mixiユーザー(id:5277525)

2018年08月16日00:59

44 view

8月15日

 知人がフィリピンに旅立った。前日には鼻かぜをひいたと言い、ティッシュの箱を離さないでいたからすこし心配だ。でも同僚のフィリピン人が帯同するのだから、万が一何かあってもスムーズな対処をしてくれるはずだ。聞けばそのフィリピン人の実家に宿泊する予定なのだという。
 1ヶ月ほど前、里帰りを予定していたフィリピン人が祖国への想いを語っていた時、知人は「とても素敵な場所なんだね」と合いの手をいれた。そして「いつかおれも行ってみたいな」と彼を盛り立てるつもりで、会話に花をそえるつもりで、いわば社交辞令として述べた。でも、フィリピン人はこれを真正面から受け取った。小麦粉色の笑顔をぱっと浮かべ、「では、一緒に行きましょう」とはつらつと言った。もしかするとフィリピンには社交辞令という概念がないのかもしれない。もしくは彼のまだ十全とは言えない語学力では、その微妙なニュアンスをくみ取ることが難しかったのかもしれない。どちらにせよ、そこから彼は里帰りの準備を知人を含めたものに切り替えてすすめていった。
 知人としてはフィリピンに行くつもりは毛ほどもなかった。うかつに発した一言が、ものごとを大きく動かそうとしていることにひどく戸惑った。知人は誤解をとくために、すぐにも彼を追いかけていき、肩に手をかけた。フィリピン人はゆっくりと振り返り知人を見つめる。そこで「おれはフィリピンには行かないぜ」と、はっきりと言うことができれば問題はなかったはずだ。でも元々が日本人気質にできている知人は、回りくどく婉曲的なものの言い方で、彼を傷つけないような配慮を言葉の端々にしのばせた。フィリピン人は青く澄みわたる海のような笑顔で「早くパスポートをとってきてください」と言った。
 それから知人は、フィリピンでのスケジュールがみるみる埋められていくのを止めるに止められず、その場しのぎの生返事でやり過ごすことにも限界がきて、ついにはパスポートを取得せざるをえなくなった。知人にとってはじめての海外だった。けっしてフィリピンという国に不服があるわけではないけれど、なんにせよ思いがけない導かれ方をしたものだから心の準備が追いつかない。知人はうつむいて目頭を押さえ、「水は飲んじゃだめ。水は飲んじゃだめ」とおまじないのように繰り返していた。
 楽しんできてください、とぼくたちは言った。もしかするとそれは少しだけシニカルな響きを伴ってしまったかもしれない。でも知人は「まあ、こうした機会でもないとさ、死ぬまで外に出なかったかもしれないしね」と笑ってみせた。  
 いい旅になることをぼくたちは祈っている。引きこもりがちの知人がそこで何を得てくるかは、とても興味をひかれるところだ。でも、知人の「下痢になるかもしれないからオムツを履いていこうかな」、という冗談には誰も取り合わなかった。予定にない有給消化によって職場は悲鳴をあげていたからだ。お土産を期待してこらえていく。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する