mixiユーザー(id:9213055)

2018年05月13日15:24

437 view

5月国立劇場(人形)第一部/五代目玉助襲名披露

18年05月国立劇場(人形浄瑠璃)・第一部「本朝廿四孝」「口上」「義経千本桜」


五代目吉田玉助襲名披露の舞台


五代目吉田玉助の襲名披露の演目は、「本朝廿四孝」のうち、「勘助住家の段」で、山本勘助家の長男・横蔵を操る。今回の段組みは、次の通り。「桔梗原の段」、「景勝下駄の段」、「勘助住家の段」。「桔梗原の段」と「景勝下駄の段」の間に、襲名披露「口上」の舞台が設定されている。玉助襲名をコアに劇評をまとめた。

「本朝廿四孝」は、近松半二、三好松洛らの原作で、全五段構成の時代物。1766(明和3)年、大坂竹本座で、初演。今回の上演は、全五段のうち、「三段目」の山本勘助誕生物語が上演される。「桔梗原の段」の「口」は、竹本が芳穂太夫、三味線方が、團吾、「奥」が、文字久太夫、團七というコンビ。

「桔梗原の段」。越後の長尾方の執権(越名弾正)・妻入江。甲斐の武田方の執権(高坂弾正)・妻唐織という、執権の奥方同士の争いから、武田方の軍師として有名な「山本勘助」の名札を付けた捨て子の保護争い(唐織の発案で、赤子が、どちらの乳を飲むかで、決着をつけようという争いなので、これも、パロディで、通称「乳争い」という)となる。

開幕すると、本舞台中央に「榜示杭(標)」があり、上手側に「越後之国」、下手側に、「甲斐之国」と書いてある。桔梗原の遠景に山々、高山は、雪を冠っているのが見える。下手より、甲斐の武田方・高坂家の奴ふたり(それぞれ、一人遣い)が、国境周辺で、秣(まぐさ)を刈り始める。上手からも、越後の長尾方・越名家の奴ふたりが、秣を刈ろうとやってくるが、自領に入り込んで、秣を刈っている高坂家の奴を見つけ、争いとなる。さらに、両家の奥方が出て来て、奴同士の喧嘩が、奥方同士の喧嘩に発展することで、甲斐領の武田家と越後領の長尾家、それぞれの執権同士(高坂家と越名家)の対立が、浮かび上がってくるという趣向だ。上手下手と、左右対称を重視しながら、奴同士、奥方同士、執権同士というように、同じ身分のものたちが、等しく出て来て、芝居をする。

一旦両家の人たちが引っ込んだ後、数え年で、3歳というから、満年齢なら、1歳半くらいの、実子の峰松をなぜか、父親の慈悲蔵が捨てに来る。捨てた場所が「榜示杭」の前、高坂家の奴が、都合良く、置いて帰った秣狩りの籠の中。さらに、捨子につけた札に軍師「山本勘助」の名があることから、慈悲蔵が去った後、再び、両家の人たちが、戻ってきて、今度は、勘助所縁の赤子をめぐって、武田家と長尾家の執権同士を巻き込んでの、対立となる。

ふたりの執権は、いずれも、名を弾正というが、越後側の越名は、槍が得意で、「槍弾正」。甲斐側の高坂は、平和主義者で、逃げが得意な「逃げ弾正」という。再び登場した奥方同士の争いは、先ほど触れたように、通称「乳争い」。空腹で泣く赤子に乳を飲ませようとする。赤子が、乳を飲みつく方が、勝ち。ところが、赤子は、双方の乳を飲まないで、泣きわめき続ける。そこで、赤子の泣き止んだ方が勝ちとなり、越名家側は、入江と弾正が、ふたりで、赤子の機嫌を取ろうとするが、赤子は泣き止まない。高坂家の唐織が、抱いて、泣き止ましたというので、高坂家が勝った、ということで、高坂家の面々が、引揚げて行く。

