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2017年11月09日14:18

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11月歌舞伎座(夜)幸四郎最後の「一月」

17年11月歌舞伎座(夜/「仮名手本忠臣蔵〜五、六段目」「新口村」「大石最後の一日」)


顔見世月の豪華な配役:吉右衛門、菊五郎、仁左衛門、藤十郎、幸四郎


今月の歌舞伎座は、顔見世月の豪華な配役ということで、昼の部の吉右衛門、菊五郎に続き、夜の部は、仁左衛門、藤十郎、幸四郎。しかも、幸四郎は、最後の幸四郎として、この一月を勤めている。師走を超えて、新年の正月ともなれば、幸四郎という名跡は、十代目として息子の染五郎に譲り渡される。本人は、父親の晩年の名前を受け継ぎ、二代目白鸚を名乗る。染五郎の名前は、息子の金太郎が、八代目として継承する。歌舞伎座の新年1、2月は、高麗屋三代の一世一代、どころか、三世三代同時の大襲名披露興行の展開となる。高麗屋は、1981年、初代白鸚、九代目幸四郎、七代目染五郎と、歌舞伎界で初めてと言われる親子孫三代の同時襲名披露をしていて、今回は、これに続く慶賀である。2018年は、歌舞伎座開場130年目(歌舞伎座は、1889年開場)へ繋がる年でもある。


仁左衛門が演じる勘平の「鬱」


「仮名手本忠臣蔵〜五、六段目」は、上方歌舞伎の味を滲み出す仁左衛門の主演である。仁左衛門の勘平を観るのは、私は2回目。06年10月・歌舞伎座で、「仮名手本忠臣蔵〜五段目、六段目」を同じく仁左衛門で観ている。11年前との違いは、なに?

今年の10月は、国立劇場公演、鶴屋南北原作「霊験亀山鉾」で、仁左衛門は、敵討ちの返り討ちを繰り返す極悪人、藤田水右衛門と小悪党の古手屋八郎兵衛、実は、隠亡の八郎兵衛の二役を演じた。「純粋悪」を抽出するような芝居であった。そして、11月は、歌舞伎座の「仮名手本忠臣蔵〜五段目、六段目」の勘平」を演じ、義父殺しの不安で鬱状態になっている様を見せる。仁左衛門の演じる「鬱」とは、10月の25日間、同じ人物、それも返り討ちを平気で繰り返すような役柄を毎日演じていて、かなりストレスが溜まったのではないか、という私の推測である。11年前の06年10月の前月、つまり、9月の歌舞伎座は、秀山祭だから、吉右衛門の出演月。従って、仁左衛門は歌舞伎座には出ていない。ほかの劇場の出演状況は、今ここでは判らないが、勘平を演じる前の月に多分、今回のような極悪人を演じてはいなかっただろう。だとすれば、仁左衛門の勘平の鬱の演技は、11年前と今回では大きく違うのではないか、とだけ指摘しておこう。極悪人への反動? として、鬱の演技が深まる、ということにならないのか。

仁左衛門は、当代の歌舞伎役者の中でも、特に安定した演技力を持ち、更に、華のある役者である。私の好みでいえば、立役では、順不同ながら、現役では、仁左衛門、吉右衛門、菊五郎、幸四郎あたり、残念ながら近年、亡くなってしまった人では、團十郎、富十郎、勘三郎あたりである。また、女形では、玉三郎、藤十郎(鴈治郎時代を含む)、時蔵あたり、こちらも、残念ながら近年、亡くなってしまった人では、雀右衛門、芝翫あたり。

立役の中でも、仁左衛門は、華があるが、吉右衛門は、情味がある。團十郎は、素顔を拝見したことがあるが、オーラがあった。勘三郎は、滑稽味、温かみがあったなど、それぞれ、持ち味に違いがある。その、華のある立役が、勘平を演じる。仁左衛門歌舞伎である。

