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2018年08月07日00:08

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8月6日

 森に足をふみいれると、無数の蝉の鳴き声につつまれて頭がぼんやりとした。蝉たちが一方的にしゃべり、こちらは口数が減る。そこは蝉に支配されている場所だった。ぼくたちの意見を割り込ませる隙はすこしも残されておらず、うつむいて足早にそこを通り過ぎるしかない。でも友人は、皮肉を込めたものか「まるで蝉のシャワーだな」とひそひそと言った。ぼくは、樹上から蝉がバラバラと落ちてくる光景を想像した。でも彼が言い表したいのは、蝉の鳴き声が音響的にすさまじい、ということだというのもわかる。ぼくは相づちも打たなかったし、指摘もしなかった。ぼくも友人も聴覚がおかしくなっていた。何が正常であるかなんて、もはやわかりはしなかった。
 傾斜はだんだんと急になっていった。息が切れて、膝に乳酸がたまっていく。さきほどロッジの管理人らしき男に「そんな靴で登山するもんじゃないぜ。山を舐めるんじゃないよ」と注意を受けた。友人は、べつに本格的な登山をするわけではない、初級者向けのハイキングコースを進むつもりだ、と説明した。ぼくは、管理人さんが体育館履きのような靴を履いているのをじっと見ていた。でも指摘はしない。きっと山と対等でなければロッジを運営するのは難しいのかもしれない。
 散策の途中、写真家のおじさんと出会った。コケを専門に撮っている人らしい。なんでもここは全国的にもコケが多く見られ、質も優良であることから名が知られているのだという。おじさんが手を差し向ける方を見やると、傾斜にそって岩がつらなり、そのすべてにコケが覆っていた。コケは木漏れ日を静かに受け止めて、つつましく呼吸をくりかえしている。「渋いですねえ」とぼくたちは感心する。「美しいだろ」とおじさんは言う。しばらくおじさんと道を共にして、コケについて色々と教わった。ぼくたちが病院に勤務していることを話すと、おじさんは「おれの息子もレントゲン技師をやっているんだよ」と笑った。「じゃあ、親子で写真を撮っているわけですね」とその共通点を指摘してみると、これはまったくの無視をされた。
 おじさんと別れて、湖畔の方へ向かった。湖には霧がたちこめていた。驚くほど濃密な霧で、すべてを覆いつくしてしまっている。まるで雲の中に入り込んでしまったようだった。貸しボート屋の桟橋を進んでいくと、いよいよ何も見えなくなった。ぼくは余すところなく白く塗りつぶされた虚空のどこかを見つめていて、そこには何一つ指摘をするものがなかった。自分は死んだのかもしれないと思った。友人に声をかけられるまで、ぼくはそこに立ち尽くしていた。なにか妙な力に引き寄せられる感触を確かに感じた。もしかすると本当に危なかったのかもしれない。ちゃんとした登山靴だったら踏ん張れるのかなと思った。
 
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