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2018年03月08日15:13

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3月国立劇場/菊之助初役の「髪結新三」

18年3月国立劇場 (「増補忠臣蔵」「梅雨小袖昔八丈」)


菊之助初役の髪結新三


弥生の奥立劇場は、鴈治郎と菊之助のジョイント興行。鴈治郎は、「増補忠臣蔵」に出演。菊之助は、「梅雨小袖昔八丈」に出演。

「増補忠臣蔵」は、別称、「本蔵下屋敷」は、とも言われる。私がこの演目を歌舞伎で観るのは、今回が初めて。人形浄瑠璃では、2回観たことがある。「本蔵下屋敷」は、本来は、「小芝居」の演目。常打ち官許の大(おお)歌舞伎に対抗して、寺社の境内で臨時に開催された江戸時代の宮地芝居は、近代に入っても、「小芝居」という形で、脈々と流れていた。小芝居では良く、「増補もの」と呼ばれる「下屋敷もの」を演じる。

例えば、「増補菅原伝授手習鑑 松王下屋敷」。本編の「菅原伝授手習鑑」の五段目「寺子屋」の前の場面という想定で、後世に加筆されたもの。「増補もの」は、人気狂言にあやかろうと、別の作者によって勝手に付け加えられた場面。これだけを独立して演じることが多い。新しい狂言作りに苦慮した無名作者たちが、柳の下の泥鰌を狙って作ったようだ。「増補もの」は、そういう成り立ち方ゆえ、小芝居、中芝居の舞台にかかったことが多かったので、作者の名前が、あまり残されていないことが多い。その数少ない貴重な演目のうち、「増補桃山譚」、通称「地震加藤」は、河竹黙阿弥作だけに、逆に原作を食い、「増補もの」として、歌舞伎事典にただひとつ記載されていた。九代目市川團十郎が制定した新歌舞伎十八番のひとつとして残った。

今回国立劇場という大歌舞伎で上演された「増補忠臣蔵 本蔵下屋敷」は、鴈治郎初役の上演だ。代々の鴈治郎が本編の「仮名手本忠臣蔵」で演じた若狭之助が登場する芝居ということで、当代の鴈治郎が挑戦したという。従って、大歌舞伎では滅多に上演されない演目が国立劇場で観ることができる、というのが、今回の興行のミソである。

「本蔵下屋敷」は、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」の九段目「山科閑居」場面の伏線となる状況を芝居に仕立てられた。「仮名手本忠臣蔵」の、二、三段目「松切り」「進物場」(主君・桃井若狭之助と家老・加古川本蔵が登場)の後日談という設定で、九段目「山科閑居」(大星由良助と加古川本蔵が登場)に至る経緯の「隙間」を埋めようという作品。1878(明治11)年、大阪大江橋座で、「仮名手本忠臣蔵」の七段目(「一力茶屋」)と八段目(「道行旅路の嫁入」)の間で上演するために、別途に新作された。作者不詳。

なぜ、加古川本蔵は、若狭之助の元を去り、娘・小浪のために、命を投げ出して大星由良助を助けるために山科へ行ったのか、なぜ、本草が高家の屋敷の図面を持って行ったのかなどを観客に説明するために作った。説明的な話なので、なんとも説明「過剰」と思われる場面が、随所にある。演出も若干くどい。

近代人から見れば、「仮名手本忠臣蔵」の加古川本蔵は、短気な社長・若狭之助の危機を救う、いわば危機管理の達人なのだが、江戸の美意識から見れば、高師直側に妥協した「へつらい武士」と蔑まれた。武家社会の前近代性を批判して、明治になって別の作者の手で作られた狂言。だから、新しい物語では、若狭之助は本蔵の危機管理に感謝をし、最後の場面で「忠臣義臣とは汝が事。(略)ふつつり短慮止まつたもそちが蔭」。自分の短慮を反省するという近代性を付加している。「通し」上演の際、七段目と九段目の間に入れて上演されたこともあると言うが、どの程度、七段目と八段目の間で上演されたものか。長続きはしなかったようだ。その後は、精々独立した狂言として上演されたのではないか。すでに触れたように、私は、人形浄瑠璃の出しものとしてこそ、2回観ているが、歌舞伎で観るのは、今回が初めて、という辺りの事情とも通底するのかもしれない。

