本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生420日目、「極東戦域核戦争」開戦374日目、「人民の天皇論」宣撫開始まであと294日(怒)!「法の君主論」・古代「試論」編第二段!これ書くべきなのかどうか酷く迷った(-_-;)。
だがあえて「試論」と言う形で世に問うこととした。
なぜなら、そう遠くない近未来にこれが再現されることを深く憂うるからだ(-_-;)。前回、660年に始まる「百済復興戦争」が勝っていた戦いを「謎の総撤退」命令で捨てた「満州敗戦」方式の「偽装敗戦」であると述べた。この回はその続きだが「事態」はそんな甘っちょろいものではなかった(怒)。はっきり書く、
7世紀後半、日本は「九州失陥」の危機只中にあった
のだと(怒)。根拠は3つ。現代でも延々と続いている「天智天皇・親百済論」の悶絶プロパガンダの「存在」。2つ目は「旧唐書」における倭国条と日本国条の「並列記載」問題。3つ目は今でも見るたびに仰天する巨大要塞「大宰府・羅城」の「存在」だ。なぜ、この三つがみんなの頭の中で「統合」できないのかさっぱりわからん(-_-#)。怒ってても仕方ないので話を元に戻す。ひとつひとつ「論証」していこう。まず、当たり前の話だか
天智天皇は「親百済論者」ではない(怒)!
悶絶するような「デタラメ」がウンザリするほど日本国中に巻き散らかされている(-_-#)。今上様の直系皇祖であらせられるので書きたくなかったのだが、どーーーしてもここだけは避けて通れないのだ<(T^T)>。胃が痛い(ToT)。以下、日本を「危機」に陥れた天智天皇の反百済「偽装敗戦」政策は以下の通り
629年 任那王の末裔・金庾信が真平王の麾下に初陣。
645年 大化の改新、孝徳天皇が登極する。
647年 金春秋が孝徳天皇に謁見、臣従を約す。
648年 金春秋が唐の太宗と軍事同盟を締結。
651年 巨勢大臣が新羅征討を上奏。
652年 難波長柄豊碕宮へ遷都。
653年 中大兄皇子が反逆、皇族・臣下の大部分をつれて離反する。
654年 孝徳天皇が謎の死をとげ、皇極上皇が斎明天皇として重祚。
658年 巨勢大臣が死去。直後に孝徳天皇の遺児・有馬皇子が中大兄皇子に逮捕され処刑される。
同年 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征、唐と新羅が百済に攻め込む。
660年 阿倍比羅夫の樺太遠征
同年 百済使が百済の滅亡を報告し、救援を要請。斉明天皇出兵を命じる。
661年 天皇親征、朝倉橘広庭宮に遷幸するも直後に急死。中大兄皇子が即位を拒否して皇太子のまま「称制」する。
同年 扶余豊璋に5000の兵を与え帰国させる。
662年 高句麗が援兵を要請、援護のため百済へ出兵。
同年 阿曇比邏夫連たちが扶余豊璋本人を百済へ送る。百済を復興。
同年 扶余豊璋が部下の諌めを聞かず要害・州柔城から避城に都を移す。
663年 百済南部への新羅軍の侵攻を受け避城から要害・州柔城に都を戻す。
同年 日本軍主力27000が百済南部へ上陸。侵攻新羅軍を撃破する。
同年 突如、扶余豊璋が腹心の鬼室福信を殺害する。
同年 新羅が州柔城に侵攻。扶余豊璋のデタラメ命令で日本軍は白村江の唐軍に大敗する。
同年 扶余豊璋は高句麗に逃亡し、州柔城が陥落。日本軍はなぜか枕服岐城、牟弖城、弖礼城を放棄して百済遺民と共に「百済王国滅亡」を宣言して日本に総撤退する。
664年 唐軍の郭務悰が博多に上陸し、筑紫都督府を設置する。蘇我連大臣が死亡。
同年 筑紫大宰府・水城・大野城を設置して筑紫都督府を包囲する。
上記のように延々と天智天皇は「国益ガン無視」の「親新羅」政策を続けている(怒)。おそらく「儒教」にカブレた天智天皇はチャイナに対して「宗教的恐怖感」を持ってしまい、それを逆用した新羅に「騙され」たのだろう(怒)。百済を新羅に「引き渡す」かわりに新羅は「下位同盟国」として臣従しチャイナとの友好関係を「取り持つ」黙契が成り立ったと信じたが、
当然のように新羅はチャイナ側に立って黙契を「反故」にした(黒笑)。
顔が引きつる。この反百済「偽装敗戦」政策の中心にいたのが「日本の公敵」金庾信と「日本国史上最低最悪の裏切り者」筑紫君薩野馬だったろう(怒)。当たり前だが、この二人は「同族」だ。
筑紫の君≒旧「奴国王」≒任那王≒金海金氏
