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2017年12月11日01:50

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鋼鉄村松『鋼鉄の泡』

 このお芝居を新宿の歌舞伎町、西武新宿駅横のシアターミラクルで見て、書かなくちゃと思いつつもう一か月以上がたってしまった。

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 バブル村松による、2本の再演もふくむ短編4本のアラカルトである。コメディフェスティバルへの参加とか、コントの提供、『ボス村松の竜退治』などここ最近の鋼鉄村松のトレンドは饒舌ではなく描写を省くことに傾いているらしいのだけれど、本作のその流れに沿っているのだと思う。

 トレンドといえば、4作品とも暗転した舞台に役者が入り、照明が当たって始まるのではなく、俳優がすでに明るい舞台上でわざわざ衣装を着けてから、おもむろに芝居が始まるのだった。
 つまり、観客のスムーズな感情移入を阻んで、「これはお芝居ですよ」とあえて念押しして始まるわけだけれど、故意にそうしている理由はよくわからない。
 ひょっとすると、楽屋のない兎亭の『ボス村松の竜退治』はそういう背後の作業も見せてやっていたので、それがおもしろいということで取り入れたのかもしれない。ボス村松とバブルムラマツは同じ劇団でやっているのが不思議なほど作風が違うけれど、芝居のトレンドについては妙に共有していることが多い。

 上演された4本のタイトルは、『人造カノジョ』『エレクトリカル・ハピネス』『四人の怒れるドルオタ』『戦場の意気地無し』だった(上演順)。もう記憶もおぼろげになりかけているのだけれど、幸いなことに作演が珍しくツイッターで自作を振り返っているので、それに沿って思い出していこう。


https://twitter.com/bubblemuramatsu/status/922302155498799104
鋼鉄の泡、振り返る。
人造カノジョ、ボスと新宿ムラマティのコンビが強いので演出は最低限にして二人の呼吸に賭けました。結果事故率が上がったんですが、究極の美少女役のエンディが出ればなんとかなるので。きのこ牛乳さんに書き下ろしたのをリライト。


 たしかに、やたらテンションの高いボス村松のマッドサイエンティストと血圧が低い感じの新宿ムラマティによるジャーナリストのやりとりが楽しい。
 事故については私が見た回でもけっこう大きなのがあって、劇の途中で「あれ?」と言ってやり直して、それでもうまくいかず、新宿ムラマティが音響さんに「もう1回、雷鳴下さい」と言って雷鳴を鳴らしてもらい、そのタイミングでリトライしても失敗。その後、客席からはよくわからない経緯を経て、復旧したらしいのだけれど、これなんか私が舞台で見てきた事故の中でも、かなりハイグレードな物件だった。
 しかし、ボス村松のブログによるとこの日はそれほどミスについての記述はなく、むしろ、初日に大失敗をやらかして、その日は「死にたい」とまで書いている。上記のミスをスルーしつつ、一方で死にたくなるほどの間違いとはなんなのか。もっとも、大きめのやらかしの度にわりと毎回、「死にたい」は出てきている気もするけれど。
 もちろん、失敗はあるよりない方がいいに決まっているし、どうしても観客の注意がそちらへ向けられてしまうため、作品として伝えたいことがなおざりにされてしまいがちということもある。黒澤明もそう言っていた。
 しかし、極論めくが失敗を怖れるあまり無難になって伝わらないよりも、踏みこみすぎて勇み足になりながらも、それで伝わるならその方がいいともいえる。
 そして、つぶやきに「演出は最低限にして二人の呼吸に賭けました。結果事故率が上がったんですが」とある通り、演出としてそこは折り込み済みだったのである。

 劇中、マッドサイエンティストが人造カノジョを作ろうと思い立つくだり、そこは作演自身の実体験ほぼそのままらしいのだけれど、とある恋愛シミュレーション(ラブプラスらしい)をプレイしていてバッドエンドへと至り、そこで胸の疼きを自覚した時、彼は豁然と悟り高々と叫ぶのである。
「これは恋愛シミュレーションなのではない。恋愛なのだ!」
 もちろん、ギャグである。しかし、一面の真理を貫いているともいえる。当人の心理に焦点をあてた場合、恋愛シミュレーションと恋愛の峻別はきわめて困難だし、AIとVRの発達はそこをますます混沌としたものにするはずである。出生率はさらに低下するだろう。
 短編のキーとなるこの台詞の、危うさとおかしみみたいなものは、よく表現されていたと思う。それは、ためらわずにアクセルを踏みこんだせいであるだろう。

