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2017年08月26日07:32

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永田鉄山が生きていれば

一夕会のメンバーの中では、永田鉄山が突出して抜群に優秀だったと言います。陸士で首席、陸大でも52人中2番で恩賜の軍刀を貰っています。同期の小畑敏次郎も秀才で、特に作戦面での発想が豊かな人だと言います。この2人は、最初はうまくやっていたのですが、満州事変の翌年から合わなくなり、陸軍のこれからの方針について2人の意見は真っ向から食い違うようになります。小畑敏次郎はソ連脅威論を、永田鉄山は中国一撃論を主張して、とうとうエリート将校らは永田派と小畑派に分かれていがみ合うようになるのです。

永田鉄山グループは、荒木貞夫や真崎甚三郎に見切りをつけていました。政治力がなく偏った人事、それに青年将校たちの過激な動きを煽るような言動に批判的でした。「青年将校たちも含め、軍人は組織の統制に服すべし」ということで、統制派を形成していきます。一方の小畑グループは荒木、真崎ラインに留まり、荒木貞夫はことあるたびに「皇道」なるものを説き、精神主義を強調する皇道派となるのです。

荒木貞夫が陸相を辞任し、永田鉄山が軍務局長になった直後の陸軍省内は、柳川平助、山岡重厚、山下奉文など皇道派ばかりです。そんな状況で永田鉄山は教育総監の真崎甚三郎を更迭したのを皮切りに、小畑派=皇道派メンバーの一掃を図りますので、皇道派から憎まれるのも当然です。とうとう皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省内で斬殺されるわけですが、相沢三郎が永田鉄山を殺したあと、下の階に下りた山下奉文がいて、上官を殺害した相沢三郎に包帯を巻いてやったというので派閥抗争の激しさが伺えます。

もし永田鉄山が生きていたら、昭和史の流れが変わっていた可能性があります。純粋培養で社会的経験にとぼしい他の軍人たちと違って、視野が抜群に広かったと思うのです。たとえば盧溝橋事件の時点で生きていたら、石原莞爾とともに、武藤章や田中新一を抑えて、戦火の拡大を防ぐ事が出来たでしょう。永田鉄山は石原莞爾より上官にも人望がありましたから、少なくともあれほど下克上が陸軍組織内にはびこることはなかったはずです。

企画院総裁だった鈴木貞一が戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と話したのを直接、作家である半藤氏は聞いています。硫黄島の栗林忠道も同じことを言っています。彼は同じ長野出身で永田鉄山に仲が良かったと言います。ただ、いくら永田鉄山が優秀だったとしても、どれだけ歴史を変えることができたのかはifの想像範囲です。彼自身も次の戦争にそなえ、総力戦体制を作ろうと陸軍内部の人事刷新を行っていたわけですから。1人の人間の力によってあの戦争が回避するのはとても困難なことだと思うのです。だが、鈴木貞一は「永田鉄山が生きていれば東条英機が出てくることもなかっただろう」と言っています。
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