桔梗原の場面では、慈悲蔵の出入りの場面以外は、両者の登場人物の数、役どころ、衣裳など、すべて、左右の釣り合いが取れていて、よきところにて、対称の妙を発揮する、という体。人形の首(かしら)も、奴は、皆同じ。高坂家の妻・唐織は「老女形」(歌舞伎なら、「片はずし」の役どころ)、越名家の妻・入り江は、「八汐」(先代萩の、あの敵役の「八汐」である)。執権同士では、高坂弾正が、「孔明」(辛抱立役の首)で、越名弾正が、「金時」(太い眉毛の厳つい首)。越名家の首である、「八汐」も「金時」も、怖い顔のつくりなので、これでは、ふたりで、あやしても、赤子が泣き止む筈がない。

この争いは、要するに、「山本勘助」という軍師の息子たち、山本家の長男・横蔵と次男・慈悲蔵を甲斐の武田家と越後の長尾家が、奪い合うという話が、究極の目的なのだが、それは、追々明らかになって来るという趣向だ。いわば、「川中島」だ。この大きな流れを承知していないと、複雑な筋、「実は、実は、」という二重、三重の、人格を持った主たる登場人物に惑わされ、理解が未消化のママ、引き回されて、何がなんだか判らなくなる恐れがある。大きな流れを承知しておき、後は、場面場面を楽しむというのが、半二劇を楽しむコツだろうと思う。

「三段目」の見せ場は、続く「景勝下駄の段」、「勘助住家の段」。このうち、いわゆる、通称「筍掘り」(三段目全体を総称して、「筍掘り」とも言う)とも言われる場面は、実は、山本勘助の未亡人・越路が我が子の兄弟に仕掛けた、兵書(軍法奥義の書)探し、二代目「勘助襲名」決定のための策略。横蔵・慈悲蔵の兄弟が、敵味方に分かれて、母への孝行と主への忠義を競い合う。「筍掘り」などという通称でも判るように、この対立も、パロディの工夫が、趣向となっている。

全五段構成では、日本の戦国時代(15世紀後半から16世紀後半)のうち、武田信玄と長尾謙信の争いがテーマで、サスペンス仕立てのポリティカル・ファンタジー=足利将軍(義晴)の暗殺事件があり、将軍家を守るために、長尾謙信と武田信玄が、不和を装い、嫡男の身替わりを立てようとするなどした上で、偽装の争いを仕掛け、将軍暗殺の真犯人(斎藤道三)あぶり出しを狙う作戦の物語。主な人物の行動には、二重三重の裏があるので、筋は、複雑怪奇。簡単には、説明し難い。外題は、中国の「廿四孝」のもじりで、中国の古書「廿四孝」の故事が、エピソードとして、随所に埋め込まれている。

「本朝廿四孝」全五段の対立の構図を見ておくと、大将・武田信玄対長尾謙信、嫡男・武田勝頼対長尾景勝、横蔵(後に、二代目山本勘助)対慈悲蔵(実は、直江山城之助)の兄弟、謙信息女の八重垣姫対腰元、実は、斎藤道三の息女濡衣で、それに加えて、嫡男のそれぞれについての身替わり話の対比など、複雑な筋が難点ながら、大衆受けする華やかさもあり、半二劇の中では、「近江源氏先陣館」、「妹背山婦女庭訓」などの作品とならんで、「本朝廿四孝」は、現代まで、上演頻度は高い。

近松半二の父親は、竹本座の文藝顧問、近松門左衛門と親交あり。半二は、青年時代は、放蕩生活を送ったといわれるが、二代目竹田出雲に弟子入りした。近松にも私淑し、近松姓を名乗った。半二は、時代物を得意とし、作風は、重厚で、変化に富み、それゆえに、複雑な技巧を凝らした筋構成が多い。舞台装置は、視覚面を重視し、左右対称の大道具など、斬新で、印象的な舞台を作り上げる。筋や登場人物も、対比を好む。