 この後、マッドサイエンティストの作った人造カノジョが登場する。
 演劇でよくあるシチュエーションだけれども、劇中では絶世の美女という設定なのに、そうそう絶世の美女をキャスティングできるわけではないということがある。
 もちろん、そこはさまざまな仕掛けでどうにかなるのも舞台であって、人造カノジョの女優さんも美人を演じられる人ではあると思うけれども、ブリブリの萌えキャラというわけにはいかない。
 そこでマッドサイエンティストとジャーナリストによる、これはアリかナシかという本人の前でやるにはけっこう失礼なやりとりが続くのだけれど、業を煮やしたマッドサイエンティストが、
「言うても、俺たちが付き合える上限ってこのあたりじゃね?」
 とブチキレて絶妙ともいえる落としどころに持っていくところも楽しかった。


https://twitter.com/bubblemuramatsu/status/922303647828008960
エレクトリカル・ハピネス。新作。なんか題材ないかなーで米軍が兵士の能力アップに脳にICチップを埋め込む研究してるとのニュース発見。それに光市母子殺害事件の時に考えてた事を組み合わせて思いついたけど正直一番役者に厳しい台本でした。役者ども、すみませんありがとう。


 連続殺人鬼の凶弾に妻を奪われ、自らも死の縁を彷徨った男。
目覚めた時、男の頭の中には謎のICチップが埋め込まれていた。
復讐を誓う男の前に、犯人は再び姿を現す。

 というかなりシリアスでサスペンスな語り出しで始まる2本目だけれど、男の頭の中にあるICチップは、犯罪の被害者を失った遺族の悲しみを軽減するためのプロジェクトの実験として、脳内物質の分泌をコントロールするために埋めこまれている。
 一方、人殺しをまるで後悔しない犯人にも、罪悪感を感じさせるため同様のICチップが埋めこまれており、このチップの遠隔操作で本人の感情を外部からコントロールできてしまうのであった。
 しかし、この施術をした科学者がいい加減なやつで、両者を個別に操作できないため、被害者を明るくしようとすれば犯人といっしょに笑い出すし、犯人に落ちこませようとすると被害者も嘆き悲しんでしまう。
 ここでさらに刑事もやってくるのだが、彼はICチップを埋めこまれていないにも関わらずまわりに感情を引きずられやすすぎる性格のため(どう考えても刑事失格なのだけれど)、科学者の操作により3人そろって状況や話し合いの内容とは無関係に泣いたり笑ったり怒ったりし続けるのであった。
 人間の感情や情動って意外としょうもないよな、と突き放したところからおかしさを拾ってくるところが鋼鉄村松っぽい(ボス村松にもそういうところがあると思う)。
 シチュエーションと独立して感情が暴走するというモチーフは汎用性が高いので、また外部にコント台本を提供するような折には部分的に再利用されるかもしれない。


https://twitter.com/bubblemuramatsu/status/922305033269526528
四人の怒れるドルオタ。タイトルはむろん某超有名会議もの映画から。中身はむろんり○ぽん騒動ですが、彩夏演じた04の台詞は堀北結婚妊娠の時の僕の気持ちです。三谷幸喜っぽいやつを目指したんですが、結果鋼鉄村松っぽくなっちゃいました。


 NMB48の須藤凜々花ことりりぽんがAKB総選挙で結婚を発表したという事件をもとに、同様の事件を架空のアイドルが起こし、彼女の4人のファンが集まって死刑か無罪かを討議するという物語。
 ツイッターによれば、『十二人の怒れる男』をベースにしているのだけれど、三谷幸喜とあるから、『12人の優しい日本人』も踏まえているらしい。しかし、私が見ながら思い返していたのは『キサラギ』という映画だった。