「本蔵下屋敷」の今回の場面構成は、次の通り。
第一場「加古川家下屋敷茶の間の場」、第二場「同 奥書院の場」。

第一場「加古川家下屋敷茶の間の場」。塩冶判官の刃傷事件以降、若狭之助から(主君の意向を妨害したため)蟄居を命じられた加古川本蔵の下屋敷。若狭之助の妹・三千歳姫(梅枝)は、塩冶判官の弟・縫之助と婚約しているが、事件の影響で婚礼は延期。事件関係者の縫之助と接触せぬようにと、加古川家下屋敷に預けられている。本蔵成敗ということで主君・若狭之助がお忍びで本蔵の屋敷を訪ねてきた。主君の伴をしてきた若狭之助の近習・伴左衛門(橘太郎)は、三千歳姫に横恋慕している。姫を手に入れようと「殿の上意」と偽り、祝言を迫って、姫からは嫌がられている。さらに、伴左衛門は、主君・若狭之助や家老・加古川本蔵を殺し、主家乗っ取りを謀ろうと仲間と企み、茶釜に毒を入れる。その様子を下手、廊下を挟んで茶の間の向かいの部屋から覗き見る本蔵(團蔵)。廊下の奥には、紅葉の奥庭が見える。

伴左衛門は、三千歳姫を無理に連れて行こうとして本蔵に阻止される。伴左衛門は、逆に、へつらい武士の汚名を主君に着せたとして本蔵の不忠を責める。そういうところに、本蔵成敗の御錠が奥に待機していた主君よりあり、ふたりの立場が逆転となり、近習・伴左衛門は家老・本蔵を縛り上げ、得意満面、奥庭の座敷にいる主君の前へと引き立てて行く。皆、舞台下手奥へ入る。舞台が廻り始める。

第二場「同 奥書院の場」。奴らによって、奥庭に土壇場が設定される。そこへ、下手奥より本蔵が引き連れられて来る。銀二の襖を開けて奥から主君・若狭之助(鴈治郎)が登場する。一旦、縄を掛けられ、奥庭の土壇場まで引かれた本蔵だが、彼の真意は、実は、主君にはすでに理解されている。座敷から庭に降りた若狭之助は、本蔵に向けた刃を伴左衛門にむけ直し、御家乗っ取りを企む悪人を斬り殺す。若狭之助は、本蔵に永の暇を告げる。

後は、真意解明となり、本蔵には、高家の屋敷の図面と虚無僧の衣装(袈裟)などが若狭之助から与えられ、「仮名手本忠臣蔵」本編の九段目「山科閑居のば」へ繋がるようにできている。行灯に灯が入る。

大星由良之助らがいる山科へ行けば、本蔵は死ぬことになるだろう。自分の命と引き換えに、娘の小浪を由良之助の嫡男・力弥に約束通り、嫁がせたいと思っているだろう。若狭之助は言う。「未来で忠義を尽くしてくれよ」。本蔵の命令で、茶坊主が毒薬入りに茶釜を運び入れる。本蔵が茶の湯を上手庭先の鉢植えに注ぐと、葉が俄かに萎れ出す。伴左衛門の悪たくみが暴かれる。主従の別れの場面では、上手障子の間が開かれて、三千歳姫の琴の演奏がある。三千歳姫の座る障子の間、奥には、花車の掛け軸。この大道具だけで、若い女性らしい部屋の雰囲気が出る。若狭之助は、手燭を掲げて、本蔵の顔を何回も凝視する。25年間の忠義を感謝する。三千歳姫も本蔵との別れを惜しむ。主君らとの今生の別れの場面である。この後、舞台は、半廻しとなり、本蔵は花道から山科へ向かうことになる。

増補ものの特色かもしれないが、これでもかこれでもかと、強調する演出のくどさが感じられる。この後、観た黙阿弥原作の「梅雨小袖昔八丈」の科白と比べると筆力に劣るのが判る。印象に残る科白が少ないか、あるいは、紋切り型の科白が多いのでは、と感じられる。


