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2018年06月19日06:55

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石原莞爾平和思想研究会・島田守康編集長

日本の知の世界牽引者、“ニューアカデミズムの祖”と呼ばれる山口昌男氏が、逝去されました。文化人類学者として有名で、長く東京外国語大学で教鞭をとったのち、札幌大学の学長も務められました。

「知の巨人」だけあって、単著だけでも50冊をものにしていますが、その中の一冊に石原莞爾将軍を取り上げています。1995年に発行された『「挫折」の昭和史』(岩波書店、現在文庫分となって上下巻、定価各1260円)で、宣伝文句によると「昭和モダニズムは満州で開花する一方、戦時下の文化・スポーツ活動に結実した。その担い手は林達夫、小泉信三ら“挫折”を経験した人々であり、石原莞爾らの知的水脈と共鳴した。近代日本の歴史人類学という課題に挑む労作」とあります。

ネット上のある評者によると、「石原莞爾の従来あまり注目されて来なかった“軍人の教養”という側面を明らかにして、現代史研究にありがちなイデオロギー的偏差からひとまず自由になり、『人間・石原莞爾』の実像を探究したもの」と語られています。

実は、私は戦時中、盗難・焼失に遭いながらも1万点を超える書籍・書簡・遺品類が現存している石原将軍関係資料の経緯を知りたかったのですが、仲條立一・菅原一彪編『石原莞爾のすべて』(新人物往来社、1989年刊)中の仲條立一筆「石原文庫始末記」と共に、この山口氏の大著中の「読書する軍人」の章にある「補論・将軍の蔵書」に多くの新知見を得ました。

この両書文面によって、初めて関係資料の全体像が読み解けた感じがして、私はそれを元に「石原莞爾将軍の蔵書顛末について」と題する一文をしたためましたが、これはまだ未公表です。

北海道から上京の折にはインタビューもしたいと考えておりましたが、今となっては大きな示唆を遺してくれた山口昌男氏に感謝です。

石原莞爾の人脈ネット解析2010年8月15日
山口昌男の「挫折の昭和史」はまことに意想外で新鮮な昭和初期の断面図を展開しているが、失われたヒーローとしての石原莞爾にあてる照明が人物をポストモダンに照らしている。

可能的ヒーローの石原莞爾の事績は、満州国(短期的傀儡国家に終わった)の創建や五族協和の理想実現(大きな掛け声は小さく萎んだ)などがある。これらが永続的な実を結んでいれば昭和のヒーローとなれたかもしれないが、それは虚しかった。

その後の歴史が語るとおり関東軍の暴走と泥沼の中華事変は彼の負の遺産だ。ただ、一時的にせよ一部の東洋人にその理念を共感せしめたことをもって善とすべきだろう。

満州国の五族協和とは何か。「日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人」の五族の(平等的)民族自決による国民国家の創設である。当時の他の全体主義国家とは違いタテマエ的には東洋人の一体化を目指した。この偽国が日本の中枢部の政治家や軍人らからは、ソ連への藩塀とみなされたことも事実である。

石原の人脈ネットはどういったものだったか。
 石原莞爾→永田鉄山→岩波茂雄→寺田寅彦
 石原莞爾→今田新太郎→津野田知重→牛島辰熊→大山倍達
 石原莞爾→里見岸雄→北原龍雄→大川周明
などなどが同書によって紡ぎだされる。

石原は時代のハブだったのだろう。永田鉄山は岩波茂雄と同郷であったそうだ。さらにやがては白昼凶刃に倒れる鉄山は、陸軍大学校出エリートでありつつ寺田寅彦と会談をするなど幅広い視野もあり、時局の要人をして「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と言わしめた。

ここで夢想が起きる。「天災と国防」(昭和九年十一月)などで地下都市を説いた寺田の意見が永田鉄山を介して、より陸軍の国防戦略にもっと浸透していればどうなったか。あるいは合理的思考がもっと中枢まで浸透すれば、あのような無謀な戦いは避けられたのでないだろうか。

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