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2018年02月16日17:41

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2月国立劇場(人形浄瑠璃)・第三部「女殺油地獄」

18年02月国立劇場(人形浄瑠璃)・第三部「女殺油地獄」


近松門左衛門原作の「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」。国立劇場・第三部は初日に拝見。

今回は、「豊島屋(てしまや)逮夜(たいや)の段」まで上演する。今回の場割は、以下の通り。「徳庵堤の段」「河内屋内の段」「豊島屋油店(あぶらみせ)の段」「同 逮夜の段」。私は、「女殺油地獄」の人形浄瑠璃を見るのは、今回で3回目だが、「逮夜の段」を観るのは初めて。

「女殺油地獄」は、江戸時代に実際に起きた事件をモデルに近松が仕組んだと言われる江戸の人形浄瑠璃。史実かどうかは、確証がないらしい。近松お得意の「心中もの」ではなく、ただただ無軌道な、放蕩無頼の、23歳の青年が暴走の果てに、近所の、商売仲間の、姉のように優しく気遣ってくれる、若い人妻(27歳)を、借金を断られたからということだけで、殺してしまうという芝居。この惨劇は「心中もの」のような、色香もなかったので、初演時は、大衆受けがせず、1721(享保6)年、旧暦の7月、人形浄瑠璃の竹本座でたった1回限り公演されただけで、その後、人形浄瑠璃では、上演されなかった。

明治の末年になって、復活狂言として、歌舞伎化されたという演目で、人形浄瑠璃としては、230年以上も後の、1952(昭和27)年11月、八代目竹本綱大夫、三味線方の十代目竹澤弥七が、新しく作曲した「豊島屋(てしまや)油店の段」を復活。人形を操らない、素浄瑠璃として、NHKのラジオ放送で演じるまで、上演されなかったという、曰く付きのものである。人形浄瑠璃としては、1962(昭和37)年4月、大阪の道頓堀文楽座で、「徳庵堤の段」と「河内屋内の段」の通しが、野澤松之輔作曲で復活上演された。大詰の「豊島屋逮夜の段」は、1982(昭和57)2月、復活上演された。

一説によると、加害者の青年・与兵衛も、被害者の若妻・お吉も、油屋の株仲間であり、当時の大坂の油屋は、全国的な販売網を持っていて、大坂では、堂島の米商人に次ぐ勢いのある経済組織だったことから、事件の残忍さ故に、油屋の業界から、何らかの圧力があり(つまり、「オイルマネー」からの圧力)、再演を禁じられたのではないか、というが、真相は判らない。

昨今の無軌道な、没道義的な青年らの犯罪は、時代相を反映しているところもあり、一概には、同断するようなことは言えないだろうが、現代的な解釈をしたくなるような演目だろう。そういう意味では、近代性の強い劇ゆえに、江戸時代は、人形浄瑠璃での続演もなく、歌舞伎としでの再演もなく、観客が、この芝居を観るためには、近代まで、待たねばならなかった。それでいて、近代では、受け入れられることが判ると、「女殺油地獄」は、青年の無頼、放蕩ぶりを描く「徳庵堤の段」、家族の内幕を描く「河内屋内の段」、そして、ハイライトの、殺し場を描く「豊島屋油店の段」が、盛んに上演されるようになり、今では、人形浄瑠璃では、チケットの入手しにくい、人気の演目になっている。

「徳庵堤の段」は、野崎参りの街道が、描かれる。「新版歌祭文」の、「野崎村」は、歌舞伎では、両花道を使って、舟で大坂の戻るお染(本花道)と土手道を駕篭で戻る久松(仮花道)の場面が、有名だが、野崎参りでは、土手道を歩いて参詣する人と川を舟で行く人との間で、互いにののしり合うという風習(勝ち負けが一年の運試し)があったという。近松原作の床本では、こう描写される。

「(卯月半ば…)まだ肌寒き川風を、酒にしのぎてそゝり往く、野崎参りの屋形船、徒歩路(かちじ)ひろふも諸共に、開帳参りの賑はしや」

つまり、現代ならバスで、宴会しながら行く人、グループで歩いて行く人、こもごもで、車ならぬ、屋形船で酒を酌み交わしながら往く人たちと歩いて行く人たち同士の間で、賑やかに喧嘩をしながら、参詣するというところだろう。

