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2018年03月27日12:16

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3-11 奥武蔵 吾野のカモシカと石造物

2018年3月11日(日)
奥武蔵

奥武蔵登山詳細図
84番 天久保山ルート

西吾野駅→北川道路開鑿記念碑→天久保山(403)→天久保峠(340)→ヤナゼ→513P →548P →三田久保峠(510)→北川正丸林道→岩井沢観音堂→西吾野駅

画像は
ニホンカモシカ2頭、
江戸時代中期 1765年の馬頭観世音菩薩

(写真76枚と軌跡は日記末尾に貼付しています)


0、西武秩父線 西吾野へ

この日は東日本大震災から7年でした。
時の流れの速さを痛感します。

さて、天気は晴れ予報なので山行きを考えたが残雪や凍結、泥濘は踏みたくないので、とにかく標高の低い低山を、となれば「安定の奥武蔵」に落ち着く。
西武秩父線沿線なら駅からすぐに山に取り付けて、気分・体調・天候次第でエスケープも自在、すぐに人里に下りる事ができる。

山麓の川沿いには低山丘陵の懐に抱かれた数多くの小集落が点在し、山にはかつて人々が通った幾つものかそけき峠路が交錯し、そして山村の歴史と信仰を語る石造物が路傍に豊富に残されているのは、やはり東京からの日帰り圏内では 武蔵野と秩父を繋ぐこの「奥武蔵」を措いて他に無い。

学生時代は池袋に住んでいたので、その池袋から乗り換え無し(飯能でホームの反対側へ数メートル歩く、もしくは西武秩父への直通電車)で行ける気安さもある。
今回は朝1時間ほど猫たちと戯れてのんびりしたので、西武秩父・長瀞 直通号で向かった。

飯能を過ぎ、高麗あたりから車窓の景色は「奥武蔵の山と丘陵」になる。
空には雲の隙間がひとつも無く全面が灰白色で、車窓の風景もちょっと寒々しいモノクロだが、満開の梅の花がたくさん見られて春を感じる。

高麗の次の武蔵横手では、近くの中高年ハイカー団のお爺さんが窓外に目を向けながら「一気に田舎になったなぁ」と声を上げた。この60代70代らしい団体さんは正丸で降りるようで、やはり人気の伊豆ヶ岳あたりを歩くのだろうか。

低山に挟まれたこの付近の谷はわりと広くなだらかで、耕地が広がっている。
東吾野では駅の近くに大きな貯木場が見えたので、今も林業が盛んなのだろう。
次の吾野に着くと、計15人ほどのハイカーが下りてホームを歩いていく姿が見えた。
この付近から電車は狭い谷に入り、山も高く見える。

この次が、目的の西吾野だ。
駅舎が吾野や正丸よりも小さくて驚いた。時刻は8時半。
一緒に降りたのは ざっと見たところ中高年ハイカーズ4人、高齢の御夫婦、そしてひときわ賑やかなのは男女混成トレランナーズ7人。
走ると暑いからだろうが、いきなり脱いで生足短パン姿になっているのを見ると、自分などは偏屈な頑固親父の如く「山をなめるな!山では夏でも長ズボン!」と怒鳴りたくなる。
が、生憎そんな度胸は持ち合わせていないのでただ独り苦虫を噛み潰したような顔をして「これだからトレランは…」といういつもの愚痴を自分の胸中に落としこむ。
トレラン界では歴史と信仰と伝統ゆかしき「奥武蔵」を「オクム」などと軽快(軽薄)に略して「お手軽で絶好の練習場!」と位置づけているようだが、自称【低山礼讃歴史探訪静山逍遙派】の自分にとっては、新興勢力のランナーズは実に怪しからん存在なのだ。
ただし、要は集団が大嫌いなのであって、独りでストイックに走るランナーは尊敬する。

このセブンランナーズは子ノ権現に向かうらしく、皆で賑やかに集合写真を撮ってから出発していった。
全員が居なくなって静かになった8時45分、自分も出発する。



1、チェストバッグ紛失パニック譚

今日はまず、駅からも見える天久保山に登る。
天久保山(403)は高麗川とその支流である北川とに挟まれた南北に長くのびる山稜の最南端で、この山稜は北に向かって幾つもの突起を擡げて次第に標高を上げながら、刈場坂峠の脇の刈場坂山(879)に至る。

駅から坂道を下り、分岐で梅の紅白と柑橘の黄が春を感じさせる民家の庭を眺めてから北に進路を取る。
間もなく道路の左に「北川道路開鑿記念碑」を見ると、この裏が今日の取り付きだ。