早野勘平は、いくつかの実在の赤穂所縁の人物をモデルにして、造型されているという。赤穂浪士の盟約に参加しながら、仕官をすすめる父親との板挟みで、自殺した「萱野三平」。「勘平」という名前は、「横川勘平」から借用した。遊女と心中した「橋本平左衛門」のイメージも、利用した。さらに、内匠頭の近習・磯貝十郎左衛門(昭和初期の新歌舞伎「元禄忠臣蔵」の「大石最後の一日」に出てくる。今月の夜の部では、染五郎が演じる)のイメージも重なる。「仮名手本忠臣蔵」の先行作品の数々で、似たような役どころで登場する人物の、役名を辿れば、「橋本平内」「吉野勘平」「早野勘平」などと知れる。

早野勘平は、「仮名手本忠臣蔵」三段目の「足利館」で登場する。腰元・おかると逢引し、茶屋(いまなら、ラブホテルか)へ。「足利館殿中松の間の場」での刃傷事件を挟んで、「足利館裏門の場」では、足利館の館内から喧噪が聞こえる中、勤務放棄の逢引から急いで戻った勘平(竹本:走り帰って裏御門、砕けよ破(わ)れよと打ち叩き、大音声)は、狼狽えて、「主人一所懸命の場に有り合わさず」「武士は廃ったわやい」と「切腹せんとする」が、おかるに「その狼狽武士には誰がした。皆私が」と諌められ、その場での切腹を思いとどまって来ただけで、おかるの実家に落ち着いてからも、自刃志向を秘めたままで、不安定な精神状態にある。それが勘平の「鬱」の中身である。

そして、「忠臣蔵・勘平編」が、「五段目、六段目」である。斧定九郎(染五郎)という、もう一人の魅力的な傍役を線香花火のごとく効果的に登場させるなど、歌舞伎の美意識を重視した場面展開となる。定九郎が、初代中村仲蔵の工夫魂胆で、今のような黒のイメージを強調した扮装(「五十日」の鬘、斧のぶっちがいの五つ紋の黒小袖の単衣、博多献上の帯、尻端折りに、蝋色黒柄の大小落し差し、全身白塗り)で登場するなら、主役を張り、長丁場を仕切る勘平(仁左衛門)は、「五段目」で、格子柄の着付けに蓑を付けた猟師姿で登場し、「六段目」では、帰宅した後、鮮やかな浅葱色の紋服に着替えるなど、地味、派手の対照の美で、観客を魅了する。勘平の鉄砲で討たれた定九郎が、口に含んだ血袋を噛み切って、口から血を流し、白塗の右足に血を垂らすなら、切腹をした勘平は、「色に耽ったばっかりに、大事の場所にも居り合わさず」(三代目菊五郎の「入れ事」)と言いながら、血の手形を右頬に付ける。仁左衛門は、そういう「江戸型」(五代目菊五郎が完成させた)をベースに、細部(例えば、着替えの段取りなど)では、上方型を織りまぜて、松嶋屋の味を滲み出させている。「私の勘平は大体が十五代目(市村羽左衛門)さんの型ですが、上方の義太夫狂言の雰囲気を出すようにしています」(歌舞伎座筋書より)、と仁左衛門は語る。染五郎の定九郎は、本興行では、今回が、初役。

「仮名手本忠臣蔵〜五段目、六段目」は、また、ミステリー小説のような趣がある。おかる(孝太郎)の父親・与市兵衛(山左衛門)が、定九郎に殺され、懐の五十両の入った縞の財布が盗まれるが、勘平は、雨の降る暗闇の中、猪と間違えて定九郎を撃ち殺し(義父の仇を討ち)、懐の五十両の入った縞の財布を盗む(取り戻す)。その二重性は、舞台を観ている観客には、判るものの、舞台では、前半、表向きの展開で終始し、勘平切腹まで行き、後半、与市兵衛の遺体を改めた千崎弥五郎(彦三郎)が、致命傷は刀傷と判定し、勘平の冤罪が晴れるという仕掛けになっている。こうした展開の中、仁左衛門の勘平は、徐々にではあるが、三段目で、心底に芽生えた「自刃志向=滅びの美学」に絡め取られて、鬱々としながら滅んで行くのである。