さて、「景勝下駄の段」。慈悲蔵と横蔵の対比が、ここからの見せ場。当初は、愚兄賢弟という見立て。兄の横蔵は、樵、男やもめでありながら、どこかから連れて来た次郎吉という赤子(実は、将軍・足利義晴の嫡男、松寿君)を育てている。荒くれ、弟・慈悲蔵の女房・お種に懸想するような横道者(今、流行りのセクハラ男か)だが、実は、深慮遠謀の人。後に武田方の軍師・山本勘助(いわゆる、史上の勘助。架空の人物説もある)になる人物。慈悲蔵は、お種との間に、実子・峰松という赤子がいる。母親や兄への孝養が厚い。慈悲蔵は、横蔵の意向を踏まえた母親の命令に従い、孝行のためと割り切って、桔梗原の国境で、我が子・峰松(最後は、殺されてしまう)を棄ててまで、お種に兄の子・次郎吉を育てさせている。横蔵が連れて来た次郎吉は、実は、自分の子ではなく、足利将軍家の若君である。産後の肥立ちが悪く、なくなってしまった賤の方(足利義晴の奥方)の意向を引き継いで、若君を匿いながら、育てている、というわけである。その対比を際立たせる「触媒」の役をするのが、兄弟の母親で、歌舞伎なら、いわゆる「三婆」と呼ばれる老け女形の難しい役どころの一人・勘助の母が、キーパーソン。母親は、夫の勘助という名前をふたりの息子のどちらに継がせるか、悩んでいる。

贅言;人形浄瑠璃では、当初、勘助の母親には、名前がなかったが、歌舞伎化されて、母親の役が重くなり、越路、深雪などの名が付き、逆に、人形浄瑠璃でも、その名が使われるようになったという。首は、「婆」。

いろいろ策を労する女軍師の越路(今回の国立劇場の筋書では、「勘助の母」としか書いていないが、ここでは、「越路」と表記しよう)。慈悲蔵とのやり取りで、勢い余って、自分が履いていた黒塗りの下駄を飛ばしてしまう(足のない女役の人形なのに、なぜか、下駄を履いている)。その下駄を拾ったのが、越後・長尾家の嫡男・景勝。越路の息子たちのうち、兄の横蔵を召し抱えたいとやって来たのだ。実は、横蔵の顔が、景勝にそっくりだったことから、影武者に使いたかった、というわけだ。この場面から、この段は、通称「景勝下駄の段」という。元から長尾家側へ真情を寄せる越路は、景勝の申し出を快諾したが……。

「景勝下駄の段」を含めて、大きく見れば、ここは、基本的に「勘助住家」という舞台。人形浄瑠璃の「勘助住家」の長い舞台を分けた、各段の通称を並べてみると、「景勝下駄」、「八寒地獄(寒さに関わる8つの地獄という意味)」、「筍掘り」(あるいは、「竹の子」、さらに、「炬燵櫓」)、「勘助物語」などとなる。通称がたくさんつくということは、この難解な芝居が、段ごとに、いかに、江戸の大衆に愛されたかが窺われる。

この後、より複雑な構成の舞台に入るので、ここからは、舞台という「空間」を追っかけるより、主な登場人物を整理し、「時系列的」に見た方が、理解し易いと思われる。

横蔵:兄。先代の山本勘助の遺児で、越路の息子。景勝に良く似ている横蔵は、長尾景勝の身替わり(影武者)としてスカウトされようとしている。実は、景勝は、自分の身替わりに横蔵に切腹をさせようと目論んでいる、つまり、長尾景勝が、欲しいのは、横蔵の身柄というより、自分に良く似ている横蔵の生首が欲しいのだ(景勝と横蔵、ふたりの首は、「文七」という悲劇の主人公に用いられる首で、顔が似ているのだから、同じ首が登場しても、おかしくはない)。