「女殺油地獄」では、下手小幕から出てきたのは徒歩組。大坂本天満町の油屋・豊島屋の内儀、お吉とその娘、遅れてくるのが夫の七左衛門。それとは別に、豊島屋の同業で近所の河内屋の息子・与兵衛(23歳、親掛かり)とその無頼仲間のふたりの3人組など。ただし、この3人組は、4月半ばの肌寒さを酒で凌ごうと、5升樽を「坊主持ち」ということで、交代で持ちながら、また、酒を飲んでは、歩くを繰り返しながら、次第に深まる酔いとともに、歩いてくる。

一方、船組は、上手から登場。与兵衛馴染みの遊女・小菊一行だが、小菊は、与兵衛からの野崎参りの誘いを断り、会津から来たお大尽らと船でお参りを済ませたので、早(はや)、大坂に戻る途中。徳庵堤で、待ち受けていた与兵衛一行と遭遇し、酒に酔っているお大尽は、与兵衛らとつかみ合いの喧嘩になる。まさに、野崎参りの風習を巧みにいかして、近松は喧嘩場を構成する。この喧嘩の場面が、実に、おもしろい。歌舞伎では、喧嘩は、立ち回りと言って、一種の踊り、所作事で、様式化しているが、人形浄瑠璃は、殴る、蹴る、踏んづけるなど、極めてリアルな動きを見せる。特に、三人遣いのうち、脚遣いが、「張り切って」、鋭く、素早い脚の動きを見せるので、おもしろい。滑稽でありながら、緊迫感があり、観客の笑いを誘う。その挙げ句、着ている羽織を脱いで相手の頭に被せて視界を遮り、頭などを叩きのめす。この場合、主遣いは、人形の右袂に入れてある右手を一旦、抜き抜いて、羽織を脱ぎ、素早く、右手を人形の右袂に入れ直して、人形を操り続ける。

実際の野崎参りでも、当時の庶民は、一種のレクレーション、あるいは、日頃のストレス解消の、リクレーション(再創造)の場として、羽目を外していただろうと容易に想像されるような作劇術だ。

酔っぱらい同士の、恋の鞘当ては、泥の投げ合いの果て、やはり、馬に乗って参詣に通りかかった高槻家の御代参、小栗八弥の袴に与兵衛の投げた泥つぶてを当ててしまう。無礼者、手討ちにしてくれる、という場面になり、手討ちにすると近づいてきた小栗の家臣で徒士頭は、なんと、与兵衛の伯父・山本森右衛門。伯父の進退にも影響を与える「事件」になってしまう。その場で、手討ちにしようという森右衛門だが、主人の小栗八弥は、「血を見れば御代参叶わず」と、参詣の前に、血を流すのは、良くないという、なんとも、忝い言葉で、諭すだけで済ましてくれる。伯父は、帰りには、「首を討つ」と目で言って、甥を命拾いさせる。しかし、見栄っ張りで、小心の与兵衛は、狼狽えてしまい、参詣から戻ってきたお吉に助けを求める。

この「徳庵堤の段」は、竹本の分担は、次の通り。靖太夫が与兵衛、希太夫がお吉・小菊、小住太夫が七左衛門・森右衛門・大尽蠟丸、亘太夫が小栗八弥・弥五郎、碩太夫がお清・貨車。5人の太夫が10人の人形を分担して、声を使い分ける。以前に観た時は、竹本三輪太夫以下9人が、役割分担で演じ分けていた。人形たちの声音も、さまざま、大夫たちのダイナミックな入れ替わりもあり、舞台に登場する人形遣いの数も多く、見応えがあった。それに比べると今回は、半舷体制か。当然のことながら、人形遣いは、歌舞伎のように一人で何役も兼ねるわけには行かず、多数出演する。しかし、三味線方は、錦糸が、たった一人で対応する。