こういう主人公の「滅びの美学」を際立たせているのが、実は、18世紀半ばの初演の頃は、まさに、名もない老女であったおかや(上村吉弥)の役廻りなのである。与市兵衛の女房、おかるの母の、この老女は、本文では、名無しであったという。以前は、「お宮」と言ったそうだが、明治以降、「金色夜叉」の「お宮」に遠慮をして、「おかるの母→おかや」という連想で、「おかや」になったらしい。だが、このおかやは、滅びの美学の対極にあり、実に生々しい存在だ。夫・勘平を助けるため、遊廓に売られて行く娘・おかるとの別れを悲しむ。殺されて、遺体となって運ばれて来た夫・与市兵衛の死を歎く。夫が、婿・勘平に殺された可能性が濃くなると、勘平を激しく攻める。義理の息子でも血が繋がっていないからなのか、本当に激しく攻める。日頃から、気に入らない婿だと思っていたのだろう。そのくせ、勘平の冤罪が晴れると、死に行く勘平を後ろから抱きかかえ、勘平の両手を合掌させ、「愁いの思入れ、勘平落ち入る」で、幕まで引っ張るのである。夫と娘と娘婿の4人家族という与市兵衛の家庭は、百姓の家に、百五十石の侍の婿が来たことから、実は、悲劇が始まっている。身分違いを意識して、義理の父母と意志が充分に疎通しない。そういう基盤の上に悲劇が襲いかかる。悲劇の大波で、夫と婿が死に、娘は、身売りされて出て行ってしまい、そして、老母は、一人、取り残されてしまう。もう、若くもない。途方に暮れる暇もなく、皆を見送る。それでいて、おかやの強かな、生々しい情動が、絶えず、勘平の「滅びの美学」を際立たせているというのが、判る。むずかしい役だ。上方歌舞伎の系統の三吉屋・上村吉弥は、本来美形の女形である。その美貌を老け女形に塗り込めて、難しい役をつつがなく演じていたと思う。むずかしい役を無難にこなしていて、脇役の女形として、この人の着実な成長ぶりをうかがわせる。

贅言;「六段目」で、女形陣で重要なのは、おかるではなく、おかるの母であり、与市兵衛の妻であるおかやではないか、というのは私の以前からの持論である。勘平に切腹を決意させるのは、与市兵衛を殺したのは、勘平ではないかと疑い、勘平を激しく攻め立てたおかやのせいである。そういう他人(勘平は、娘婿という他人である)の人生に死という決定的な行為をさせるエネルギーが、おかやの演技から迸らないと、この場面の芝居は成り立たない。「六段目」では、おかやには、勘平に匹敵する芝居が要求されると思う。「お疑いは、晴れましたか」という末期の勘平が言う科白は、おかやに対して言うのである。そう思って、何回もこの場面を見てきたが、今回の仁左衛門は、元家中の同志、千崎弥五郎と不破数右衛門の二人に向かって、「ご両者、お疑いは、晴れましたか」と明確にそう問いかけていたが、ここは、やはり、いちばん疑り深かったおかやに向かって言うべきだろう、と思うが、いかがであろうか。

さて、最後に役者論を付け加えよう。仁左衛門は、叮嚀な勘平であった。科白は、「五十両」の一言しかない染五郎の定九郎も、先人たちが洗練して来た黒の美学をきちんと受け継いで、凄みの効いた味があった。歌舞伎座では、初演という孝太郎のおかるは、父親の仁左衛門と息もピッタリ。仁左衛門との呼吸も充分マッチさせて情愛を滲ませる。二人は、夫婦であって、夫婦ではない。つまり、恋人以上女房以前。初々しい男女の仲。おかるの身を引き取りに来た一文字屋お才を演じた松嶋屋次男の秀太郎(仁左衛門は、松嶋屋三男)。「私はいつも上方の女として、それなりの上方訛りでやらせていただいています。あくまでも京のおかみさんらしい雰囲気で」(歌舞伎座筋書より)、と秀太郎は語る。お才と同行して来た判人(女衒)の源六役の松之助は、いつも通りの熱演で、脇役としての存在感があった。脇には、こういう役者が欠かせない。勘平切腹という悲劇の前の、笑劇(ちゃり)という対比の演出を際立たせていた。