菊之助と松緑、二人の髪結新三


15年10月歌舞伎座で、黙阿弥原作の通称「髪結新三」こと、「梅雨小袖昔八丈」を観た。世話ものの「髪結新三」は、同じく市井の人々を描いた「幡随長兵衛」同様に、明治に入ってから、黙阿弥が五代目菊五郎のために書き上げた江戸人情噺である。「髪結新三」は、前半は、颯爽とした髪結職人の姿、小悪党の性根を描く。後半は、小悪党ながら、底には、お人好しの面がある、滑稽な新三を描く。この新三の対照的な人間像こそ、この芝居の面白さだろう。「髪結新三」は、「幡随長兵衛」の上演より、8年早い、1873(明治6)年に、中村座で初演された。「幡随長兵衛」は、男気を結晶化させるような人物を描いた。

明治期に入って上演された「髪結新三」には、初演した五代目菊五郎がその後上演を重ねた工夫が色々残っている。六代目、そして当代の七代目菊五郎が、それに磨きをかけてきた。今回初役で「髪結新三」に挑む菊之助には、それら音羽屋の先人たちの藝を引き継ごうという熱意が感じられた。一方、六代目の指導のもと戦後になって、新三を継承したのは、十七代目勘三郎と二代目松緑であった。

15年10月歌舞伎座で、「髪結新三」を演じたのは、二代目松緑の孫、当代の四代目松緑であった。初役の髪結新三に挑戦したのである。今回の国立劇場では、菊五郎の嫡男・菊之助が、やはり、初役で髪結新三に挑戦した。

松緑系統の髪結新三と菊五郎系統の髪結新三。それを今後演じるのが、松緑と菊之助。お互いに、どう競い合って、それぞれの味わいを作り上げてゆくだろうか。そういえば、ここの劇評では、先に、「一條大蔵譚」で、染五郎と菊之助を取り上げたことがある。幸四郎になった染五郎が襲名披露興行の大事な演目のひとつに高麗屋系統の演目ではない「一條大蔵譚」を取り上げ、義父の吉右衛門から手ほどきを受け、初演したと伝えた。菊之助は、今回、生世話物の「髪結新三」を松緑に遅れること3年で初役に挑戦した。こういう辺りに、私は、菊之助の「兼ねる役者」に向けた意欲を感じて、非常に興味深いと思っている。

今回の劇評は、その辺りにこだわって書いてみようと、思う。
さて、今回の主な配役は、菊之助の髪結新三、梅枝の白子屋手代・忠七、梅丸の白子屋娘・お熊、萬次郎の白子屋後家、亀蔵の家主・長兵衛、橘太郎の家主女房、権十郎の加賀屋藤兵衛、咲十郎の肴売り新吉など。菊之助を軸に脇は、ベテラン、中堅に加えて若手が固めていて、今後精進してゆく菊之助の初役にとって、順当である。

前回の主な配役は、松緑の髪結新三、時蔵の白子屋手代・忠七、梅枝の白子屋娘・お熊、秀太郎の白子屋後家、左團次の家主・長兵衛、右之助の家主女房、仁左衛門の加賀屋藤兵衛、菊五郎の肴売り新吉など。こちらの方が、脇に回った配役が豪華だ。二代目松緑の二十七回忌追善興行ということで、人間国宝の大物役者たちが脇に廻ってくれたからだ。果たして、良かったのか、どうか。

私がこれまでに観た新三は、合わせて12回。幸四郎(3)、菊五郎(3)、勘九郎時代を含め勘三郎(2)、三津五郎、橋之助、松緑、今回が菊之助。橋之助、松緑、菊之助辺りが、あるいは、染五郎なども加わって、新たな髪結新三の人間像を描く競争で角突き合わせるようになるだろう。今後の舞台がとのしみだ。