家族の内幕を描く「河内屋内の段」は、「文楽まわし」(盆まわし)を使って、前半の(口)と、後半の(奥)が、それぞれ竹本のひとり語りで演じられる。今回、口は、咲寿太夫、三味線方は、團吾。奥は、津駒太夫、三味線方は、清友。ひとりひとりの人物造形を丹念に太夫が描き分けて行く。特に、津駒太夫は、継父の徳兵衛の声をベースにして語っているように見受けられた。

河内屋主人の徳兵衛は、先代の徳兵衛が亡くなった後、店の使用人の立場から、未亡人と結婚したので、先夫の息子である与兵衛には、幼児期、「ぼんさま」と呼んでいただけに、父親になっても、やはり、遠慮がある。与兵衛の母親のお沢は、武家出身で、武家の倫理・道徳を持ち続けている上、商売を切り盛りし、家族を大事にしてくれる後添えの徳兵衛に感謝している。それだけに、先夫の息子の無軌道ぶりには、実母として、必要以上にきつくあたるが、心底では、実の息子が可愛くて、なんとか、更生させたいと思っている。このほか、分家して、油屋として別に店を持ち、独立している長男として、与兵衛の実兄の太兵衛がいる。徳兵衛とは、株仲間。つまり、同業の組合員。家内には、与兵衛とは、「種違い」(異父姉妹)の未婚の妹・おかちがいる。徳兵衛とお沢の間にできた娘。河内屋では、与兵衛に、まじめになってもらおうと妹に婿を取り、商売を継がそうと偽る作戦を取り、与兵衛の奮起を期待するが、これが、逆効果となり、与兵衛は、荒れに荒れて、家族全員を敵に回して、大立ち回り。実母にも、義妹にも、殴り掛かる始末。おとなしく己を押さえていた義父も、とうとう、義理の息子を打ち据える。その挙げ句、実母の勘当の声を背に受けて、臍を曲げた与兵衛は、家出をしてしまう。その後ろ姿が、先代に似ていると、徳兵衛は、よけい心痛を重ねる事になる。下手の小幕の中に消えた与兵衛の姿は、見えないが、徳兵衛の義理の息子を案じる気持ちが観客にも伝わり、先代に似ているという与兵衛の後ろ姿が、目に浮かんでくる。

与兵衛には、屈託がある。父親が亡くなった後、母親が、店の使用人を継父「徳兵衛」として、夫にし、河内屋の主人にしてしまい、さらに、種違いの妹に婿を取り、次代の店主として河内屋を継がせようとしていると疑っているからだ。こういう屈託は、時代を超えて、普遍的で、どこにでもある。

与兵衛の首を扱う玉男は、「チョイの糸」:首(カシラ)の中に仕込まれる「ノドギ」(喉、首)とカシラの後ろを鯨のヒゲでむすんだ先につく糸を動かす。主遣いは、手板(操作板)を下から支え持つ左手の薬指と小指に、この糸を引っ掛けている。人形遣いが、緊張したり、ゆるんだりすると、人形も微妙に動く。

無表情を装っている主遣いも、人形より抑圧しているものの、表情が変化する。変化する人形遣いの息使いによって、人形も息を呑んだり、吐いたりする。だから、人形が生きているように見える。活発に動く時より、こうした微妙な動きの方が、存在感があるという不思議さ。

この演目最大の見せ場。殺し場を描く「豊島屋油店の段」。呂太夫のひとり語り。大向こうから、「呂太夫」と声がかかる。三味線方は、清介。

端午の節句に、3人の娘しかいない豊島屋では、娘の髪を梳る櫛が、折れたり、節季の集金から一旦帰宅した主人が、また、他へ集金に出かける前に、食事代わりに飲む酒を「立ち酒」(野辺送りの風習の飲み方)をしたりするので、内儀のお吉は、不吉がる。この不吉さは、その後に展開する悲劇を暗示する伏線となる。