母の越路も、弟の慈悲蔵(因に、「検非違使(けんびし)」という首で、眉目秀麗の主役級の首)も、実は、長尾方の家来(直江山城之助)ということが、やがて知れる。実際に勘助住家を長尾景勝の軍兵(舞台には登場しない)に包囲された横蔵は、自ら、景勝が持ち込んだ「腹切り刀」を取り上げ、己の目を抉り出し、人相を変えてしまい、景勝の身替わりとしてのメリットを無くして、長尾方の申し出を拒否する。こうして横蔵は、父・山本勘助の名を二代目として引き継ぎ、足利将軍家側を支えることを約束していた武田方へ連なることを表明する。

後に、武田方の軍師・二代目山本勘助となる横蔵は、信玄の臣下・高坂昌信の記述の体を取って書かれた信玄・勝頼の軍法などをまとめた、甲州流の軍学書である「甲陽軍艦」に出て来る山本勘助(川中島の合戦で戦死と伝えられる)は、独眼雙脚であるので、この芝居の二代目勘助も、左足を怪我し、右目を自ら傷つけなどして、父同様に、独眼雙脚となったという通俗日本史的な知識を元にしたエピソードを原作者は、周到に添えている。

慈悲蔵:弟。やはり山本勘助の遺児で、越路の息子。実は、母の越路と計らって、すでに、長尾方の家臣・直江山城之助になっている。「直江氏」は、実は、母の出身家系。母と協力をして、横蔵を長尾方に付けさせようとするのは、実は、慈悲蔵である。そういう非情な面も持っている有能な武士である。結局、「山本氏」の父の名「勘助」を受け継いだ横蔵の計らいで、兵書の方は、慈悲蔵が、譲り受ける。戦国の世、兄弟は、武田方と長尾方、敵味方に分かれることになる。

越路:先代の山本勘助の妻。横蔵・慈悲蔵兄弟の母親。先代の山本勘助亡き後、自ら、暫定的に「勘助」の名を引き継いで(あるいは、預かって)いる。長尾家領地の「直江氏」の出身ということで、慈悲蔵、実は、直江山城之助と共に、長尾方に組みしている。その代わりとして、表向き、慈悲蔵に辛く当たり、逆に、横蔵を甘やかし、増長させるが、後に、態度を豹変させる。越路は、結構、冷酷で、横蔵に切腹を迫ったりするという、強い母である。

お種:慈悲蔵の女房(実は、将軍足利家の腰元・八つ橋、その時期に、慈悲蔵と恋仲=不義の仲になった。首は、唐織と同じ、「老女形」ということで、女形としては重い役どころ)は、知らぬこととは言いながら、我が子・峰松を夫の慈悲蔵に捨て子にされてしまう。さらに、武田方の唐織が、慈悲蔵を武田方に付けさせようとして、雪の戸外に峰松を置き去りにして行く。極寒の中、我が子の命が危険に晒される場面。お種の独演の名場面で、通称「八寒(はつかん)地獄」という。

竹本の「外に泣く声八寒地獄」で、戸外の木戸の傍で、盥に入れられ、笠をかぶせられただけという格好で、寒さに震える峰松(一人遣いの人形)と室内で泣きわめく横蔵が連れて来た養子の次郎吉(実は、足利将軍家の嫡男だが、人形としては、小道具に近い)という、ふたりの赤子の間で、母性を引き裂かれ、葛藤に苦しむ。慈悲蔵が、腰下げの紐鐉(ひもかきがね。紐で作った掛金の一種)で、「錠の代わりの真結び」で結んでしまい、木戸が開かない。外からの峰松の鳴き声にいたたまれず、座敷から庭の雪の中に、素足で、飛び降りて来るお種。その果てに、お種は、格子戸(木戸)を破り抜き、髪をさばき、「砕けよ破(わ)れよの念力」にと、女の念力を見せつける。歌舞伎なら、雀右衛門の役どころ。

