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2018年02月09日17:48

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ひと味違う“オトナ”真野恵里菜に絶賛

ひと味違う“オトナ”真野恵里菜に絶賛
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=84&from=diary&id=4980218

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女優の真野恵里菜(26歳)が2月8日、自身のInstagramで、最新写真集「ERINA」(3月6日発売)の表紙を公開。その大人な雰囲気に、絶賛の声が寄せられている。

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真野はこの日、「3月6日発売の写真集『ERINA』タイトルと表紙がこちらになりました」との告知と共に、写真集の表紙を投稿。上半身裸のように見えるアダルトな雰囲気漂うショットで、普段見せる真野の写真とはまたひと味異なる一枚だ。

これにファンからは「表紙ヤバいなw」「なんや!大人になったな…」「この表紙見たら、買いたくなるよね」「いいじゃないか!」「魅力がどんどん増してます」「目ヂカラと色っぽい感じがいいですね」などの声が寄せられている。
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真野恵里菜は、ハロプロから誕生したアイドル、歌手、から俳優業へ転身、実写版機動警察パトレイバーで泉野明を演じた事で知られるサッカーの柴崎岳選手と婚約中の中堅どころの女優、よい演技もあるのだが、世界観を生み出すほどの迫力はまだ感じられない。

よい俳優とは演技の上手さやキャラクターの演じ分けだとか、いろいろ評価点はあるが、結局のところ、突き詰めれば、世界観の創造であろう。そのドラマや映画の世界観を決定的に決めるのが俳優の存在である。

その価値観の前では、常に同じ演技だとか、ステレオタイプの役しかできないなど、些細な話でしかない。木村拓哉は何を演じても木村拓哉でしかない、という意見には賛成するが、彼が他の人と違って上手い俳優であることもまた真実だと思う。

ちょっとした仕草の中にも、人物像を込めようとする意図がよく見える。またはそう見える。つまり非常にクレバーな人であって、彼の演技に付き合うとは、彼のクレバーさに付き合うのと同義であろうと思うわけである。

もちろん、非常に優れたシナリオとの出会いが少ないことが彼の悲劇であって、それは木村拓哉だけではなく、邦画を活躍の場にする俳優の悲劇でもある。もちろん、英語が話せて海外に行けば活躍の場があるかといえばそんな話はなく、やはりアメリカ大陸を覆う白色人種以外への差別意識は根底にあるため、日本人がアメリカのドラマで主役を張るのは難しい。

アメリカでは日本文化を白人がパロディするのさえ差別であるという認識がある。『文化の盗用(cultural appropriation)』と言われるもので、なぜ彼らがこうも自分たちの差別意識を輸出したがるのか理解に苦しむ。

文化の盗用は理解する限りでは、要は外来生物は駆除しようと同じである。人間の都合で外来生物が持ち込まれたとしても、それは現在の自然環境を大きく変える可能性がある。だから駆除することで、従来環境を保全しようという考えである。

もちろん、生物は可能ならその生活環境を拡張しようとする。それが進化を促す。いまの外来生物も一万年も経てば独自の進化をするだろう。なぜ人間時間に、他の生命の進化まで当てはめようとするか。

もちろん、根底に人間の自然環境に当たる影響の大きさがある。在来種にとっての脅威は圧倒的に人間の自然環境破壊であって、外来種などわずかでしかない。彼らは必要なざ混雑して新しい種になろうとするだろう。進化と絶滅は表裏一体の同じ現象である。

ではなぜ外来種を駆除するのか。もちろん、人間が自然環境破壊をやめることが不可能だからである。意識にしろ、無意識にしろそれを自覚している。よって、意識している人は、せめても環境保全を目指そうとする。外来種駆除を正義と考える人もエコロジーテロリストにはならない。野生と自然は違うものである、という意見も聞く。

いずれにしろ、これらの問題の底には矛盾が渦巻いているはずである。それをうまく言語化すること、多くの人が理解できる形での言語化が必要ではないか。

彼らは自分たちが抱える差別意識には敏感である。そして夢にも思わないのは、自分たちが差別されているという意識が皆無であることだ。歴史上は何回かはあったはずだが、最近は皆無であろうか。ここに白人の傲慢さがある。それは歴史的勝利者という意識と無関係ではあるまい。産業革命という勝利によって得られた地位を手放す気はないだろうが、それが多くの人のアイデンティティを支えている。

差別と区別の間に論理的差異はない。だから差別は悪いが、区別は当然であるという主張は必ずケースによって矛盾を起こす。ふたつの間に直線を引こうとしても、矛盾が起きる。それはアフリカ大陸に適当な国境線を引いた後始末が今も続いている事と、話は同じだ。

だが、問題はそんな所にはない。僕は彼女のファンである。熱心なファンではないのでその作品をみた数はごく僅かだが、重要なのは彼女が出すか出さないかである。その時に、アイドルではなく女優という肩書は有利である。脱いだりエロティシズムを魅せる事が女優の価値を高めるという邦画の愚劣で無能な価値観に晒されている限り、それはとても強い指向性を与えるだろう。

そんなものに価値も認めるほど馬鹿とは思わないが、見たいのとは別の話である。その理想郷に半歩近づいたといえるこれは画期的な写真集である。脱ぐ脱がないは別にしても、彼女はもう暫くしたらいい女優になると注目している。真面目な人だもの。

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