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2017年04月08日18:48

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4月歌舞伎座・昼「初役に挑む(1)」

17年4月歌舞伎座(昼/「醍醐の花見」「伊勢音頭恋寝刃」「一谷嫰軍記」)


初役に挑む(1)「『伊勢音頭恋寝刃』〜染五郎と猿之助」


今月の歌舞伎座は、昼夜で共通するものがある。それは、中堅の役者たちが初役に挑むということだ。まず、昼の部では、初役に挑む(1)として、「『伊勢音頭恋寝刃』〜染五郎と猿之助」というタイトルをつけてみた。「油屋」「奥庭」の場面で、染五郎と猿之助が、それぞれ初役の福岡貢と油屋の仲居・万野を演じるからだ。今回の劇評では、「醍醐の花見」を後回しにして、「伊勢音頭恋寝刃」から書き始めたい。

「伊勢音頭恋寝刃」。「寝刃」とは、切れ味の鈍くなった刀の刃を研ぐ、という意味から転じて、こっそりと悪事を企む、という意味がある。原作者は、並木五瓶が江戸に下った後、京大坂で活躍した上方歌舞伎の作者近松徳三ほか。上方歌舞伎の世話物狂言。近松徳三という人は、筆名から見て、近松門左衛門の門下と思われるが、詳しい人物像は判らない。「伊勢音頭恋寝刃」は、実際に伊勢の古市(ふるいち)遊廓で起きた地元の医師による殺人事件を題材にしている。

1796(寛政8)年5月、伊勢国(現在の三重県東部)古市の遊廓「油屋」で、地元の医師が事件を引き起こした。医師の相手をしていた遊女がほかの座敷に移動したのを怒り、医師は遊廓にいた9人を殺したという。事件の2日後、本人も自害した。そういう事件である。この狂言を書いた作者は、3日間で書き上げたと伝えられている。事件後、およそ2ヶ月、急ごしらえで作り上げられ、歌舞伎として同年7月、大坂・藤川八蔵座(角の芝居)で初演された。ばたばたと上演された歌舞伎だけに、戯曲としてはいろいろ無理がある。まさに江戸時代のテレビのワイドショー的な演出である。

物語の基本は、お家騒動。阿波国家老職・今田家の家宝の「青江下坂(あおえしもさか)」という名刀がお家への謀叛を企てる蜂須賀大学一味の陰謀に引っかかった今田家の嫡男・今田万次郎(秀太郎)の手を経て質入れされてしまう。さらに同じ一味の計略で、刀の「折紙(鑑定書)」も、偽物にすり替えられてしまう。家宝は、刀と折紙がセットになって初めて価値を生む。

伊勢の御師(通常「おし」、または、「おんし」。特定の寺社に所属して、その寺社へ参詣客を案内したり、宿泊の世話をしたり、祈祷をしたりする者。伊勢神宮の場合は、「おんし」と呼んだ。御師たちは寺社近くの街道沿いに集住し、御師町を形成した)である福岡孫太夫の養子・貢(みつぎ。染五郎)は、実家が今田家の家来筋という縁で刀と折紙の探索を引き受ける。

今回の歌舞伎座では珍しく序幕が上演された。序幕「野道追駆けの場」、同「野道地蔵前の場」、同「伊勢二見ケ浦の場」。この場面は、歌舞伎座としては、22年ぶりの上演だが(ほかの劇場では上演)、私は、1年半ほど前、15年10月国立劇場で、通し狂言「伊勢音頭恋寝刃」の一部として観ている。国立劇場の場の構成は、以下の通り。

序幕第一場「伊勢街道相の山の場」、第二場「妙見町宿屋の場」、第三場「野道追駆けの場」、第四場「野原地蔵前の場」、第五場「二見ケ浦の場」、二幕目「御師福岡孫太夫内太々講(だいだいこう)の場」、大詰第一場「古市油屋店先の場」、第二場「同 奥庭の場」。つまり、通常「みどり」で上演されるのは、「大詰」だけということがわかる。貢は、梅玉が演じ、万野は、魁春が演じた。兄弟の出演である。

さて、今回は、序幕「追駆け」、「地蔵前」、「二見ケ浦」。二幕目「古市油屋店先の場」、「同 奥庭の場」という構成である。序幕では、スピーディな場面展開で、十人殺しの殺人鬼の発生までの背景を描いて行く。二幕目は、残虐な連続殺人ということで、悲劇の前の喜劇という演出の常套手段の場面となる。

