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2018年07月02日09:52

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7月2日

 食堂で激しくムセ込む男を見た。立て続けにする咳は胃が裏返ってしまいそうな音をたてた。顔を紅潮させていて、見開いた目の中まで真っ赤だった。苦しげに開いた口には、チンジャオロースらしき色合いのものがのぞける。おそらくそれの食材がふいなはずみで正規のルートを逸れ、道ではないところを分け入っていった。どこでも愛される中国の伝統料理もそこでは歓迎されることはなかったみたいだ。
 いつまでたっても男のムセ込みはおさまる気配はなかった。食堂はしんと静まり返り、男の激しい咳だけが響き渡った。ほとんどの人は、その連続で起きる咳の中でなんとなく箸をとめて、テーブルの上のどこか一点を見つめていた。何人かの同僚は、調子を崩した投手の元に集まる野手みたいに彼を囲み、背中をさするなどした。またある人は、彼の口から流れ出るよだれや残渣物に食欲をそがれ、顔をしかめて食堂から出ていってしまった。
 たぶん、みんなが考えていたことは同じだったと思う。苦しいのはよくわかるけれど、ちょっとでも口元に手を添えてもらえたらなあ、という点だ。彼はシャツのすそをぎゅっと固くにぎりしめ、この苦難が過ぎ去っていくのを耐えていた。その気持ちはわからないでもない。力んでしまうのは体の構造上、仕方がないことだ。でもその隙に、口からはたくさんのしぶきが何にも遮られることなく飛び散っていった。もちろん、彼のことは気の毒に思う。誰もが同じような経験したことがあり、その苦しさはよくわかるはずだ。でもぼくたちは、もう一人、彼の向かいで食事をしている友人の男性のことを気にかけてしまう。友人は、前方から飛んでくるものを一手に引き受けていた。たとえば、もしその飛沫が蛍光色であったならば、友人は余すところなく塗りつぶされて重要な年号みたいに着目されることになるはずだ。にもかかわらず、友人は嫌な顔ひとつすることなく、泰然としていた。さらにそこで、むせ込む男へやさしく声かけをしたりもする。これには誰もが感心した。その美しい友情に感動すらした。だからこそ、その友人のためにも、せめて手を口元にもっていってくれ、とぼくたちは願うのだ。
 そのうちに、咳が弱まる気配があった。だんどんと落ち着きを取り戻し、騒動は収束へ向かっていった。彼が復帰したあとの第一声には、それなりの注目がなされた。きっと向いの友人に謝罪、そしてその友情に感謝をするのだと思っていた。それによって、ぼくたちはすっと胸をなでおろして、停止していた食堂の時間も進んでいくと信じていた。でも彼は、ティッシュで鼻をちんとかんだ後に、「このあとの会議だから、早く食べちゃおうぜ」と言った。
 ぼくたちは妙な世界に巻き込まれたように感じて、めまいをおぼえた。それって、4コマ漫画の1コマ目。起承転結の起の部分にあたるセリフじゃんと思った。一瞬すべては白昼夢だったのではないかとも疑ったけけれど、でもぼくたちの耳には未だにその咳の残響がある。むせ込みは確かに食堂で起きたのだ。都合のわるいことを棚にあげてしまう、というのはよくある話だけれど、最初からやり直す、というのははじめて見た。時間って巻き戻せるんだなって思った。
 

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