲劇への元凶となるのを知っているのは、復讐の祝祭劇の司祭である南北ばかり。


「不義士」と義士のなかの殺人鬼


「四谷怪談」で、南北は、塩冶家断絶の後、浪人となった民谷伊右衛門を主人公として、「忠臣蔵」の義士たちに対して、「不義士」として描いたが、「盟三五大切」では、義士・不破数右衛門を主人公として、義士のなかに紛れ込んだ真性・殺人鬼を描いた。義士も不義士も、同じ人間だ、というのが南北の人間観。

「四谷怪談」が、妾と中間の密通事件を知った旗本が、ふたりを殺して、同じ戸板の裏表にふたりを縛り付けて、川へ流したという実際の事件をモデルにしたように、「盟三五大切」では、寛政6(1794)年2月大坂中の芝居で上演された並木五瓶原作「五大力恋緘」(ごだいりきこいのふうじめ。「五大力」は、不動明王ら五大明王という仏像の総称。大坂・曾根崎で実際に起きた源五兵衛らの5人斬り事件をモデルにした)を江戸の深川に舞台を移して、書き換えた形で、実際の事件をネタに再活用した。


「五大力」を「(三)五大切」と、書き換え狂言として利用し、愛する男(三五郎)の名前を埋め込んだ。それが、源五兵衛の粘着質の嫉妬心をさらに燃え上がらせることになるとも知らずに。
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