27歳のお吉の首(カシラ)は、眉を剃った「老女方」という顔を使っている。口には、着物の袖を銜える事ができるように針が刺してある。この顔が、不吉がるときには、色っぽく見えた。タナトスに裏打ちされたエロスか。因に、与兵衛の母・お沢は、「婆」。妹のおかちと遊女・小菊は、いずれも「娘」。似たように見える3種類の女の首が、女性の深淵を覗かせる。

5月5日。端午の節句。節季とあって、借金の精算を迫られた与兵衛は、近所の優しい、人妻の豊島屋の内儀・お吉を頼って、金を借りようとやってくる。初夏なのに、金のない与兵衛は、冬物の着物を着ている。身の周りには、凝りたい年頃。それもあって、優しい内儀のいる店に入りそびれていると、河内屋の提灯が近づいているのに気づき、物陰に隠れる。やってきたのは、義父の徳兵衛で、不逞の息子が慕っている株仲間の内儀を通じて息子へ金を渡してもらおうという魂胆なのだ。さらに、もうひとり、豊島屋にやってくる。今度は、実母のお沢。結局、お沢も、徳兵衛と同じ魂胆。不逞ながらも、息子は、息子。義理の関係も実の関係も、子に対する親には、無関係。ふたりの老夫婦の心根を理解した内儀のお吉は、「ここに捨てゝ置かしやんせ。わしが誰ぞよさそうな人に拾はせましよ」と、与兵衛への橋渡しを請け負ってくれる。慈愛に満ちた親たちや優しい近所の内儀の気持ちが、こちらにも沁みてきて身につまされる。

与兵衛の父母の役割は、社会を現に支えている普通の大人たちの常識では、対応できないような、親馬鹿の果ての、慈愛に満ちた、無限広大な世界を作り上げているように見受けられる。これも、共同幻想の世界なのだが、それが、奇妙に、歪んだ与兵衛の心象が築いている砂上の楼閣のようなグロテスクな世界とバランスが取れているように見える。その対象の妙が、「女殺油地獄」の近代性を裏付けている。

与兵衛の義父・徳兵衛は、店の使用人から先の主人で、与兵衛の実父の死後、継父になったという屈折感がある。実際、そういう家庭環境への不満が、与兵衛に屈託を抱かせて、愚連(ぐれ)させている。つまり、義理の息子を甘やかしている。気が弱いながら、そういう自覚があり、手に余る与兵衛が、妻であり、与兵衛の実母であるお沢らに家庭内暴力を振るう様を見て徳兵衛は、義理の息子を店から追い出すが、追い出した後、与兵衛の姿が、恩のある先の主人にそっくりだと悔やむような実直な男だ。お沢も、いまの夫に気兼ねしつつ、ダメな息子を見放せない。夫に隠れて、追い出す息子を見送るが、「ダメな子ほど、可愛い」と言われる世間智の説得力を老夫婦が、十二分に見せつける。

そういう、ふたつの、ある意味では、「非常識な世界」に対して、お吉の夫・七左衛門は、ちょいとしか出てこない傍役ながら、ふたつの世界の間にある、幻想ではない、大人の常識の世界があることを観客に思い出させる。出番は、控えめだが、仕事、仕事に追われる男の慌ただしさと堅固さを、主人「不在がち」による豊島屋の危うさを、要所要所で、示していた。

一部始終を家の外で聞いていた与兵衛が、入ってくると、お吉は、与兵衛に金を渡すが、既に「事情」を承知している与兵衛は、驚かないばかりか、さらに、金を貸せと迫る始末。与兵衛を甘やかしたくない、更生させたいと姉のような気持ちのお吉が、与兵衛の申し入れを断ると、「不義になつて貸して下され」と、男女の仲になって、情愛からみで金を貸せとお吉の膝に触れながら、迫る悪道者。「くどいくどい」と相手にしないお吉。「女子と思ふてなぶらしやると、声立てて喚くぞや」。

あきらめて、与兵衛は、ならば商品の油を貸してくれと頼む。商品の貸し借りは、株仲間の常道故、それには応じましょうと油を樽に詰めていると背後に回った与兵衛が、懐から脇差しを取り出し、お吉に刺しかかる。

