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2018年01月23日14:31

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老人と音楽

音楽も色々聴いてきたけれど、この歳になると大抵の場合、聞いている曲の作曲家、演奏家が活動していた年齢よりも現在の自分のほうが年上・・・・と言う事になる。そう言う事を考えながら現在の自分を顧みると、いかにも”馬齢を重ねたな〜”と言う感慨を実感として思う。
あるいは、この歳になってなお現在の自分よりも遥かに年下の作曲家、演奏家の手になる音楽を聴き続けることが出来る・・・・という事実に、音楽家たちのもつ感性の普遍性と言うか超越性と言うか、そう言った何か音楽独特の抽象的存在・象徴(敢えて”神秘的”とは言わない・・・)の感覚に何となく頭が下がる思いもする。
しかし、一方で歳相応・・・と言いたくなるような”老年”を感じさせる音楽というのも時たまある。勿論、ここでいう”老年”を感じさせる音楽と言うのは、創作力の衰えを感じさせる弛緩した音楽というものでも無いし、あるいは所謂”円熟”と言った老巨匠渾身の力の横溢した音楽・・・・と言ったイメージでもない。云わば、老成そのものを実感として十全に表現するだけの力量を秘めた”老い”の音楽・・・・とでも言うか、老いの衰えを十全に表現するだけの充実した創作力と瑞々しい感性を示す音楽、とでも言う”衰弱”と”充実”と”新鮮さ”・・・と言った背反する要素を持った音楽・・・・。

ブラームス:後期ピアノ作品集(三つの間奏曲 Op.117、六つのピアノ曲 Op.118、四つのピアノ曲 Op.119)
ヴァレリー・アファナシエフ, pn

一応、ブラームス”最晩年”の曲といわれている。ブラームスが自分の創作力の衰えを感じて、自作の整理を始めたり、遺書を書き始めた1891-2年頃の作品で、実際これらの曲集の後には1年一作程度のペースで書かれた作品120(クラリネット・ソナタ)、作品121(四つの厳粛な歌)、作品122(11のコラール前奏曲)が有るのみである。これらの曲は何れも如何にも”晩年”らしい風情を湛えた曲には違いない。けれども例えばこれらのピアノ曲の直前に書かれた曲が有名なクラリネット五重奏曲(作品115)であることからも明らかのように、いずれも晩年の悲哀、情感、諦観・・・と言ったものを感じさせるが、必ずしも”衰え”といったものを感じさせると言う訳でもなく、寧ろ作曲家として真に自由で多彩なブラームスの”晩年の意思・表現意欲”の表出を感じさせる曲でもある。ここに、挙げたピアノ曲集もそう言った、いわば”晩年様式”の傑作・佳作群に含まれる曲だといえる。
このアファナシエフのディスクは1992年発売当初日本では随分話題になったし今も我が国では評価の高い録音である。私も購入当時(定価3000円!・・・とある)から今に至るもずっと折に触れ聴き続けてきたCDでもある。アファナシエフらしい極端に遅いテンポで演奏されているけれど、決して”弛緩した”・・・という感覚は感じさせないと思う。しかし、この録音は日本での評価ほど海外では余り知られていない(らしい)。DENONと言う日本の会社による録音と言う事もあって、販売経路が限られていると言う事もあるのかもしれないが、時折見かける評をみてもその極端に遅いテンポを酷評するものも多いように思う(無論、我が国にも酷評する人はいるし、海外で高く評価する人もいるが・・・・・)。
この、録音に関しては我が国と海外の評の違いと言うのがなかなか面白いように思う。昔から、クラシック音楽は我が国では良かれ悪しかれ西欧(金ぴかで立派な?)輸入文化の典型である。高度な文明の証としてクラッシック音楽を押し頂く風潮が我が国に無いとは言えない。私も染まっているフルトヴェングラー信仰だって、そう言った風潮の一端だと言えないわけでもない(・・・・と言って、それに無闇に忌避感を示す人もいるが、それも又フルトヴェングラーという輸入文化への過剰意識の現われ方の一つではある・・・・)。しかし、このアファナシエフのブラームスに対する彼我の関心の相違には、そう言ったクラシック音楽に対する意識の彼我の相違・・・と言うのとは少し違うところもあるように思うことがある。
アファナシエフはよく知られているように、親日家・・・と言うのとも少し違うようにも思うが少なくとも知日家ではある。俳句を初めとする日本文化に早くから関心があり京都のお寺で演奏してみたり、彼の志向の中に合理性を最優先する西欧文明からの(西欧の伝統は維持しながら)脱却を意識しているように感じるところもある。欧米のメジャーと専属契約せず、DENONという日本の会社との録音を多くしてきたのも、そう言った日本(東洋)との絆を感じながら自己の自由を尊重してくれる環境を求めてのことではなかったかと思う。そう言った観点から、日本(東洋)的な感覚の中にある(アファナシエフなりの)”老い”に対する感じ方が、この演奏の中には感じられるように思う。云わば、西洋クラッシック音楽からの日本(東洋)文化への歩み寄り・・・・と言うか融和の感覚。それが、この演奏の欧米と我が国での関心のもたれ方の相違に現れていて、ブラームスにジャポニズムなどという異質(で無縁・無用)の要素を持ち込むなど、自意識過剰のナルシズムも甚だしく許し難いことだ・・・と思う向きには、受け入れられない演奏でもあるのかもしれない。
しかし、何事によらず”境界”とか”分類”に疎く無神経な私は、この異質なものの(見事な?)融合こそがアファナシエフのピア二ストとしての力量であり、さらに何よりブラームスの”老い”の音楽のもつ時代・民族・国境を越える真の力ではないかとも私は思っている。

ただし、”老い”という概念には、あやかし・誤魔化しが付きまとうこともある。例えば、ブラームスがこれらの曲集を作曲したのは60になる直前、59歳の頃である。少なくとも現代の標準から考えれば、この年齢が、感覚的にも思考・認識力の上でも”老い”に対応しているかどうかは判断が難しい・・・ブラームスが感じた”老い”は、老成といったものと言うより感傷に依存したものであったのかもしれない。あるいは、このアファナシエフの演奏は彼が45歳のときの録音である。むしろ壮年と言ったほうが相応しい年齢での演奏にある”老い”は一種の擬似老成であるのかもしれない。
・・・・・ことほど左様に”老い”は掴みどころがないところもあり、人間にとっては厄介でもあり、そこが救いでもあるのかもしれんなー・・・・と、老いてこのディスクを聴くと思う今日この頃ではある。
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