このほか、後半の芝居をおもしろくさせるのは、深川富吉町の面々。まず、老獪な家主の長兵衛は、弥十郎(4)、三津五郎(2)、左團次(2)團十郎、富十郎、團蔵。今回は、亀蔵。家主の女房お角(かく)は、萬次郎(3)、鶴蔵(2)、亀蔵(2)、右之助(2)、市蔵、鐵之助、今回が橘太郎。こうして、改めて、特に、お角を演じた役者の顔ぶれを見ると、皆、癖があり、それゆえに味のある婆さんばかりで、この芝居の幅と奥行きを感じる。

前半の役どころでは、ほかに白子屋手代の忠七、娘のお熊、下剃勝奴、弥太五郎源七辺りが印象に残る。今回の配役で言えば、白子屋手代の忠七を演じた梅枝、娘のお熊(梅丸)、下剃勝奴(萬太郎)、弥太五郎源七(團蔵)。特に、女形の多い梅枝の手代役は、興味深かった。下剃勝奴は、将来の新三役者。精々、先輩の新三像を真似る引き出しを増やしておくと良い。

私は、この芝居では、中でも当代の菊五郎の新三が好きだ。亡くなった十八代目勘三郎は、菊五郎に比べて、科白を謳い上げてしまう。このところ世話ものに意欲を燃やす幸四郎が、世話もの役者の菊五郎と亡き勘三郎の間に、入り込んで来たという印象だ。幸四郎は、時代ものの場合、演技過多で、私の評価を下げるのだが、なぜか、世話ものは、肩に力が入りすぎない所為か、世話ものというより、近代的な「市井もの」ということからか、幸四郎も、菊五郎の新三に負けていないというのが、おもしろい。菊五郎は、この演目の後継のひとり松緑に前回は、追善興行ということで、主役を譲った。そして、自分は、ご馳走役の肴売り新吉で登場。もちろん、初役。私が観たのは、初日だった所為か、ちょっと、もたもたしていたが、帰って場内の笑いを誘っていた。菊五郎の新吉は、松緑の新三を食っていたかもしれない。新三に初鰹を食わせて、自分は、松緑を食っていたような気がする。

今回もそうだったが、序幕の白子屋見世先での新三の登場は、菊五郎型では、舞台下手から出て来る。髪結の小道具を下げた「帳場廻り(店を持たず、出張専門)」の髪結職人。十八代目勘三郎は12年5月の平成中村座の最終演で、黙阿弥の原作通りに花道から登場したという。花道の出と下手からの出では、芝居の間が違う。余白が違う。12年12月、勘三郎は逝去してしまう。いまは亡き勘三郎の歌舞伎の原点回帰の心意気や良し。勘三郎型の新三を観てみたいものだ。当代勘九郎まで待たなければならないか。

この芝居のおもしろさは、舞台という空間がすっぽりと江戸行きのタイムカプセルに入っていることか。黙阿弥は、当時の江戸の季節感をふんだんに盛り込んだ。梅雨の長雨。永代橋。雨のなかでの立ち回り。梅雨の晴れ間。深川の長屋。初鰹売り。朝湯帰りの浴衣姿。旧・江戸っ子の代表としての、町の顔役、長屋の世慣れた大家夫婦。新参者、つまりニューカマーの渡りの髪結職人。深川閻魔堂橋と担ぎの立ち食い蕎麦屋などなど。主筋の陰惨な話の傍らで、この舞台は江戸下町の風物詩であり、庶民の人情生態を活写した世話ものになっている。もともとは、1727(享保12)年に婿殺し(手代と密通し、婿を殺す)で死罪になった「白子屋お熊」らの事件という実話。大岡政談(大岡越前守忠相の判決記録を元にした話)のひとつ、「白子屋政談」の事件帖を素材とした。

絡む主人公は、上総生まれの新住民ながら、「江戸っ子」を気取る、ならず者の入れ墨新三(「上総無宿の入れ墨新三」という啖呵を切る場面がある)。入れ墨は、犯罪者の印として、左腕に線彫りが入っている。深川富吉町の裏長屋住まい。廻り(出張専門)の髪結職人。立ち回るのは、日本橋、新材木町の材木問屋。江戸の中心地(ダウンタウン)の老舗だ。老舗に出入りする地方出のニューカマー、新・江戸っ子が、旧・江戸っ子に対抗する、という図式の話でもある。

