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2018年03月25日16:14

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青年劇場公演「きみはいくさに征ったけれど」 竹内浩三が生きていたら

「戦死」した青年詩人と
不登校の現代高校生の魂が時空を超えて響き合う
               〜青年劇場公演「きみはいくさに征ったけれど」


学徒出陣で、映画監督になる夢を断たれた天性の青年詩人が、戦死した。凍えた蛾みたいに。1945年のことだった。


「冬に死す」
蛾が/静かに障子の桟(さん)からおちたよ/死んだんだね

なにもしなかったぼくは/こうして/なにもせずに/死んでゆくよ/ひとりで/生殖もしなかったの/寒くってね

なんにもしたくなかったの/死んでゆくよ/ひとりで

なんにもしなかったから/ひとは すぐぼくのことを/忘れてしまうだろう/
いいの ぼくは/死んでゆくよ/ひとりで

こごえた蛾みたいに

(「竹内浩三全作品集 日本が見えない 全1巻」藤原書店刊より)


竹内浩三という詩人


竹内浩三という青年がいた。知る人ぞ知る詩人。1921年から45年まで生き、24歳で亡くなった。「なにもしなかったぼくは/こうして/なにもせずに/死んでゆくよ/ひとりで」という詩片を遺して。

裕福な商店の長男に生まれた竹内浩三は、1942(昭和17)年9月、日本大学専門部映画科を半年間繰り上げて、卒業(1941年10月公布の勅令第924号に拠る)。在学中、伊丹万作の知遇を得る。卒業の翌月(昭和17年10月)、三重県の中部第三十八部隊に入営。いわゆる学徒出陣(神宮外苑で出陣式を催した日本人の「学徒出陣」は、1943年)だろう。その後、滑空部隊(グライダー)、挺進連隊(落下傘部隊)などを経ている。

この間、1944年1月から7月まで「筑波日記」に戦場生活などについて書いている。竹内浩三は、持っていた宮沢賢治の詩集の中をくり抜き、そこに二冊の手帳(日記)をはめ込んで姉のこうさんに密かに送った。姉は、両親を早く亡くした浩三の親代わりだった。出征前日に撮影された浩三と姉、姪たちの写真が遺されている。


その後、フィリピンへ。出征の3年後、1945(昭和20)年4月9日、「陸軍上等兵竹内浩三、比島バギオ北方一〇五二高地方面の戦闘に於いて戦死」したという(1947年、三重県庁公報)。「比島バギオ」とは、フィリピンのルソン島である。竹内浩三が所属した挺進第5連隊歩兵大隊は、戦場にパラシュート(落下傘)などで降下し地上の戦闘に参加していた。

戦死公報は、遺族に、竹内浩三の消息をこう伝えたが、姉の元に届いた箱は「空っぽだった」という。国は何にも送ってこなかった。だから、厳密には、生死不明ということなのだろう。

贅言;ルソン島の戦いは、1945年から敗戦まで続いた。日本軍の司令官は、山下奉文大将。挺進兵(空挺兵)・竹内浩三も、この戦さに投入され、空に散ったか、地に散ったか。制空権をアメリカに奪われた日本軍。地上戦でも趨勢は見えてきて、劣勢となった残存兵たちは山岳地帯に逃れ、飢餓と戦いながら、消耗しつつ敗戦を迎えた。このうち、挺進工兵隊の主力は挺進集団と離れてルソン島のバギオ付近で戦闘した、という。1945年4月9日、竹内浩三は敵陣への切込隊の一員として出陣し、行方不明となったという。


「きみはいくさに征ったけれど」


その竹内浩三を主人公にした芝居「きみはいくさに征ったけれど」(大西弘記・作、関根信一・演出)が3月13日から18日まで、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA」で秋田雨雀・土方与志記念青年劇場の118回公演として上演された。年内、12月以降、東海関東ほかでも順次公演される予定という。