さ(-_-;)。そう考えれば「旧唐書」における倭国条と日本国条の「並列記載」問題もきれいに解決する。古代において日本の対チャイナ外交を「取り持っ」た筑紫の君は528年に「外交権」を剥奪されたが、実は「秘密裏」に新羅を拠点として日本国とは別の「倭国」としての「独自外交」を維持していたのさ。「旧唐書」に倭国と日本国が並列記載されているとは
列島の外交使節が2系統「存在」したことに他ならない(-_-#)。
チャイナとの友好関係を「取り持」ちますよーーーと「騙され」て「百済放棄」を実行したとたん、新羅は唐使節団の日本派遣を斡旋し「倭国(旧「奴国)」復興、つまり唐への「九州割譲」を要求してきたのさ(激怒)!そのための「連絡事務所」として「ナの津」つまり
博多に設置されたのが「筑紫都督府」だ(怒)。
これ言うと「日本を征服したのならチャイナが自慢しないわけがない」としたり顔で抜かす緊張感ゼロのゾンビ野郎が大量に沸いて出てくるが(-_-#)、高宗の封禅儀式に被征服民族の一つとして「倭国」が列席している記載が「旧唐書」に明記されている問題はどうなるんだ?「高宗 封禅 倭国」で少し検索してみろ。この、大馬鹿野郎(怒)!当然、すぐさま高句麗と同盟を締結して「百済復興戦争」を再開すべきだったのだが、
チャイナへの「宗教的恐怖感」に縛られた天智天皇にはそれが出来なかった(ToT)。
あげくパニック状態に陥ってなんといきなり「本土決戦」の準備を始めるしまつ(ToT)。そのために作られたのが巨大要塞「大宰府・羅城」だ。一度調べてみるといい。ビックリΣ(OoO)すること請け合いだから(-_-;)。大城山城・大野城・基肄城・阿志岐山城・怡土城という5つの巨大な付け城を東西8キロ、南北10キロの土塁と水濠で繋げた「超巨大要塞」、江戸幕府の「牙城」だった「宮城(江戸城)」より遥かにデカイ(-_-;)。こんな馬鹿げたもん造るより「第二の張政」郭務悰なんざ、さっさとぶっ殺して新羅に攻め込むべきだろ(怒)。だが、事態はあれよあれよと言う間に「悪化」していった(怒)。そして、672年、唐軍2000の
軍事駐屯が現実のものとなる「直前」大伴一族と大海人皇子が「決起」した。
それが「壬申の変」さ(-_-;)。あぶねーーーーーーーー、ほんと、タッチの差だった(ToT)。読むたびに心臓バクバク言う(ToT)。そして、近江朝は打倒され大海人皇子が天武天皇として即位するわけだが、その後も延々と「親唐」派・「親新羅」派はとの「暗闘」が続き、いくつかの「作戦」は行われたが、結局、「百済復興戦争」は沙汰やみになった(怒)。「史上最低の大嘘つき」新羅の「粘り勝ち」ってとこか(黒笑)。その後の「半島」については「法制通史概論(2016年01月29日)」で述べたので割愛する。天武朝は今の日本の「カンニング国民」と違い、この「大失敗」を十分に「反省」し即座に手を打った。それが
仏教の「国教化」政策だ。
天武朝が行った仏教の「国教化」政策の最大の眼目が「アンチ・儒教」の「思想防衛」にあることに何故みんな気付かない(-_-#)?同時に行われた修史事業が「アンチ・チャイナ」の「思想防衛」政策だと・な・ん・で・気付かないんだよ(怒)!はーーーーーーー、言うの疲れてきた(ToT)。みんなさーーーーー、繰り返すけど
「国史」を学ぼう!「国史」を学ぼう!「国史」を学ぼう!
「日本史」なんて外人目線の「インチキ歴史」ばっか読んでるからこの程度のことが判んなくなっちまうんだよ(-_-#)。「国史」を学ぼう!「国史」を学ぼう!「国史」を学ぼう!「日本史」なんざ全部シュレッダーに放り込んでいますぐ「国史(ナショナル・ヒストリー)」を学ぼう!
われ等が「父祖」たちの「苦闘」の歴史を学ぼうーーーー(ToT)(ToT)(ToT)!
はーーーーーー、なぜこれ俺が叫ばなきゃいけないのよ(ToT)。ほんと嫌になる(怒)。たのむからさーーーーーー、本来「言うべき人」がいってくれよ(ToT)。中年オタッキー一人じゃどーーーにもなんねーーよ(-_-;)。くっされ!
PS、昨日「腰」をやってしまい身動きとれなくなった(ToT)。われながらドンドンぶ壊れていってる。やること、てんこ盛りで「体」が悲鳴を上げてる。ほんと、勘弁してくれ。とほほ。
おまけにみくしー検索かけてみました。
「新羅」
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