 この『キサラギ』は、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの古沢良太による商業ベースでのキャリアとしては駈け出しのころの作品である。
 評判のよさに惹かれて観に行ったヒップホップグループ・ライムスターの宇多丸がその内容に激怒し、自らがパーソナリティを担当するTBSラジオの『ウィークエンド・シャッフル』内にて激しく批判、これをきっかけに映画評論コーナーが設けられ、『シネマハスラー』(現在は『ムービーウォッチメン』)は同番組の目玉コーナーとなった。
 映画評論というものは、基本的にマニアの間でだけ流通するものだけれど、その枠を超えたという意味では、映画秘宝に匹敵する存在だと思う。

 さて、この『キサラギ』も、焼死したアイドルの一周忌にファンたちが集まって故人のことを語り合うという形式になっている。
 本人が不在でファンの回想によってのみその存在が提示されるところは、本作と同様なのだけれど、これは個々のファンの中に作られたイメージこそがアイドルというものの実体であることと対応していると思う。アイドル本人にフォーカスをあてても、アイドルのことはよくわからない、どころか、ほとんどわからない。だから、"DOCUMENTARY of AKB48"を見てもAKB48のことはまるでわからない。あそこにあるのは、公式と本人たちの自己アピールだけである。
 現象としてのアイドルにおいて、本人の存在は真珠を養殖するに際してアコヤガイに核として入れる貝片のようなものにすぎない。だから、アイドルは恋愛が禁止なのであって、よく言われるように理不尽きわまりないことなのだけれど、ファンが自分の中に作っているイメージを本人が踏みにじるのは、重篤な裏切り行為であるというのが業界の暗黙のルールではあるらしい。

 りりぽん騒動は、その自覚のない人間がアイドルになってしまった場合、なにが起こるかということだったと思う。もっとも、秋元康はおニャン子クラブからこっち、そういうアイドルばかり手掛けている気がする。彼にとってアイドルとは仕掛けであって、ファンの中でなにが起きているかに頓着するつもりはないらしい。

 宇多丸は『キサラギ』について、ドルオタの描写が浅いという点でもっぱら批判していたのだけれど、個人的にはそこはどうでもいいと思う。
 『キサラギ』は非ドルオタが非ドルオタに向けて作った映画である。ノベライズも読んだことがあるのだけれど、皮肉にというべきか、むしろ、作者の古沢良太は後書きにアイドルファンについてできるだけステレオタイプに陥らないよう描写しようと心掛けたといったような旨のことを書いていた。
 実際、この映画での登場人物たちは、アイドルに多大な関心を抱き、その応援に努力を惜しまない人たち、ぐらいのスタンスで描かれている。そして、演じるのは小栗旬、ユースケ・サンタマリア、小出恵介、塚地武雅、香川照之である。
 それまで、その奇異さを誇張され、世間や一般常識との乖離ばかり取り上げられてきた存在について(今でもその傾向は強い)、劇中では一般人とも地続きの部分に重点をおいて造形されている。映画についての評価もその部分を好感したものが多かったと思う。
 むしろ、自分としてはすべてが明らかになった後、「それでも、自分は彼女に生きていたほしかったよ」と言う人間が一人もいないことに違和感を覚えた。死んでよかった、みたいな感じで喜んでいるのである。おまえら、本当にファンなのかとすら思った。

 さて、ここでもう一つ、『キサラギ』が公開された2007年の翌年にアメリカで公開されたミッキー・ローク主演の『レスラー』を取り上げたい。話がどんどん横滑りするばかりで、いつ『四人の怒れるドルオタ』に戻るんだよと思われるかもしれないが、それは自分でもわからない。
 この『レスラー』はタイトルから想像がつくように、プロレスラーのお話なのだけれど、奇しくもラストのニュアンスは『キサラギ』とよく似ている。
 そこでは、現実と虚構の対立が扱われている。両者は互いに相容れないものであって、登場人物はかならずいずれかを選択せねばならず、一方を選択したが最後、もう一方は完全に捨てなければならない。結果として、虚構を選んだ場合は現実世界から退場しなければならなくなる。
 もっとも、『レスラー』のミッキー・ロークは現実の生活でもかなり詰んでいるので、あのラストも仕方ないと思えるのだけれど、『キサラギ』のヒロインはまだ若くて別に生活も破綻していなかったようだから(アイドルとしての将来はほぼなかっただろうけれども)、そこも解せない部分ではある。