「新口村」の忠兵衛、静止画のような坂田藤十郎


「恋飛脚大和往来 新口村」は、私は8回目の拝見。そのうち、3回は、孝雄時代を含め仁左衛門が、忠兵衛と父親の孫右衛門の早替りという趣向であった。藤十郎の忠兵衛は、今回含めて、3回。ほかに、染五郎、愛之助。梅川は、孝太郎(2)、玉三郎、雀右衛門、時蔵、福助、壱太郎、そして今回は、扇雀。孫右衛門は、仁左衛門(4、内、早替りは3)、歌六(今回含め、2)、我當、橘三郎。

花道には、白い雪布が敷き詰められている。定式幕が開くと、まず、浅葱幕が、舞台を覆っている。振り落としで、「新口村」となる。本舞台中央に、ご両人。梅川忠兵衛の二人。茣蓙で人目と雪を遮って、立っている。背景は、密集した林の枝に雪がみっちりと積もっている。いつもより、山深い地に来たように見える。

この場面、ずうっと雪が降り続いているのを忘れてはいけない。梅川が、「三日なと女房にして、こちの人よと」請願した希望の地、忠兵衛の父親が住む在所である。忠兵衛の知り合いの百姓・忠三郎の家の前。雪の中、一枚の茣蓙で上半身を隠しただけの、男女が立っている。黒御簾からは、どおん、どおんと、大間に太鼓の音が聞こえて来る。雪音だ。天井から雪が降って来る。

ふたりの上半身は見えないが、「比翼」という揃いの黒い衣装の下半身、裾に梅の枝の模様が描かれている(但し、裏地は、梅川は、桃色、忠兵衛は、水色)。衣装が派手なだけに、かえって、寒そうに感じる。やがて、茣蓙が開かれると、梅川(扇雀)と忠兵衛(藤十郎)。絵に描いたような美男美女。二人とも「道行」の定式どおりに、雪の中にもかかわらず、素足だ。足は、冷えきっていて、ちぎれそうなことだろう。茣蓙を二つ折り、また、二つ折りと鷹揚に、二人で、叮嚀に畳み、百姓屋の納屋にしまい込む。梅川の裾の雪を払い、凍えて冷たくなった梅川の手を忠兵衛が息で暖め、己の懐に入れ込んで温める。忠兵衛を直接知らない百姓家の女房(鴈成)に声を掛け、不在の夫・忠三郎を迎えに行ってもらう。家の中に入る二人。

贅言;家の中に入るまで、扇雀の梅川は動きがあるが、藤十郎の演じる忠兵衛は、ほとんど動かない。静止画のような場面が、何度か繰り返される。なぜだろう? 他の役者が演じる忠兵衛でも同じだっただろうか。いや違う、と思う。そういえば、9月の歌舞伎座、「道行 旅路の嫁入」で、藤十郎が戸無瀬を演じた時も、藤十郎は、静止画のように止まっている場面が目につき、動きが鈍かったのではなかったか。

「道行 旅路の嫁入」。幕が開くと、舞台は、全面松林。人影はない。上手に竹本と三味線が4連。暫く、舞台無人で演奏。松林の大道具が、左右に引かれると、舞台中央には富士山。「セリ」に乗って、紫の衣装の道中着をまとった戸無瀬(藤十郎)とピンクの衣装の小浪(壱太郎)が上がってくる。藤十郎は、セリに乗って本舞台に上がってきたのだった。その後の藤十郎の足の運びも、鈍かったのを覚えている。静止画のようなポーズをとる場面が、目に付いた。何か、共通する原因があるのかどうか。

「新口村」。やがて、花道から歌六の孫右衛門登場。逃避行の梅川・忠兵衛は、直接、孫右衛門に声を掛けたくても掛けられない。百姓家の窓から顔を出す二人。ところが、本舞台まで来た孫右衛門は、雪道に転んで下駄の鼻緒が切れる。あわてて飛び出す梅川。見慣れぬ美女が、懇切に世話をするので、息子の封印切り事件を知っている父親は女が息子と逃げている梅川と悟る。忠兵衛の代りに、「嫁の」梅川が父親の面倒を見る。梅川と孫右衛門のやりとりを家の中から障子を開けたり、締めたりしながら、様子を窺うことで、父親を目前にして落ち着かない忠兵衛の心理が浮かび上がる。寺に寄進する予定だった金を「嫁」に逃走資金として渡す義理の父親。