一般登山道ではないので道標は無い。
9時。荒れ気味の人工林に適当に入り、地形を見ながら進むと作業径路を見出だしてこれに乗る。
この径路は南に開けた斜面に作られた畑の最上部に続いていた。
詳細図に「展望」 とある通り、山根の小集落を眼下に、その向こうに足腰の神様「子ノ権現」の子ノ山(630)周辺の山並みを望む展望地だ。

身支度を整えて入山し、上を目指せば良いだけなので適当に登るが、低山の取り付きにありがちな倒木跨ぎと藪潜り、といっても藪は避けられる程度の密度で、これも稜線までの辛抱だ!と楽しみながら登っていけば、やがて整然とした人工林帯に辿り着き、なだらかな尾根道をどんどん進む。

やがて軽トラサイズの幅広の作業路を二度ほど跨ぎ、9時45分に「天久保山」の手製標識がある403Pに着いた。三角点がある。

と、ここで重大な事に気付いた。
なんと、ザックのチェスト部分の紐に付けて胸の前に提げていたはずのチェストバッグが無い!
まだ一度も休憩していないので、どこかに落としてきた事になる。
胸に括りつけていた物が落ちれば気付かないはずがないが、もしかしたら倒木跨ぎや藪潜りの最中に何かのはずみで落ちたのかもしれない。

かつて経験した事の無いまさかの事態にすっかり周章狼狽、日頃のトレラン批判はどこへやら、俄ランナーと化して小走りで戻る。
一日に一人入るかどうかの山なので誰かに拾われる事もないだろう、必ずどこかに落ちているはずだ!と眼を皿のようにして探しながら駈け戻る。

ところが尾根筋では見付からず、さっき「適当に」藪漕ぎをしてきた斜面のどこかで落とした事はもはや決定的となった。
藪と倒木で見通しの利かない斜面で、どこをどう登ってきたか正確に辿るのは不可能だ。
チェストバッグにはマンションの鍵、実家の鍵、保険証、現金などが入っている。
事ここに至っては、今日はもう一日中、独りローラー作戦で山狩りだ!
日没まで7時間、藪を掻き分け山肌を舐め尽くすような気合いで捜索するしかない!!と悲壮な決意を固めた。

YAMAP の軌跡で辿ろうにも無料地図では精度を欠き、そもそもスマホのGPS精度を高精細モードに設定していないので、精密な探索ができない。
そしてこういう時に限ってなぜか現在地の表示の反映が遅れたり、フリーズしたりするのだ。
軌跡を見て正確に辿るべく何度かトライしたが結局ダメで新たに刻まれる軌跡も乱れるばかり、とにもかくにも一旦 心を落ち着けて、出発点だった展望地に戻る事にした。

焦る気持ちを鎮めようと苦闘しながら山肌をずり落ちるように出発地に戻ると、嗚呼!…そこには主に置き捨てられたチェストバッグが、寂しげに転がっていたのだった。
途中で落としたのではなく、最初に身支度を整えたこの場所で、自分でそこに置いたのだ。
張り詰めていた神経が一気に緩み、心底ホッとした。



2、天久保山・天久保峠・秋葉山大権現

気を取り直して再出発、今度は登山詳細図のルートを忠実に辿り、やがて11時、再び天久保山に至る。
人工林の中の小広い平坦な山頂で、北側だけ自然林になっている。雲間から少し陽射しが出てきた。

「奥武蔵研究会」の会長を務め、林業界の重鎮だった大石眞人が手がけた【マウンテン ガイドブック シリーズ 8 奥武藏】(朋文堂 昭和35年)の巻末には【奥武藏辞典】があり、この天久保山については「畑井、椚平などの雨乞塚であった」との説明がある。
畑井、椚平はそれぞれ天久保山の西麓、南麓にある高麗川沿いの集落で現在も斜面に畑記号があるので、まさにこれらの集落の裏山にあたる雨乞いの山だったのだろう。
詳細図には「狐塚」との別名も記されているが、何か狐に纏わる伝説でもあるのだろうか。

北西に緩やかに下って行くと再び幅広の作業路が横切り、ここが「天久保峠」(340)だ。
前出の【奥武藏辞典】には、「飯能市 南川畑井から北川間野へ越す峠。畑井の小学校庭から間野の全昌寺脇へ出る」とある。高麗川流域と、支流の北川流域の集落を結んだ小さな峠だ。
樹間から陽射しがこぼれると鳥の囀りが高まって春を感じる。