ここは、落語の世界。特に後半の「二幕目」の深川富吉町の「新三内」と「家主長兵衛内」の場面が、おもしろい。前半では、強迫男として悪(わる)を演じるが、後半では、婦女かどわかしの小悪党ぶりを入れ込みながら、滑稽な持ち味を滲ませる。切れ味の良い科白劇は、黙阿弥劇そのものだが、おかしみは、落語的だ。世話もののなかでも、「生世話もの」という現代劇。科白廻しはリアルが良い。生世話ものとは、当時の東京言葉を使った「飛んでる芝居」のこと。その典型が、家主の長兵衛と新三のやりとりの妙。この科白劇の白眉。あわせて、家主夫婦の会話。この芝居が、基本的に笑劇だというのは、家主夫婦の出来具合に掛かっている。

二幕目が終ると、いつも芝居が終ったような感じになるのだが、勧善懲悪ものの芝居なので、新三(菊之助)が、旧・江戸っ子の代表である町の顔役・弥太五郎源七(團蔵)という親分に殺されて、初めて幕となる。まだまだ、この時代では、新・江戸っ子が、旧・江戸っ子に、最後は殺されてしまう、という方が、観客の常識にかなったのだろう。

大詰の「深川閻魔堂橋の場」を観ないといけない。通常は、途中で立回りを止めて、舞台中央に座り込んだ新三と源七の二人が声をそろえて、「東西、まず、こんにちは、これぎり」で、お辞儀をしてから、閉幕となるのだ。前回は、幕が閉まりかかっても、ふたりでチャンバラをしていた。新三を殺した源七が、後に大岡裁きを受けることになるからだ。

松緑と菊之助。前回の松緑の新三の出来が、いまひとつで、私には、物足りなかった。なまじ、偉大な二代目松緑の二十七回忌追善興行で、人間国宝の大物役者たちが脇に廻ってくれたが故に、当代の松緑は、貫禄負けがしていて、チンピラ新三のような印象が最後まで残ってしまった。菊之助は、そういう意味では、バランスのとれた脇役たちに囲まれて、背伸び気味ながらも、生き生きと新三を演じていたようだ。美男が演じる小悪党の魅力。いずれにせよ、菊之助や松緑、染五郎らの、中堅歌舞伎役者グループは、今後とも互いに精進しながら、歌舞伎界を背負ってゆくことになる。

「髪結新三」は、上総から江戸の出てきたニューカマー青年の営利誘拐の物語。上総(今の千葉県)という江戸近郊から出てきた青年・髪結「新」三。ちょと、ここで引用するには、場違いな本かもしれないが、半藤一利・保阪正康『そして、メディアは日本を戦争に導いた』という対談本がある。この中で、保阪正康は、こういう発言をしている。国民皆兵となった明治の軍隊(幕末から明治初期、各藩には、自前の軍隊=武士があったが、天皇の軍隊はなかった)について、「戦場やその周辺で問われるべき行為に走るのは、東京など大都会周辺部の出身であることが多いというんですよ。逆に、うんと田舎の舞台も総じておとなしい。都会周辺部には、ある種のコンプレックスがあるんではないかという気もします」。これに答えて、半藤一利は、「完全に貧しい人たちはコンプレックスを持たない。ところが、都会に近い田舎だとコンプレックスを持つんだよね。不思議なもんです」(半藤一利・保阪正康『そして、メディアは日本を戦争に導いた』)と受けている。この説が正しいと仮定すると、江戸(都会)周辺部出身の「上総無宿」(人別帳から除籍された)の前科者・髪結新三は、コンプレックスを持った小悪党の青年として、新たに徴兵された明治の兵隊に通じるメンタリティを持っているのかもしれない。

黙阿弥が「恋娘」から「小悪党」に主人公を変えたことで、江戸の大店のお嬢さんの「情痴の果ての事件」は、江戸から東京に変わったばかりの大都会の社会構造の不安定さが、より明瞭になったような「社会的な事件」へと見事に変貌したように思える。黙阿弥の卓見が、ここにはある。
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