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2018年02月24日19:05

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最近、考えたこと。Part0080


 さてと、本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生282日目、「極東戦域核戦争」開戦236日目(怒)。「人民の天皇論」撲滅のための対抗プロパガンダ「法の君主(立憲君主)論」始めますか。前回、チャイナの野蛮な「中華思想」とチャイナ帝国の基本構造を語った。そして、建国以来それに苦しめられ続けた父祖たちの足取りを追った。今回はどう「対等外交」を勝ち取ったのかの「始めの一歩」を語ろう。まず、この年表を見てほしい。


922年   後百済王国が日本に救援を要請して拒否される。

926年10月 後百済王国が新羅の首都・金城を攻略。高麗王・王建を大破する。

926年   後百済王国が再び日本に救援を要請して拒否される。

930年   後百済王国が古昌郡の戦いで高麗王・王建に大敗する。

935年   後百済王・甄萱が太子・甄神剣の廃嫡に失敗して王位を奪われる。

935年 6月 前後百済王・甄萱が新羅王と共に高麗王・王建に降伏。

936年 6月 後百済王・甄神剣が父・甄萱の手引きした高麗王・王建に滅ぼされる。

936年頃  藤原純友が海賊を組織する。

938年 5月 出羽天慶の乱、俘囚が反乱す。

939年 2月 平将門が叛乱を起こす。

939年12月 藤原純友が播磨・備前の受領を襲撃する。

940年 1月 駿河国にて「群盗」騒擾する。

940年 2月 平将門が戦死する。

940年 2月 藤原純友が本拠を捨て大宰府を占拠。

940年 5月 藤原純友が官軍の攻撃を受け博多湾にて大敗逃亡する。

941年 6月 藤原純友が逮捕され獄死。


これは偶然だろうか?サムライ勃興の端緒となった「承平天慶の乱」の「すべて」は後百済王国滅亡の「5年以内」に起こっているのだ。ちなみに半島の「後三国時代」は日本が「鎖国(遣唐使の廃止)」する2年前に叛乱が始まり6年後に次々と建国された。之が偶然か?はっきり書こう。



「承平天慶の乱」とは秘密裏に支援していた後百済王国を潰された「帝国派」の「王国派」に対する叛乱劇


だったのだと(-_-;)。そう考えなければ「承平天慶の乱」は決して理解できない。大体、みんな奈良時代・聖武天皇の御世に日本が半島に出兵していた「事実」をどう考えているんだ?韓国側の資料には明記されていることだぜ。「軍船300隻」との記載からほぼ兵力は1万5000程だっただろう。「帝国派」と「王国派」の対立葛藤の視点なくしては「壬申の変」をはじめあの複雑怪奇な


「天智朝」VS「天武朝」


の対立なんか説明できるわけが無い(怒)!はっきり書けば「天智朝」は親新羅の「王国派」、「天武朝」は親百済の「帝国派」だ。藤原純友が滅ぼされたとき「帝国派」が壊滅し、「王国派」が最終的な勝利を手にしたのさ。仁徳朝の滅亡と継体朝の勃興にもこの視点が不可欠だ。「継体朝」は親新羅の「王国派」、「仁徳朝」は親百済の「帝国派」。そう考えると見えてくるんだよね。サムライの勃興とは実は二つの「古代種族」の復興劇であることが(黒笑)。その種族の名を


「もののふ」と「つわもの」


と呼ぶ。それを理解するには少し時間を遡って仁徳朝に始まる二種族の興亡とその復興劇「サムライ勃興」に対する歴史学的・法学的な意味合いを解説しなければならない。その話はまた次回語ろう。


PS、ふーーーーー、今回、我ながら「酷い悪文」になってしまった(-_-;)。読みにくくて御免なさいm(_ _)m。古代編は「法制通史概論」でかなり時間をかけて検討していたんで一気に書けたが。中世編は「アイディア」が先走って、うまく纏まってないので本当はも少し「分析」と「検討」の時間がほしいのだが、現況、立ち止まっている時間はほぼ無い(ToT)ので悪文承知で今後も進め、順次まとまったところから「清書」がわりに「チャート」していくことにします。ほんとーーに、御免なさいm(_ _)m。とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。

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