「めんない千鳥」(江戸時代の子供の遊び。目隠しをした「鬼ごっこ」のこと)で、目隠しを使って、梅川は、外に飛び出した忠兵衛と孫右衛門を会わせる。目隠しも梅川が外してあげて、親子の対面。家の裏から逃げよと父親が言う。二人が百姓家の中に改めて入ると、やがて、雪深い林の書割がふたつに割れて、
舞台下手に雪の遠見と街道が透けて見える。いつもなら、百姓家の屋体は、物置ごと舞台上手に引き込まれるが、今回は、こういう趣向だったから、百姓家の周りが雪深い密集した林だったのだと判る。

舞台は次へ、展開。百姓家の横側、竹林越しの御所(ごぜ)街道と雪山の嶺が連なる雪遠見に替わる。黒衣に替わって、白い衣装の雪衣(ゆきご)が、舞台奥からすばやく出て来て、本舞台に残った道具(孫右衛門が使っていた茣蓙と椅子)を片付ける。逃げて行く梅川・忠兵衛は、上手奥から再び姿を現す。子役の遠見を使わず、扇雀と藤十郎のまま。霏々と降る雪。雪音を表す「雪おろし」という太鼓が、どんどんどんどんと、鳴り続ける。さらに、時の鐘も加わる。憂い三重。竹林の向こうを通って、舞台上手から下手へ進んだ後、下手から上手へスロープを上がってさらに奥へ行く二人。白黒、モノトーンの世界に雪が降り続く。孫右衛門がよろけると、木の上に積もっていた雪が落ちる。孫右衛門も、鼻緒の切れた下駄を梅川に紙縒りで応急措置をしてもらったが、結局履かずに素足のまま。逃げる方も逃がす方も、素足で我慢。

藤十郎は、梅川も忠兵衛も演じて来た。今回は、息子の扇雀の梅川と初共演。扇雀も、「新口村」の梅川は、初役だという。歌六の孫右衛門役は、2回目。上演時間は、1時間あまり。


「大石最後の一日」、幸四郎最後の「一月」


「大石最後の一日」は、生真面目な科白劇。ほとんど男ばかりのドラマである。私は今回で、7回目の拝見。私が観た大石内蔵助は、今回含めて、幸四郎で5回、吉右衛門で2回観ている。磯貝十郎左衛門は、信二郎時代も含めて錦之助(3)。染五郎(今回含め、3)。歌昇時代の又五郎。相手役のおみのは、孝太郎(2)、芝雀時代の雀右衛門(2)、時蔵、福助、そして今回は、児太郎(病気休演中の福助の長男)。芝居は、真山青果の緻密な科白劇。

暗転で開幕。緞帳が上がると「芝高輪細川家中屋敷下の間」。新歌舞伎らしく緞帳の下げ、上げで、場面展開。「同 詰番詰所」。暗転、明転で、「同 大書院」「同 元の詰番詰所」という構成。

吉良邸への討ち入りから、一月半ほど経った、元禄十六年二月四日。江戸の細川家には、大石内蔵助ら17人が、預けられ、幕府の沙汰を待つ日々を過ごしている。身の処し方は、公義に預けているので、執行猶予の、モラトリアムな時間を過ごしている。下の間と廊下の境となる障子に人の影が映っている。廊下をうろついている。やがて、障子を開けて、下の間に入って来る。幸四郎の大石内蔵助。