そういうことを踏まえた上で、舞台の「勘助住家の段」を観たい。前半は、大道具の居どころ替りで、大道具が上から降りてきて、住家裏手、雪の竹林へ。筍掘りに向かう慈悲蔵を軸に、竹やぶでの、鍬(くわ)を持った慈悲蔵と鋤(すき)を持った横蔵の争い(殺陣、立ち回り)は、静止した形を重視し、様式美を強調した所作が続く、ハイライトの場面。季節外れの「筍掘り」は、実は、越路が仕掛けた、兵書探しのための謎掛け。ある筈のない冬の筍掘りに見立てて、雪の中に埋められていた兵書(軍法奥義の書)争奪の争い。だが、これも、人形浄瑠璃では、実は、埋められていたのは、兵書ではなく、「源氏の白旗」という趣向。埋めていたのは、横蔵ということで、この立ち回りは、横蔵が、慈悲蔵の「筍掘り」を邪魔するための立ち回りであったと、判る。兵書は、一間(つまり、上手の障子の間)に母の越路が、隠していたのであり、横蔵の勘助襲名のための策だったことが判って来る。

この後、竹林は、再び、引き道具の早替わりで、「勘助住家」に戻るが、漢詩が書かれた襖のある、武家風の奥座敷の「住家」に変わっている。そこに登場した老母・越路が、ふたりの喧嘩に割って入る。

贅言;勘助宅の漢詩をウオッチング。襖に書かれた五言排律(5言12句)の漢詩の一部に「岷江初濫觴入楚乃無底」という表現があった。実は、舞台では、「口偏に民」、「江」が「山」になっていたが、後は、全く同じ。これは、源氏物語の中世以後の注釈書に出てくる表記で、当時の儒学者のこじつけというが……。源氏物語ゆかりならば、勘助の趣味というより、越路の趣味か。

慈悲蔵を下がらせた後、越路は、これまでの態度を一変させて、横蔵に景勝の影武者になるよう迫る。長尾景勝が、主従の証として置いて行ったのは、白装束と九寸五分の刀、つまり、腹切り刀だった。影武者どころか、切腹をして、景勝似の生首(身代わりの生首)を差し出せと、非情な母は言うのだった。

越路と慈悲蔵、実は、長尾家の家来・直江山城之助は、元から長尾方の陣営。足利将軍の若君を保護する横蔵は、足利方に連なる武田方なので、これを拒否し、己の右目を抉り、人相を変えて、景勝の身替わりになるのは無理という状況を作るほどの剛の者だった。

その器量を評価して、母の越路は、夫・勘助の名跡と兵書を横蔵に譲ろうとする。横蔵は、勘助の名跡を二代目として引き継ぐことは承諾するが、兵書は、弟の慈悲蔵に譲る、という。横蔵は、すでに、武田信玄の命で、足利将軍家の世継ぎの若君(松寿君)を我が子・次郎吉として、匿い育てていたことを告白する。横蔵は、「ぶっかえり」という早替りで、衣装を赤地錦となり、白旗の旗竿代わりに住家の庭の上手にある竹を切り取るなどして、いくつかの見得を連発し、最後は、赤地錦を拡げての大見得で決まる。三人遣いの人形も、「ぶっかえり」では、遊軍の人形遣いも段取りに参加して、四人遣い。大団円では、バタバタという感じで、「実は、実は、」が、連発されるので、観客は、混乱しがちだが、舞台は全員静止のポーズをとり、閉幕。

ところで、人形浄瑠璃では、人形そのもの、人形、竹本、三味線のそれぞれの担当者、舞台全体というように、見るものが多い。基本は、人形の動きを軸として観るわけだが、人形の動きだけでなく、人形遣いの表情・動きを観ることも愉しみの一つだ。今回は、慈悲蔵:玉男。横蔵:五代目襲名の玉助。勘助母・越路:勘十郎と簑助のダブルキャスト、前半と後半で分担。慈悲蔵女房・お種:和生などに注目した。