芝居のタイトル「きみはいくさに征ったけれど」は、竹内浩三の詩「ぼくもいくさに征くのだけれど」に依拠していることは、容易に知れる。

「ぼくもいくさに征くのだけれど」
街はいくさがたりであふれ/どこへいっても征くはなし かったはなし/三ケ月もたてばぼくも征くのだけれど/だけど こうしてぼんやりしている
 
ぼくがいくさに征ったなら/一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな
 
だれもかれもおとこならみんな征く/ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど
 
なんにもできず/蝶をとったり 子供とあそんだり/うっかりしていて戦死するかしら
 
そんなまぬけなぼくなので/どうか人なみにいくさができますよう/成田山に願かけた

(竹内浩三「骨のうたう(抄)」日本ペンクラブ電子文藝館より)


青年劇場の芝居は、まず、冒頭、不登校の高校生(来生宮斗、2年生)がマンションの屋上から飛び降りようとしている場面から始まる。手には、竹内浩三の本を持っている。愛読書らしい。そこへ、訛りのきつい伊勢弁の青年が現れる。「なんしとん?」。

今時の青年としては、服装も? 日大の徽章をつけた学帽をかぶり、白いワイシャツに黒ズボンという格好だ。振る舞いや言動も何か奇妙なというか、風変わりな青年。

これは、どうやら、伝えられる竹内浩三のイメージを尊重する演出らしい。浩三は、特大の頭に型通りの帽子をかぶり、だらしなく巻ゲートルをつけて地元中学へ通学していた、という。学校の勉強は全くしないが、頭は悪くなく、成績はまずまず。陽気でお人好し。厳粛さになじめず、教練の時に「気をつけ」がかかっても突拍子に笑いだした。ひどい吃音。運動は苦手だった、という。竹内浩三を演じたのは矢野貴大。大阪出身で、伊勢弁の科白も楽しんでいるようだ。

舞台の青年は、どうやら高校生の飛び降りを阻止しようとしているらしい。高校生と青年のやりとりで、青年が70年以上前、1945年に戦死したとされている竹内浩三だ、と次第に判って来る。マンションから飛び降りようという高校生の緊迫感は、テンポも喋りも風変わりな青年によって削がれてしまう。

夏休み。来生宮斗は、母親(来生祥子)に頼まれて祖母(来生芳恵)が暮らす伊勢へ向かうことになる。暫く、祖母と暮らすためだ。その車中にも、風変わりな青年・竹内浩三が現れる。車中で青年に声をかけられて驚く宮斗。青年は、伊勢出身の「竹内浩三」と名乗り、自分は幽霊だ、という。伊勢への旅で出会った伊勢出身の若い女性・藤原紗希。

宮斗は、伊勢の祖母宅で暮らすようになる。自殺念慮のあった宮斗だが、奇妙な兄貴のような竹内浩三、地元の藤原紗希、藤原紗希の両親(藤原泰三、信代)、それに、藤原紗希の恋人(同棲していた)は、宮斗の高校の担任教師・磯部賢一だったのだが、磯部は、生徒指導のまずさから宮斗を抑うつ状態に追い込んでいたこと、藤原紗希から別居を迫られていることなどが判る。このほか、竹内浩三の好きな人、おケイさん。竹内浩三の姉、宮斗の父親・来生宮彦。こうして、伊勢おける宮斗の周辺の人々との関係解明が、宮斗の精神状態を少しずつ解きほぐして行くことになる。

なぜか、宮斗の節目節目に現れる竹内浩三。「生きることは楽しいね/ほんとに私は生きている」(竹内浩三の詩「三ツ星さん」より)。冗談を言い、「ここは、笑うとこやんか」などと、緊迫感ではちきれそうだった宮斗の精神状態に伊勢弁のユーモアが沁み通り、余白を作って行く。そして、自分は、幽霊などではなく、宮斗が読んでいる竹内浩三の本から宮斗自身がイメージして作り上げた幻像だと言う。宮斗は、マンションから一人で飛び降りて、「ひょんと死ぬる」ことをやめようと思う。「だれもいないところで/ひょんと死ぬる」ことをやめようと思う。「ひょんと死ぬる」な。な。青年たちよ。