ここからが、見せ場。油まみれの殺し場。ふたりの立ち回りで、店に置いてあった油樽が次々に倒れる。油が、店内に広がり始める。逃げるお吉。追う与兵衛。油で、足元が滑る。舞台中央から、下手に一気に滑る与兵衛。命乞いをするお吉を追いながら、何度も滑る。舞台中央から、下手に一気に滑る。主遣いの玉男ら3人の人形遣いたちは、一気に移動する。脚遣いは、巧みに人形の前後を入れ替わる。横になって、人形を操る人形遣いたち。そのダイナミックな動きが、殺し場の、迫力を盛り上げる。脚も、足首もない女の人形も、脚遣いは、着物の裾を巧みに遣い、迫力をそがない。歌舞伎役者では、演じきれないような、ダイナミックな動きは、人形浄瑠璃でしか、表現できない。この場面、以前は勘十郎の主遣いで観たが、今回の玉男より、動きがダイナミックだったと記憶している。

遂に、事切れたお吉をよそに、上手、奥の寝間の蚊帳のなかで、息をひそめて、震えているであろう3人の娘たちのことにも気を止めず、与兵衛は、座敷に上がり込み、お吉から奪った鍵を使って、戸棚を開け、そこから「銀」(銀本位制は、大坂の通貨)を盗んで、闇に消えて行く。閉幕。

贅言:歌舞伎のためにも、一言。歌舞伎では、殺し場で、店先にある油の入った樽が次々に倒され、なかの油が、実際に、舞台一面に流れ出る。座敷にも逃げるお吉を追って、与兵衛は、油まみれのままにじり寄る。ふたりの衣裳も「油まみれ」に見える。人形浄瑠璃でも、油の樽は、なぎ倒されるが、舞台の「船」と呼ばれる下に落ちてしまうので、樽も見えない、油も見えない。それは、観客の想像力に任せるしかない。

不条理劇を象徴する、見事な場面が、延々と展開する。お吉を殺した後、花道に掛かるポイントで、惚けたような表情の与兵衛は、余韻を残すが、人形浄瑠璃では、下手の小幕から、舞台の袖にすぐに引っ込んでしまうので、そういう余韻はない。

贅言;歌舞伎は、花道も、「油まみれ」だ。閉幕後、何人もの観客が、道具方がモップで掃除を始めた花道まで来て、板を汚した「油」を点検していた。私も、もちろん、触ってみたが、外見上「ぬるぬるして見えた」ものは、意外とサラッとしていて、粘着力のない液体だった。布海苔を油のように見せているという。

さて、近松原作では、ここでは終わらない。
今回の人形浄瑠璃も、終わらない。「豊島屋逮夜(たいや)の段」となる。竹本は、呂勢太夫。三味線方は、宗助。咲甫太夫は、織太夫を襲名した。呂勢太夫も、いずれ、大きな名前を襲名するだろう。

与兵衛の所為で、浪人に身を落とした伯父の山本森右衛門は、状況からお吉殺しは、与兵衛の仕業と疑い、与兵衛を探す。新町、曾根崎と遊郭に逃げ込んだ与兵衛の跡を追う。お吉の三十五日の法要の日、与兵衛は、自分への嫌疑の目をそらそうと豊島屋に自ら現れる。「気の毒千万、(犯人も)追つ付け知れましよと」嘯く。居間の梁を通った鼠が、血染めの割付(割勘の書付)を落とすと、それは、与兵衛の筆跡であったことから、疑われ、森右衛門にも追い詰められ、遂には、犯行を自白させられる。

竹本:「与兵衛覚悟の大音上げ『一生不孝、放埓の我なれども、(略)思へば二十年来の不孝無法の悪業がが、魔王となって与兵衛が一心の眼を眩まし、お吉殺し、金を取り紙は、河内屋与兵衛、仇も敵も一つ悲願、南無阿弥陀仏』
後手に縛られて、引っ立てられる。最後は、千日前にあった処刑場で、処刑された。幕。