横蔵を操る新・玉助は、東京での襲名披露初日とあって、緊張とした表情で、終盤、派手に動き回る横蔵を骨太に操る。慈悲蔵を扱った玉男は、「後ろ振り」が、おもしろかった。玉男は、右手を引っ込めて、袂に隠し、左手だけで、人形を支え、首を操る形で、慈悲蔵の背を反らせて、後ろに振り向かせる。前回は、勘十郎で観た。

老婆・越路を扱う勘十郎は、夫の名前を暫くとはいえ受け継ぐ策略家の女軍師でもある老母を非情ながら、じっくり描く。漢詩の襖のある奥座敷から登場する簑助の越路は、非情な中に慈愛を滲ませている。慈悲蔵女房・お種の和生は、幼子たちに引き裂かれる母情を懇切に表現している。

さらに、竹本の大夫の動きを観る。熱演型、冷静型などいろいろで、表情など語りぶりを観るのも興味深い。今回は、「桔梗原の段」では、芳穂太夫と文字久太夫。「景勝下駄の段」では、織太夫、寛治のコンビ。「勘助住家の段」の「前」では、呂太夫、清介。「後」では、呂勢太夫、清治。

観客としては、時々、舞台全体を眺望するなど、自分の関心に従って、角度を変えながら観るのが、「重層的」な演劇である人形浄瑠璃を「総合的」に楽しむコツ。

人形浄瑠璃は、人物名や衣装は違うが、顔を見ると全く同じだと判る。役柄の性根に合わせて、首(かしら)を選ぶ。操り人形の動きと竹本(ナレーション)で、心理描写を深めることで、同じ顔でも、苦にならない。ひとつの表情が、固定している人形の筈なのに、角度や陰りによって、様々な表情が伝わって来る不思議さが、人形浄瑠璃の魅力である。だから、人形浄瑠璃は、ある意味では、歌舞伎より、演劇的に奥深く(つまり、難しく)、また、演じるのが、生身の役者(人間)ではなく、「超人的な」人形だから、襞深くまでドラマチックに表現ができる。つまり、人形浄瑠璃は、「内」も、重視する。人形遣いの持ち味は、勿論あるが、生身の役者が登場する歌舞伎ほど、生々しくない。心理劇として、人形浄瑠璃の方が、より、大人向けと言えるだろう。

人形は、人間にそっくりな動きをするのではなく、人形ならではの動きをする。時には、人間なら不自然と思える動きも人形らしく動くことで、人間よりもリアルに心理描写が出来るというのも、不思議ではないような気がする。

その秘訣の一つに「チョイの糸」という仕掛けがある。首の中に仕込まれる「ノドギ」(喉、首=くび)と首(かしら)の後ろを鯨のヒゲでむすんだ先につく糸。主遣いは、手板(操作板)を下から支え持つ左手の薬指と小指に、この糸を引っ掛けている。人形遣いが、緊張したり、ゆるんだりすると、微妙に動く。人形遣いの息使いによって人形も息を呑んだり吐いたりする。人形が生きているように見える。活発に動く時より、こうした微妙な動きの方が、存在感があるという不思議さ。


「口上」は、吉田幸助が五代目吉田玉助を襲名披露する舞台。緞帳が上がると、人形遣い12人が、ピンクの派手な肩衣姿で伏したまま勢揃いしている。前列下手に座った簑二郎が進行を仕切る。前列は、簑二郎の上手へ、順番に。玉男、和生、幸助改め、玉助、簑助(人形部座頭)、勘十郎と並ぶ。後列は、同じく下手から上手へ。玉佳、玉輝、玉也、玉志、玉勢、玉誉。21日からは、玉翔も下手に列席する。歌舞伎役者の襲名披露の舞台のように、プライベートなエピソードを紹介して場内を笑わせる場面は少ない。口上を述べたのは、玉男、和生、勘十郎。本人の玉助と座頭の簑助は、黙っている。