 一方、『四人の怒れるドルオタ』にあって両者の対立はそれほど深刻ではない。確かに冒頭、登場人物の一人が奥さんに愛想を尽かされ、離婚調停の成立を報告するところがあるのだけれど、別に存在そのものが脅かされるわけではなく、むしろ、これからはさらに積極的にアイドルを応援しようとすらしていたのである。裏切られるのだけれど。
 討議の内容は死刑か無罪かであって、その最中では相当に過激な発言も飛び出すけれども、最後の握手会の雰囲気も終始穏やかで、ラストは全員が和気あいあいと歓談するシーンで終わっている。
 ここにあって、現実と虚構は併存している。これらの『キサラギ』や『レスラー』との相違を、書き手の違いによるものと考えることもできるけれども、2007年の『キサラギ』や2008年の『レスラー』、2017年の『四人の怒れるドルオタ』の間にある10年の差ではないかと個人的には思う。
 微妙にこの10年で現実と虚構の関係はひどく融和的にとらえられるようになったし、なんなら場合に応じて使い分けるぐらいのことになっているといえるのではないだろうか。
 そこをもう少し掘り下げるためには古沢良太の近作、『ミックス。』やその公開にあわせて放送されていた『エイプリルフールズ』を見ておくべきだったのだろうけれど、そこまでは手が回らないのだった。


https://twitter.com/bubblemuramatsu/status/922306699284791296
戦場の意気地無し。何よりまずよりのくんがチェ・ゲバラに似てる。今の日本に絡めて観るお客様も多いのですが、わりと十年くらい前になんも考えずに書いた台本です。三人組が可愛く、大佐と軍曹がかっこよく仕上がって満足。


 意気地なしばかりの国に敵が攻めてきたが、意気地なしばかりの国には当然ながら軍隊もないので、泥縄式に教官を呼んできて訓練してもらおうというお話である。
 この作品の初演は江古田の兎亭だった。鋼鉄村松が新人を補充するにあたって、オーディションってのもなんなので、一緒にお芝居を作りながらお互いに相性なりなんなり判断しましょうという企画の、いってみれば発表公演みたいなものだったと記憶している。
 初演の三人組は応募してきた三人で、こちらもまた存在が初々しくて可愛かった。再演でたしかにゲバラそっくりだった軍曹は、初演では女優さんだったけど、こちらも雰囲気は出ていたと思う。
 初演の大佐はボス村松だったので、ここが最もキャラクターの変わったところだったと思う。最前列の右端で見たので、袋の中に入れられている捕虜の頭頂部がちょうど袋の口からピンポイントで見えてしまい、正体が一瞬で判明したのもいい思い出である。

 このお話の最大の難点は、この三人組に踏みとどまって戦わなければならない理由が見当たらないことだと思う。なんせ歴史的にも千年近く逃げに逃げまくってきた民族の末裔だから、逃げることに特段の抵抗はない。
 一応、状況としては兵士として集められているのだけれど、意気地なしぶりが強調されるあまり、どうしても戦わなけばならない緊迫感はうすいかった。
 ラスト、交戦状態になって教官たちは退避し、国外で戦闘の経過を聞いた軍曹の表情でかなり持っていくのだけれど、これは俳優の力技だと思う。やはり、脚本と演出と演技が混然一体となるのが美しい。

 もっとも、初演は前述の事情にあったので、ふつうに演出してみたいということはあったと思う。

 短編集というのは手間がかかりそうではあるけれど、舞台上ののん気に見える人物が、実はその前の芝居では冷酷無比の殺人犯を演じていたっけということに気づいて、びっくりしたもしたのだった。俳優だから当たり前だといえばそうかもしれないけど、やはり、まったく違う役柄を演じ分けているのを見るのはスリリングだし、おもしろい。
 そのうち、またやってもらいたいと思うのであった。

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