序幕「野道追駆けの場」。お家乗っ取りを企てる蜂須賀大学の一派の杉山大蔵(橘三郎)、桑原丈四郎(橘太郎)のふたりは、古市の遊郭「油屋」に滞在している徳島岩次に大学からの密書を届けるらしい。それを窺い知った今田万次郎派の奴・林平(隼人)が密書を奪おうとふたりを花道へ追いかける。背景の書割が引き上げられて場面展開。「野原地蔵前の場」が現れる。逃げるふたりは下手から姿を見せるが、上手は行き止まり。必死で逃げる杉山大蔵は、逃げ場に窮して、舞台下手の釣瓶井戸の中に潜り込む。桑原丈四郎も、野原の地蔵の笠を奪って自分で被り、地蔵を移動させ、代わりに自分が立ち尽くして、追いかけてきた林平をやり過ごそうとするが、見つかってしまい、さらに逃亡劇は続く。浅葱幕の振り被せで場面展開。幕の振り落としで、「伊勢二見ケ浦の場」。伊勢の名所、夫婦岩で知られる二見ケ浦。杉山大蔵、桑原丈四郎に追いついた林平は、貢、万次郎ともここで合流。密書を奪い取る場面が歌舞伎独特の演出の「だんまり」(暗闘の沈黙劇)で描かれる。千切れた密書もひとつになったが、夜明け前の暗闇では字が読めない。手元に明りもない。やがて、注連縄で結ばれた夫婦岩の向こう二見ケ浦に大きな朝日が昇る。夜明けの光で、貢は密書を読むことが出来た。というだけの、笑劇の仕立ての逃亡劇。

二幕目「古市油屋店先の場」。古市の遊廓「油屋」を訪れた福岡貢(染五郎)が、徳島岩次(由次郎)一味と気脈を通じた仲居の万野(猿之助)の嫌がらせを受ける。岩次が隠し持っている「折紙(鑑定書)」を取り上げるために、嘘の縁切り場面を演じる貢の恋人・お紺(梅枝)との絡みなどを経て、油屋の料理人・喜助(松也。元は貢の家来筋の侍出身)がすり替えてくれた家宝の「名刀」が、いつの間にか、人殺しの「妖刀」になっている、という荒唐無稽さ。狂気の果てに十人殺し(万野殺しからスタートする)へなだれ込んで行く貢の姿を描く。

「同 奥庭の場」。上手の座敷と下手の離れを繋ぎ、奥庭を大きく跨ぐ渡り廊下。そこで伊勢音頭を踊る20人の女たち(いつもより、多いのでは?)。惨劇の中の華やかな場面。上手の丸い障子を蹴破って、狂気の殺人鬼と化した貢(染五郎)が斬りつけた本来無関係の遊廓の客たちを追って登場する。殺しの場面は、渡り廊下、階段を下りて庭へ、本舞台から花道へ、と執拗に続く。上手から逃げてきた寝間着姿のお紺(梅枝)に突き当たり、水を飲み、正気に返る貢。人殺しの刀が、家宝の「青江下坂」だと駆けつけた喜助(松也)に教えられる。虚偽の愛想尽かしをしていたと明かすお紺が徳島岩次から騙し取った「折紙」も貢の手に入った。ふたつ揃ったので、主筋の若君・今田万次郎に届けに行かなければならない、と考える冷静さを取り戻した貢は、お咎めもなく、主家の若君の下へと花道を急ぎ行く、ということで、幕。

役者論を少し。今回、福岡貢を初役で演じた染五郎は、仁左衛門の指導を受けたという。この芝居は、上方歌舞伎の典型的な人物造型が、実は、見どころなのだ。それを象徴的に言おうとすれば、「つっころばし」と「ぴんとこな」ということになる。今回の芝居に登場する「つっころばし」は、今田家の嫡男・今田万次郎である。女形の秀太郎が演じた。一方、「ぴんとこな」は、伊勢の御師・福岡貢である。今回、染五郎が演じた。

「つっころばし」と「ぴんとこな」は、いずれも上方味の和事の立役の人物造型。「つっころばし」は、「ちょっと肩などを突つくと転んでしまいそうな、柔弱な容姿からついた名称。立ち姿、歩き方、科白廻しなどにも男ながら女形のような色気が要求される。痴呆的なほど、遊女との恋にぼうっとはまり込んでいるような、いかにも生活力とは無縁なような、年若い優男。濡事(官能的な演技)師、女たらし、と言えば判り易いか。今回、女形の秀太郎が演じたのが今田万次郎。このほかでは、「野崎村」の久松、「夏祭浪花鑑」の磯之丞、「双蝶々曲輪日記」の与五郎などが、「上方」和事の典型的な「つっころばし」となる。

これに対して、染五郎が初役で演じた「ぴんとこな」は、同じ濡事師、女たらしの要素を残しながら、一種の強さを持っている。「ぴんとこな」の「ぴん」は、「ひんとする(きっとなる)」ではないか、という説がある。元禄期には、「手強さのある若女形」が、「ひんとこな」と呼ばれたことがあるというが、次第に、立役の和事系統の人物類型として定着してきた、という。柔らかな色気を滲ませながら、「つっころばし」のような女方っぽい色気にならずに、立役的な手強さを感じさせなければならない、という。優男とは違う二枚目、ということだろう。役づくりは、「江戸」和事の中で洗練されてきた。「伊勢音頭恋寝刃」の福岡貢のほかには、「心中天の網島」の治兵衛などが、「ぴんとこな」である。