「骨のうたう」(抄)
戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ/遠い他国で ひょんと死ぬるや/
だまって だれもいないところで/ひょんと死ぬるや/ふるさとの風や/
こいびとの眼や/ひょんと消ゆるや/国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や

(竹内浩三「骨のうたう(抄)」日本ペンクラブ電子文藝館より)


青年劇場の舞台では、高校2年生・来生宮斗は、現代を生きる竹内浩三だ。青年・竹内浩三は、来生宮斗のうちに復活した。復活した竹内浩三は、来生宮斗として、生き直して行くのだろう。輪廻転生。「戦死」した青年詩人・竹内浩三と不登校の現代高校生・来生宮斗の魂が時空を超えて響き合う。


青年・竹内浩三が、いま、生きていたら


安倍政権が、日本社会をいびつに歪めてしまったと私は思っている。このところの安倍政治の暴走ぶりを見れば、竹内浩三も怒るだろう。若い人たちの生活に政権の悪政はもろにぶつかって行く。現代の人口減の原因のひとつに、若い人たちが結婚しなくなった、いや、できなくなった、という事情がある。結婚しても、安心して子どもが産めなくなったので、人口が減ってきた。

メールマガジン「オルタ」171号の論文を引用する。元共同通信編集委員の栗原猛「20〜30代の既婚者を年収で見ると、300万円以上は20〜30%だが、300万円未満では10%を切る。30代の男性の既婚率は、正規社員は60%だが、非正規社員は30%と低い。安倍政権は働きながら子供を産める環境づくりに取り組んでいるが、その前の段階にある結婚したくとも結婚に踏み切れない『300万円』ラインの男女への取り組みも必要だ。このような格差が固定化されると、社会不安を生むきっかけになりがちである」と分析している。

竹内浩三の詩片が突き刺さってくる。

「なにもしなかったぼくは/こうして/なにもせずに/死んでゆくよ/ひとりで/生殖もしなかったの/寒くってね」(竹内浩三の詩「「冬に死す」より」

竹内浩三よ、生殖をしよう。生殖をして、大事な命の連鎖を好きな女の子に託そう。暖かいよ。生殖って。そして、生まれ出ずる生命を二人で育もう。生きることは楽しいよ。でも、生活は苦しいよ。結婚もできない。生殖もできない。浩三さん、新しい生命など生み出せないよ。浩三さんの苦しみが判るよ。

「演習 一」
ずぶぬれの機銃分隊であった/ぼくの戦帽は小さすぎてすぐおちそうになった/ぼくだけあごひもをしめておった/きりりと勇ましいであろうと考えた/いくつもいくつも膝まで水のある濠があった/ぼくはそれが気に入って/びちゃびちゃとびこんだ/まわり路までしてとびこみにいった/泥水や雑草を手でかきむしった/内臓がとびちるほどの息づかいであった/白いりんどうの花が
狂気のようにゆれておった

ぼくは草の上を氷河のように匍匐(ほふく)しておった/白いりんどうの花が/狂気のようにゆれておった/白いりんどうの花に顔を押しつけて/息をひそめて/ぼくは/切に望郷しておった

(竹内浩三「骨のうたう(抄)」日本ペンクラブ電子文藝館より)

特大の頭に兵隊の「戦帽」は小さすぎてすぐおちそうになっても、戦場でも、最期まで詩を、文を書き続けていた、という竹内浩三。天空から押さえつけられるような鬱屈した思いを抱きながら、生きてきたであろう竹内浩三。彼の残した詩片が、この世の居場所を失い、この世から消えたいと自殺念慮にかられていた高校生の生命を救う。きみは死にたいと言ったけれど。「ほんとに私は生きている」(竹内浩三の詩「三ツ星さん」より)。









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