浪士たちが着ている鼠色の無地の着物と帯は、恰も、「囚人服」のような味気なさ。ほかの浪士たちが、綺麗に月代を剃っているのに、大石内蔵助(幸四郎)だけは、「伸びた月代」である。皆のことに気を配り、世間に気を配り、幕府に気を配るリーダーの真情と苦労が、あの「伸びた月代」だけでも、うかがい知れる。幕府の上使・荒木十左衛門(仁左衛門)から切腹の沙汰が下るという告知を受けるとともに、さらに、浅野内匠頭切腹の際には、お咎め無しだった吉良上野介側も、息子の流刑とお家断絶の情報も、役目を離れて、上使からもたらされる。大石内蔵助は、「ご一同様、長い月日でござりましたなー」と同志たちへ。また、上使の荒木十左衛門には、「日本晴れの心地(ここち)でござりまする」と、思い入れたっぷりの科白をきっぱりと言う。

この芝居は、どういう人生を送って来ようと、誰にでも、必ず訪れる「人生最後の一日」の過ごし方、という普遍的なテーマが隠されているように思う。例えば、癌を宣言され、残された時間をどう使うか。あす、自殺しようと決心した人は、最後の一日をどう過ごすのか。つまり、人間は、どういう人生を送り、どういう最後の日を迎えるか。原作者の真山青果は、それを「初一念」という言葉で表わす。それは、大石内蔵助の最後の日であるとともに、ほかの浪士たちにとっても、最後の日である。さらに、芝居は、死に行く若い浪士、磯貝十郎左衛門(染五郎)とおみの(児太郎)の恋の「総括」を絡めて描いて行く。

その一日を、最後の一日と思わずに、恋しい未来の夫の真情をはかりたいと若い女が、小姓姿で、細川家に忍んで来る。吉良邸内偵中の磯貝十郎左衛門と知り合い、婚約したおみのである。おみのは、その一徹な気性から細川家を浪人した乙女田杢之進のひとり娘であった。結納の当日、姿を消した十郎左衛門にとって、自分との婚約は、内偵中の、「大志」のために利用した策略だったのか、それとも、ひとりの女性への真情だったのか。思い迷う娘は、男心を確かめたくなったのである。大石内蔵助は、男の心を確かめようとする、そういう女心を嫌い、また、若い十郎左衛門に心の迷いを起こさせないようにと、おみのを十郎左衛門に逢わせることを、一度は、拒絶する。小姓が若衆ではなく、女だと内蔵助に見抜かれた後、一瞬にして、歌舞伎の女形の演じる「女」に変貌する場面が、見応えがある、と思う。

「偽りを誠に返す」というおみのの言葉に感じ入った大石内蔵助の計らいで、「夫」・磯貝十郎左衛門との対面を果たし、男の真情を察知した「妻」・おみのは、お沙汰が下り、切腹の場へ出向く「夫」に先立ち、自害して果てる。女の心情が哀しい。

これは一種の殉死であろう。男女の相対死は、やはり、ともに死ななければならない。おみのと十郎左衛門の死は、十郎左衛門の死に殉ずるおみのの「殉死」という解釈が、正しいだろう。つまり、青果は、大石内蔵助らが、侍の心で、殉死したと考えたように、それへの伏線として、おみのの十郎左衛門への「殉死」を印象づけることで、大義の忠臣たちの「殉死」を際立たせたのではないか。「仮名手本忠臣蔵」に、おかる勘平のものがたりがあるように、「元禄忠臣蔵」には、おみの十郎左衛門のものがたりがある。「大石最後の一日」は、1934(昭和9)年2月に歌舞伎座で初演されている。戦時色に染まっていない訳がない。

やがて、大石内蔵助たちは、自害の場となる細川家の庭に設えられた「仮屋」へと花道を歩んで行く。薄暗い花道横は、黄泉の国への回路であった。

贅言;ところで、冒頭触れたことを再述しておきたい。今回の幸四郎の大石内蔵助役は、九代目幸四郎という名前で演じる最後である。11月25日(土)、夜の部の最終演目「大石最後の一日」は、「幸四郎最後の一日」でもある。2018年1月から、幸四郎という名跡は、十代目として染五郎に代わる。当代の幸四郎は、二代目白鸚となる。一行の最後に、大石内蔵助を演じる九代目幸四郎は万感を込めて花道をゆっくりと歩いて行くことだろう。
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