「義経千本桜・道行初音旅」は、楽しい


歌舞伎の演出。幕開きの、置き(序奏)浄瑠璃、無人の舞台は、吉野山全山満開の桜が爛漫と咲き誇り、「花のほかにも、花ばかり」、という感じである。花道から静御前が、赤姫姿で登場する。赤い鼻緒の草履に、白足袋。やがて、静御前が、初音の鼓を打ち鳴らすと、花道・スッポンから忠信登場。黒地に源氏車の図案を縫い込んだ衣装、草鞋に、黒足袋。

義経の御着長(鎧)と義経の顔に見立てた鼓を桜の木の下に置いて、ふたりの舞い。九州行きに失敗をした義経は、吉野山にいる。静御前と忠信の義経への思い。さらに、忠信は、源平の闘いで亡くなった兄継信への思い。

「かかるところへ、逸見藤太」で、後に大勢の花四天を引き連れて、登場する藤太は、赤い陣羽織に黄色い水玉の足袋。静御前と忠信の道行きを邪魔する所作ダテを見せる。というのが、歌舞伎の典型的な演出だろう。

人形浄瑠璃の「道行初音旅」を観るのは、2回目。忠信、実は、源九郎狐を操るのは、勘十郎、静御前を操るのは、清十郎。前回は、勘十郎と簑助という師弟コンビ。

まず、幕が開くと、舞台は、桜満開の吉野山。舞台中央に桜の木。歌舞伎と見まごうように全員が華やかな肩衣姿。舞台正面後列には、定位置を離れた太夫たち。咲太夫を軸に、9人の太夫たちが並ぶ。静御前が咲太夫、狐忠信が、織太夫。ほかは、ツレ。前列は、燕三を軸に、9人の三味線方。

「恋と忠義はいづれが重い、かけて思ひははかりなや。忠と信の武士に君が情けと預けられ、静かに忍ぶ都をば後に見捨てて旅たちて」で、始まる竹本。下手から、肩衣姿の清十郎が操る静御前登場。上手の桜満開に「窓」が開いて、白狐が顔を出す。やがて、消える。下手より、遅れて、白い肩衣姿の勘十郎が操る白狐。主人になつく犬のような仕草をする白狐。首長の狐の頭と胴に手を入れて巧みに動物の所作を演じる勘十郎。耳の動き、目の動きなど。狐の姿は、静御前には、見えていない様子。やがて、白狐は、舞台中央の桜木の陰のブッシュに姿を消す。狐が飛び込む。ブッシュの外に出ている尻尾を狐は、いつまでも、振っていると思ったら、時間稼ぎ。暫くして、舞台下手、三味線方の足元辺りから、早替りの勘十郎が狐忠信とともに登場する。勘十郎も忠信も早替り。狐忠信は、お馴染みの黒い衣装に義経の御着長(鎧)を背負って、飛び出して来る。竹本「谷の鶯な、初音の鼓…きごう、遅ればせなる忠信が旅姿。背(せな)に風呂敷をしかと背たら負うて」。この辺りまでは、前回と違う、今回の演出の新工夫。

後は、歌舞伎の演出と同じような感じで、所作事の舞台は進む。清十郎の操る静御前の動きは、実に、名前の通り、静かだ。一方、勘十郎が操る狐忠信の動きは、ダイナミックで、メリハリが利いている。

忠信の扇子は、裏表とも、黒地に赤丸。静御前の扇子は、無地の金と銀。この扇子が、上手の清十郎から、下手の勘十郎に投げられる。安定した飛行で、扇子が飛び、受け止められる。柔らかい所作のなかで、ダイナミックな動きが、違和感なく、紛れ込んでいる。場内からは、思わず、拍手。

贅言;歌舞伎の、「かかるところへ、逸見藤太」は、人形浄瑠璃では、場面がなかった。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する