借金で親に迷惑をかけたくなかったばかりに、親身の姉のような人妻に借金を申し仕込み、断られると、逆上して、殺してしまうという短絡な青年。盗んだ金で遊女と遊び、法要の様子を伺おうと被害者宅に平然と顔を出す無神経さ。そういう、「俺たちに明日はない」という映画を地で行くような、無軌道不逞な青年像を、例え、実際の事件にヒントを得たとはいえ、およそ290年も前の、1721年に舞台にかけたものの、当時の社会から拒絶された近代的な演劇「女殺油地獄」は、今、人形浄瑠璃の人気演目として、受け入れられている。近松門左衛門、歴史の時空に早く来すぎたのかもしれない。

その秘密は? ここで、コンパクトながら、私見を述べてみたい。河内屋の人間関係を見たときに気がついたのだが、油屋「河内屋」という商家には、武家の矢が刺さっている。お沢という母親が、それだ。お沢は、兄が、山本森右衛門で、高槻藩の家臣小栗八弥の徒士頭であった。今回の舞台では、森右衛門の出番は少ないが、その後の「女殺油地獄」の展開を見ると、結構重要な役どころを担っている。このお沢と森右衛門の系譜は、意外と重要な気がする。つまり、原作者の近松門左衛門が、武家出身の狂言作者だという事は知られているが、それを思い出していただきたい。商家の事件をリアルに見る視点が、ここには、ある。母親のお沢は、不逞に実の息子と後添えの誠実な夫、息子の義理の父に挟まれて、苦しみながらも、矜持を持って、息子と夫に対応しているが、作戦とは言いながら、安宅の関で、弁慶が、義経を杖で打ち据えるように、朸(おうこ)と呼ばれる油桶を担ぐ天秤棒で、「エヽ、モ、きりきり失せう」と与兵衛を家から突き出す。「越ゆる敷居も細溝も、親子別れの涙川」。実の母子の別れ。武家出身のお沢は、近松の代理人。実の息子が引き起こす商家のスキャンダルをリアルに抉り出す。豊島屋で、お吉と徳兵衛の前で、不覚にも、懐から落とした粽と金子という本音以外は、武家出身という、外からの視点で商家の内部を見ている。つまり、外と内の視点を併せ持っている、唯一の人が、お沢ではないか。与兵衛は、最後は、実母・お沢の兄の森右衛門に引導を渡されてしまう。

ある問題について、外と内の視点を持ち、「内」、つまり、情報の送り手という取材対象から情報を取材し、「外」、つまり、情報の受け手に、それを判りやすく伝える。いわば、外と内の境界に立ち、情報を判りやすく伝える人、それが、マージナルマンという立場を必要とする、ジャーナリストのあるべき姿なのだと思う。それは、私も、そうなのだが、まさしく、ジャーナリストの視点なのである。

「心中天網島」(1720年)、「女殺油地獄」(1721年)、「心中宵庚申」(1722年)。近松は1724年には、没。当時は、近松の「心中もの」が、艶のある大衆上のする作品として、ヒットしているなかで、あえて、晩年の老いを感じながら、「心中もの」ではない「女殺油地獄」という作品を書き、生きているうちに、再演の機会に恵まれなかった近松門左衛門は、まさに、「心中もの」の人気の劇作家としてではなく、気鋭のジャーナリストの視点で、与兵衛という、近代的な犯罪者に通じる青年像を描き上げ、同時代ではなく、何百年後の、見知らぬ現代社会に向けてメッセージを送り込んできたのではないだろうか。

「心中宵庚申」(1722年)も、今回、国立劇場の人形浄瑠璃で、初めて観たが、それについては、第一部の劇評として書いてみたい。

最後に、大勢出演する人形遣いのうち、主な人たちを記録しておこう。
お吉:和生。与兵衛:玉男、天王寺屋・小菊:清五郎、馬に乗った高槻家の御代参・小栗八弥:簑太郎、その随行で与兵衛の伯父・森右衛門:玉輝、豊島屋・七左衛門:玉志、河内屋・徳兵衛:玉也、河内屋女房・お沢:勘彌、与兵衛の兄・太兵衛:幸助、稲荷法印:簑紫郎、与兵衛の妹・おかち:簑助、綿屋・小兵衛:玉誉ほか。
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