ここからひと登りした小ピークの木に白テープが巻かれ、黒マジックで「秋葉山大権現」と書いてあるが詳細図には記載が無い。
辺りを見回すと西側に何かがありそうな気配を感じ、少し下ると果たしてそこには「秋葉山大権現」と彫られた細長い立石が佇立していた。
江戸時代中期の安永四年(1775年)のもので、ちょうど南川 畑井の方角にせりだした巨岩の上に置かれている。
秋葉山大権現は火防の神だが、この日歩く山中にこのような石造物があるとは予期していなかったので一気にテンションが上がった。
足元に気を付けて写真に収め、再び山路を辿る。



3、ニホンカモシカとの出会い

緩やかに下り、再び作業路を横切って尾根を進むと突然 前方で大きな動物が跳ねて右手の斜面に下った。
一瞬の事だったが残像を振り返ると、色合いと動きからニホンジカではないのは確かで、もちろんクマでもない。
(奥武蔵の低山でもクマは目撃されており、2016年秋には高麗地区で捕獲されている。)

イノシシかな、と思いながら進んで斜面に目を向けると……!!なんとニホンカモシカが立ち止まってこちらを見ていた。
こんなに標高の低い人里近い里山で、と驚いたが、昨年秋には牛喰林道の奥の蔦岩山東尾根の取り付き標高550mで遺骸に出会っている。

なにより奥武蔵で生きたカモシカに出会えたのが嬉しく、スマホで何枚も何枚も写真を撮ってしまった。
まだあどけない表情に見える可愛らしい顔立ちで、雰囲気からはメスのように思える。
自分が尾根上を移動してもカモシカは顔の向きや身体の向きを変えてこちらを見ていた。



4、ヤナゼ・銃声・513P

詳細図に「ヤナゼ」と記された小鞍部は東西に微かに道形が認められるので、峠の役割を持っていたのかもしれない。

ここから513P までがこのコースのハイライトとなる。尾根に露岩帯が現れ、岩をしっかりと乗り越えなければならず、ヤセ尾根もあって面白い。
途中で、背後から銃声が湧いた。
飯能市ではニホンジカ、イノシシ、サルなどが狩猟対象となっているが、その銃声はさっきカモシカに会った方向から聴こえた気がして、心穏やかではない。

カモシカは国指定特別記念物であり、農業被害の深刻な長野・岐阜を除いて、狩猟の対象にはなっていない。
しかしここは東京近郊で、自分としてはハンターの質が信用できない。
地域の農家の切実な思いを背負っている地元のハンターは信じられるが、金だけ払って他所から入猟しているような趣味的な日曜ハンターには腕前もモラルも望めない。
まさかカモシカを撃つとは思えないが、シカと違って警戒心があまり無いので絶好のターゲットになりうる。どうしても密猟や誤射の懸念が拭えず、暗い想像が頭を過って暗然となった。
しかし、自分にはどうにもならない事だ。
山でいつまで生き延びるか、そしていつ死ぬかは、どの動物もそれぞれが運命として背負っているものなのだろう。
そしてそれは、我々人間とて同じ事だ。

513Pの小ピークは露岩が幾つかあって展望が良く、休憩するには良い。
山に入って初めてザックを下ろし、昼食とした。北と西の展望が良く、正丸峠から刈場坂峠に至る山並みが樹間に覗く。
再び雲間から陽射しがこぼれ、気付くと東側には青空が広がっていた。
時刻はもう14時を過ぎている。



5、三田久保峠の今昔

下って一旦 北川正丸林道に出てから擁壁の階段に取り付き、僅かな急登で548Pを踏む。
ここがこの日の最高標高点で、北へ下り着いた鞍部が「三田久保峠」(510)である。

「奥武蔵の主」と呼ばれ、新聞記者として特に遭難記などの著作を多数執筆した春日俊吉が手がけたガイドブック【奥武藏の山と丘陵】(朋文堂・昭和16年)には、この三田久保峠の記述がある。

