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2018年05月30日22:59

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ウコン組

 今日は天気が悪く、朝からまるで調子が悪い。
 午後から出かけたかったが、雨も止まず、名人戦を見て過ごす。

 今日は佐藤天彦名人が勝つ。後手番で勝った名人、本領発揮というところだろうか?

 夜は阪神もずるずると負けてしまう。ソフトバンクは強い。強すぎる。

 そんな一日で、全く調子が出ないまま一日が終わろうとしている。それでも、日記ぐらいは書いておくか、と面白そうな記事を探して見た。



 幼稚園の時、最初は「パリス」組、年少で「ウコン組」、年長が「マリア組」だった。

 子どもでも、「マリア」は理解できる。マリア像とか、園庭にあるわけだし、毎朝その像に向かって挨拶をするように指導されていた。子どもながら、そんなルールに意味があるとは思えなかったので、形ばかりのあいさつを繰り返す日々。

 年少の時「ウコン組」だったのだが、これは子どもにはまるで分からない。「うんこ」だよね。「うんこ組」。
 他に何かあるのか聞いてみたい。

 高山右近、という人物が高槻城主だったことは小学校でも習った。でも、実際に城跡は広場になっているだけで、そこに姫路城のような「お城」があった、などと小学生の想像力では無理だった。
 学校では、「官軍が全部壊してしまった」と教わり、右翼・旧日本軍・官軍はまるでこの世の三悪かのように教わっていたものだ。といって、江戸幕府が正義と教わるわけでもない、根源的悪の支配者として江戸幕府は別の意味で断罪されていた。

 歴史的事実を冷静にみるなら、江戸幕府がどうのこうのではなく、封建制度での支配者と被支配者の関係は、貴族と奴隷、のような関係ではあるのだが、日本のように余り生産性の高くない国土においては支配者側であるはずの人たちだって、さほど裕福ではなかったのが事実。そんな社会システムであっても、ルールを良く知りお金を儲けて成り上がる「商人」たちはいるのだが、そのことについても、「徳政令が連発され」「商人は度々財産を没収された」のように捻じ曲げて教えられたものだった。

 高槻が城下町だったことは、今の街並みを歩いてみても良くわかる。城下町特有の道路の作りがあり、西国街道は今でも江戸時代に街道があった場所に通っている。
 江戸時代になってからの「お城」が戦術的重要性があったわけでもないから、大阪城や名古屋城のような立派な「お堀」や、遠くまで見渡せる天守閣がないのも当然といえばそうである。
 今回、戦国時代の遺構が見つかったらしいから、ある程度戦術的なものが発掘されてくるのも当然と言えば当然である。実際に城に籠城して戦う、とか、そんなことは本当に行われたのかどうかは色々疑問の余地は大きい。
 私は常々国内戦争では、戊辰戦争を引き合いに出すのが分かりやすいと感じる。割と記録が残っていて、戦場に投入された人員数なども正確な数値に近いと思えるからだ。
 戊辰戦争の時代には、ヨーロッパからの新しい銃火器が投入されていたとはいえ、戦国時代にも人に対する殺傷能力のある「鉄砲」はあったのだから、現実的な戦闘に投入される兵隊の数が「桁違いに大きい」という、良く知られた「史実」が正しいとか、到底思えない訳である。
 実際に関ヶ原なんかを見に行ってみればわかるが、あそこに「30万人」も人が集まった、なんて冗談にも程がある。
 一桁以上はサバが読まれている、と考えるのが筋だと感じる。
 (ドラマとか小説は、基本「嘘」だから、面白ければ良いのだよ。)


 この記事だと、高山右近は最後はマニラに行ったとか。
 それは、それで面白かったのではないか?
 当時のマニラの町に今ほどの多くの人が住んでいたとは思えないが、それでも大都会だっただろう。「サリサリ」のような店舗は当時からあったかもしれない。フィリピンで暮らした日々のことを思い返すと、マニラでの生活も悪くはなかったのではないかと思う。熱帯の食べ物は美味しいものも多いしね。当時はまだパイナップルとかはなかったはずだが、バナナとか普通にその辺に生えていたのではなかろうか? 柑橘類も色々あったはずだしね。スペインの文化はすでに入っていたはずだから、パエリアとか時々レストランで食べていたかも。

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■高槻城、構造に迫る発見 キリシタン大名の拡張工事跡か
(朝日新聞デジタル - 05月30日 20:39)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5133834

 大阪府高槻市の高槻城跡で、キリシタン大名の高山右近(1552〜1615)が城主となる以前に築かれたとみられる堀跡がみつかった。市教育委員会が30日発表した。堀は右近が城主となった後、城の拡張のために埋め立てられたとみられる。専門家は、絵図や文献史料の乏しい戦国時代の高槻城の構造に迫る貴重な発見として注目する。

 高山右近は織田信長に仕えた武将和田惟政(これまさ)・惟長(これなが)父子の家臣だったが、1573年に惟長を追放し、高槻城主となった。キリシタン大名として知られ、1614年の禁教令でマニラに追放され、病死した。

 市教委は、昨年9月から高槻城跡で発掘調査を実施。市教委によれば、幅約7メートル、深さ約2・5メートル、長さ60メートル以上の東西方向の堀跡がみつかった。これまでの調査で、この堀跡から北へ約20メートルの地点から幅19メートル以上の別の堀跡が出土していた。今回みつかった堀は右近が城主になる前の戦国時代に築かれ、右近が城の大改修を進めた時代に埋め立てられたとみられる。
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