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2018年05月15日00:16

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5月14日

いろんなところからボールペンを持ち帰ってくる。職場から葬儀場の受付にいたるまで、一時的に借りたペンを、そのままポケットに入れ込んでしまう。あくまで無意識のうちにやっていることだけど、もしかすると底意地の悪いたましいが、ぼくの中に存在しているのかもしれない。これまで持ち帰ったボールペンはトータルで100本くらいあると思う。
 よく人から、いったん置け、と注意される。たとえば食卓の場で、ぼくはお箸を持ったまましょう油差しを取ろうとする。はたまた、そのときに宅配便が来れば、ぼくはお箸を手にしたまま判子を持って認め印を押す。考えてみれば、とても行儀の悪いことをしているのだけれど、このときぼくの中ではお箸は存在していないことになっている。新しい何かに行動をうつすとき、ひとつ前の出来事はふっと明かりを消してしまう。暗闇の中に置き去ってしまう。それにつまずいたりしないかぎり、ぼくにはもう思い出すことができない。トイレの電気はつけっぱなしにするくせに、頭の中はひとつひとつまめに明かりを消していくわけだ。それを節電などといって冗談にすれば深刻な話にも聞こえないけれど、実際にはあり得ない数のボールペンが自宅にあるわけなので、へらへらしている場合でもない。
今日、家の前に出しておいた古い棚がなくなっていた。いずれはゴミとして捨てるつもりのものだった。あたりを探してみたけれど、どこにも見当たらなかった。ほんの少し前には、間違いなくそこにあったのだ。そうなると、誰かが通りがかりに持ち去ったとしか考えられなかった。とても小さな棚だったから、やろうと思えば簡単に腕に抱えられるはずだ。いずれにせよ、こちらとしては業者に破棄してもらう手間が省けたわけだけど、やっぱりどこか気色がわるかった。その棚は、見た目からしてももう使えるとは思えないボロボロのものだった。持ち去る理由ふを思い浮かべるのはなかなか難しい。棚のなくなった場所は、手をのばした誰かの息づかいがまだ聞こえてくるようで、とても不気味な感じがした。
 しばらくもやもやしていたけれど、ふと、ぼくにボールペンをとられた人も、同じような気持ちだったのかなと思うにいたった。自分の持ち物が忽然とすがたを消したら、やっぱりだれだって嫌な思いをする。そういう当たり前のことを、同じ側に立ってやっと感じることができる。思い返せばこれまでぼくはずいぶんな罪をはたらいてきた。因果応報という言葉があるけれど、棚を取られたのはボールペンの報いだと言われれば、妙に合点がいく。自分がやったことは、ちゃんと回りまわって返ってくるのだ。そういう視点でみてみると、あの小さな棚は、ちょうどボールペン100本ほどの価格であったような覚えがある。さらに言えば、その引き出しは、ちょうどボールペン100本がぴったりと収まるようなサイズだったように思う。なんだか気持ちがいいほど、見事に因果がフィットしている。もしかするとぼくは、この世の摂理を具体的な形で体感したのかもしれなかった。ぼくはなんだかうれしくなって、これをいろんな人に話した。棚を取られた不審感なんか、とっくに暗闇に押しやっていた。

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