私が観た歌舞伎の「伊勢音頭恋寝刃」は、今回で9回目。私が観た福岡貢は、仁左衛門(3)、團十郎(2)、三津五郎、勘九郎時代の勘三郎、梅玉、そして、今回が染五郎。颯爽とした二枚目ぶりを強調した仁左衛門の貢が印象に残る。特に、染五郎の科白回しは、仁左衛門に及ばない。

もうひとり、猿之助が初役で演じた仲居の万野。猿之助は、「生の舞台に触れたことはない」という。今回は、秀太郎に指導を受けたという。

初役のふたりとも、まだまだ、線が細い。染五郎も来年1月には、十代目幸四郎を襲名する。猿之助も澤瀉屋一門のリーダーとして四代目猿之助の名前をすでに襲名している。歌舞伎界の中堅どころとして、将来を背負っていかなければならない役者だ。玉三郎、魁春、福助、勘三郎、芝翫、菊五郎など私が観た万野役者と見比べると、まだまだ、という感じがする。ふたりの中堅役者の今後の精進を期待したい。


九代目幸四郎名では最後の直実


私が、歌舞伎を本格的に見始めたのは、94年4月歌舞伎座であった。「白鸚十三回忌追善興行」の舞台を観たのが、いまのように歌舞伎を観始める最初だったのだ。この時の演目は、「熊谷陣屋」、新作歌舞伎の「井伊大老」、「鈴ヶ森」であった。その時の配役は、次の通り。

熊谷直実:幸四郎、相模:故・四代目雀右衛門(先代)、藤の方:松江時代の魁春、源義経:故・梅幸、弥陀六:故・二代目又五郎(先代)、堤軍次:染五郎、梶原景高:故・芦燕ほか。


歌舞伎の「熊谷陣屋」は、それ以来、今回で21回目の拝見となる。私が観た熊谷直実は、今回を含め圧倒的に多いのが幸四郎で(10)。吉右衛門(4)、仁左衛門(2)、八十助時代の三津五郎、團十郎、松緑(仁左衛門代役で、急遽、初役で演じた)、海老蔵、橋之助改め芝翫。幸四郎は、来年1月歌舞伎座で、二代目白鸚を襲名する予定なので、九代目幸四郎として直実を演じるのは、今回が最後になるだろう。十代目幸四郎は、染五郎が襲名することになる。

幸四郎の今回の決め科白の、科白廻し。「十六年は、一昔。夢だあ。ああ〜、夢だああ〜〜〜」と語尾を伸ばせるだけ伸ばして、歌い上げていた。いつも通りだが、感慨深げで、初日から、目には涙を浮かべていた。胸中にはいろいろな思いが駆け巡ったことだろう。感謝。

しかしながら、これまで観た最高の「熊谷陣屋」は、13年4月歌舞伎座。歌舞伎座杮葺落興行の舞台。残念ながら、最高の直実を演じたという印象を私が持っているのは、幸四郎ではない。弟の吉右衛門。吉右衛門の直実は、肩の力を抜いて、役者吉右衛門の存在そのものが自然に直実を作って行く。時代物の歌舞伎の演じ方という教科書のような演技ぶりだった。


「醍醐の花見」。大正歌舞伎。1921(大正10)年5月初演。歌舞伎で上演するのは、今回が初めて。新しい脚本による新演出。1598(慶長3)年の京都・醍醐寺で催された秀吉主催の花見という史実を歌舞伎化した。

醍醐寺三宝院の庭。桜が満開。秀吉の正室・北の政所(扇雀)、淀殿(壱太郎)、淀君にライバル心を燃やす松の丸殿(笑也)三條殿(尾上右近)などの側室たちが醍醐寺門跡の義演(門之助)の歓待を受けている。この場面は、淀殿と松の丸殿の嫉妬心から来る鞘当てが見どころ。北の政所の盃を受ける順番をめぐって争いとなったところをとりなしたのが前田利家の正室のまつ(笑三郎)であった。

花道より秀吉(鴈治郎)一行。大野治長(歌昇)、治房(種之助)の兄弟、御伽衆の曽呂利新左衛門(萬太郎)らが同行してくる。秀吉も花見の席に落ち着く。暫く花見の宴。

祈祷が始まるというので、秀吉を残して、皆、上手奥へ。暫くすると、石田三成を待つ秀吉の周りに妖気が漂い始める。舞台暗転。上手奥に秀吉に切腹を命じられて自害した秀次(松也)の霊が現れて、秀吉を苦しめる。そこへ、三成(右團次)が花道から駆けつけ、さらに上手から義演も駆けつけ、秀次の霊を退散させる。
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