「(旧 正丸峠東麓の大蔵平から)ほんの三、四町も登つてゆくと、人家の背後から右に折れる、たかだか五百米前後の無名な峠があるだらう。
「どうせ名無しの峠ですし、岩井澤といふ村の景色が非常に氣に入りましたから、私たちだけであの峠を岩井澤峠と呼ぶことに決めませう」と感動した青木女史(注:東京市役所山岳会の女性リーダー)が云つた。われわれが速座に、これに和したのは云ふまでもない。ところがそれから二年ばかりして、再び北川までさ迷ひ入つた著者は、勝手に自分達で、岩井澤峠と呼ばふとした例の峠には、頂上に今でもかなり大きな池の跡があつて、往時、この正丸街道を辿る旅人たちを度々惱ました、幾匹かの大猪がよく池の水を浴びにくるところから、猪の「ぬたくる」峠の意味がだんだん轉訛して、現在は立派な三田窪峠の名があることを知つた次第である。この邊一帯には昔非常に猪が多く出沒したらしく、明治二十年代までその被害の記録が澤山殘つている。」

その三田久保峠は、現在は人工林の中のひっそりとした薄暗い鞍部だ。
人工林の作業道として今なお現役なのだろう、東西の道形は明瞭だ。
鳥も鳴かない静かな峠……と言いたいところだが実はさっきからずっと北からガサガサと断続的に音が聴こえている。
最初はトレランのランナーかハイカーが下って来た音かと思ったが、どうも違うようだ。
あまりに音がしつこいので、動物だろうかと気になって、抜き足差し足で見通しの良いところに出て双眼鏡を覗きこむと、20m ほど先の小ピークの上で60代くらいの男性が動き回っているのが見えた。

藪を刈っているのかと思ったが、あるいは動物を射殺したハンターで、現地埋却の原則に従って獲物を埋めているのかもしれない。いや、もしかしたら何らかの犯罪が進行中なのかも……
実際ツツジの季節以外はハイカーも歩かないような峠の頂の藪の中でガサガサと一心不乱に何事か作業している男性を見ては、こんな季節に山菜取りでもあるまいし、双眼鏡で覗いた後ろめたさもあってだんだん薄気味悪くなってきた。

そっと後退りして、さっさと林道に下る事にする。



6、岩井沢観音堂・再びカモシカを目撃

やがて北川正丸林道に出て、地図を広げてこの後の計画を立てる。

その結果、羊腸する林道で東に山越えをして、北川の集落沿いを南下して西吾野駅に向かう事にした。
林道ではツーリングのバイク1台とすれ違っただけで静かな山越えとなった。

北川は高麗川の支流で、北から南へと流れる川沿いの谷には集落が続いている。
ひとまず少し遡り、16時半、「岩井沢観音堂」に着いた。
由緒などはわからないが、山裾の本殿の裏には巨岩が張り出しており、岩の下に小社が鎮座していた。
境内には江戸時代中期の庚申塔や墓碑群があり、歴史は古いようだ。

この後は古い造りの民家が多い集落沿いをひたすら南下するが、馬頭観音などの石造物が路傍に多くあって、山村の歴史と信仰を感じながらゆっくりと歩いた。
(【飯能の石仏-ふるさとの証言者】(飯能市教育委員会)と照合して年代などが明らかになったものを中心に、YAMAPのアルバムに載せています。)

17時、猫を3匹見かけた。
この集落には犬を飼う人がいないのか、犬の鳴き声は全く聞こえない。
だが猫を見かけて何やらホッとした。毛並みが綺麗なのでこの辺りの家で飼われている猫だろう。
時ならぬ闖入者である自分に警戒心を抱く表情が、猫好きの自分としてはまた堪らない。
その数分後、久呂須坂でふと目を向けた左手の山の斜面で、再びニホンカモシカを目撃した。
昼に出会ったものより体毛の色が濃く、顔つきは精悍で角も立派なので、オスだろうか。
暫くこちらを見ていたが、やがて飽きたのか、藪の中に消えた。
一日に2頭もカモシカに会えたのは望外の僥倖と呼ぶべきだろう。

この後は再び路傍の神社や馬頭観音、地蔵菩薩などを見て山村の歴史に思いを馳せながら下る。
高山不動からの道を合わせる頃には日も暮れて、右手の斜面に付けられた線路を西武秩父線の光列が走り抜けた。

朝に入山した北川道路開鑿記念碑を右手に見て、18時、西吾野駅に着いた。
振り返ると天久保山はもう蒼い闇の中にある。
駅のホームには誰もいない。
カモシカたちは元気だろうか、特に一頭目の可愛らしいカモシカが気がかりだ。
また会えたらいいな、そんな思いを抱きながら 電車に乗り込む。

画像76枚、軌跡など↓

奥武蔵 吾野地区 北川のカモシカと石造物
https://yamap.co.jp/activity/1644747


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副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)

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YAMAP→ ☆S∞MЯK★丹沢Λ
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