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2017年01月18日10:10

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1月新橋演舞場・右團次襲名披露(夜/「口上」「錣引」ほか)

17年1月新橋演舞場(夜/「義賢最期」「口上」「錣引」「黒塚」)


海老蔵の「義賢最期」


「義賢(よしかた)最期」は、6回目。仁左衛門の義賢が絶品の演目だが、体力がいる。仁左衛門流を継承しているのが愛之助(5回主演)。海老蔵の義賢を観るの私は今回が初見。海老蔵の主演は、今回で2回目。

義賢(海老蔵)は、松王丸風の五十日鬘に紫の鉢巻きを左に垂らし、という病身の体(てい)で館に引きこもっている。折平が戻ったと聞いて、奥から登場する。右手に持った刀を杖のように使っている。これも松王丸に似ている。

夜の部のこの狂言は、右團次の襲名披露を寿ぐだろうが、襲名披露の演目ではない。市川宗家・團十郎一族の当面の当主としての海老蔵の演目である。

主な配役は、義賢が海老蔵。下部折平、実は、多田蔵人が中車。矢走兵内が猿弥。小万が笑三郎。九郎助が市蔵。葵御前が右之助。待宵姫が米吉。

義賢は、平清盛に敗れ、逃避行中に家臣に裏切られて亡くなった源義朝の弟。病のため、「寺子屋」の松王丸そっくりの衣装、紫の鉢巻姿で出て来る。下部(奴)の折平、実は多田蔵人は、小万の夫、行方不明だったが、こんなところに下部として忍んでいた。それに待宵姫と恋仲。下部の時は、下手に控えているが、正体を明かすと、義賢とも居処替りをする。百姓九郎助、九郎助の娘・小万、義賢の後妻、御台所・葵御前、義賢妹・待宵姫。ほかに平家方の矢走兵内と進野次郎など。

二重舞台の上手に羽のような形をした手の付いた木製の植木鉢に小松が植え込んである。さらに、その手前の平舞台にある手水鉢の、左上の角に斜めに線が入っている。これは、何かあると、思っていたら、折平(中車)が登場する場面で、義賢が折平の正体を多田蔵人行綱と見破った上で、先ほどの植木鉢の手を利用して小松を引き抜き、庭の手水鉢に松の根っこを打ち付けると、手水鉢の角が欠け落ちる。これが水の陰、木の陽ということで、源氏への思いの証となり、折平が義賢に心を開くきっかけとなるという仕組みだ。繰り返す様式。こういう荒唐無稽さが歌舞伎の古怪な味である。

並木宗輔ほか原作「源平布引滝」は全五段の時代もの。「源平布引滝」のうち、今も歌舞伎や人形浄瑠璃で上演されるのは、二段目切の「義賢最期」と三段目切の「実盛物語」。加えて稀に、人形浄瑠璃では、三段目の「御座船」(「竹生島遊覧の段」)が上演される。

平家に降伏した義賢だが、本心は源氏再興への熱い思いがあり、平清盛から奪い返した源氏の白旗を隠し持っている。これが折平の妻・小万(笑三郎)に託されることになる。旗を巡るせめぎ合いが長い物語の一つの筋で、それゆえに、外題の「布引」は、布=旗の引き合いのことで、実際の地名の布引滝に引っかけているのだろう。

ここへ、清盛の上使が、白旗の詮議に来る。義賢の兄、義朝の髑髏を足蹴にしろと迫る。ところが、本心を隠し仰せなくなった義賢は、髑髏を足蹴にできない。逆に、上使のひとり長田太郎の頭を髑髏で叩いて、殺してしまう。しかし、もうひとりの高橋判官を取り逃がしたため、もはやこれまでと義賢は、鉢巻きを投げ捨てるように取り去り、やがて攻めてくる平家に備えるが、それでも鎧を着けずに巣襖大紋のまま、という美学の持ち主である。自分の命と引き替えに、葵御前(右之助)と生まれ来る子供(後の義仲)や白旗を託した小万たちを落ち延びさせようとする。

迫り来る平家の軍勢の描き方がおもしろい。まず、花道向こう奥の鳥屋で、遠寄(攻め太鼓)が鳴る。やがて、下座でも遠寄ということで、音が、義賢館に近づいてくる。これを、後の場面で、もう一度繰り返す。その上で、平家方の大将・進野次郎(新十郎)が軍勢を引き連れて花道から出てくる。

小万の父親・九郎助(市蔵)は、孫を背中合わせになるように背負い、二人も軍勢とやり合う。子役も背負まれたまま、節目では見得をするからおもしろい。そういうくすぐりがあってから、いよいよクライマックスに入る。

兎に角、この芝居は、まさに義賢の殺され方を見せるのが、最大の見せ場だ。屋体奥の襖(板戸)がすべて倒れ、義賢が平家の軍勢とともに躍り出てくる。奥は、いわゆる千畳敷だ。


殺され方の美学とは?


「江戸の荒事、上方の和事」というが、上方歌舞伎の「義賢最期」の荒々しさは、江戸の稚気溢れる「荒事」の比ではない。ふたつの荒々しい場面が印象的だった。そもそも木曽先生(きそのせんじょう)義賢は、後白河法皇から賜った源氏のシンボル「白旗」を守るために、大勢の平家の軍勢に対して、鎧も付けずに礼服の素襖大紋姿(水色)という、いわばシルクハットにモーニング姿のようなスタイルで、戦闘服の連中と大立ち回りをするのだから、凄い。その上で、大技の立ち回りがある。

1)「戸板倒し」(あるいは、「戸襖倒し」)という立ち回りが組み込まれている。これは、金地に松の巨木が描かれていた3枚の戸板を「門構え」のように大部屋立役たち(敵方の平家の軍兵)が組み、その天辺の戸板に乗せた義賢を持ち上げる。義賢は、カタカナの「コ」の字を横にしたような戸板の上で更に立ち上がり〈天辺の戸板は、役者の重みで撓っている〉見得をする。義賢が立ったままの状態で、最後、ひとり残った平家の軍兵がゆっくりと戸板を横に押し出すように3枚の戸板を倒すのである。義賢は、横に移動しながら、下に落ちるエレベーターに乗っているような感じだろうが、本舞台の上でそういう体の移動をするというのは、客席から見ると5〜6メートル近い高さ(屋根より高い)に役者の視線はあるということになる。

2)さらに、壮絶な所作は、義賢最期で絶命するわけだが、瀕死の義賢が両手を大きく開いて「蝙蝠の見得」を見せた後、そのままの格好で、前に真っ直ぐ倒れ込み、「三段」(階段)に頭から突っ込むように落ち込んで行く「仏(ほとけ)倒し(仏像が、立ったまま倒れるように見える)」(あるいは、「仏倒(ぶったお)れ」)という大技を見せる。その上で、階段の傾斜を利用して体ごと滑り落ちて行く。

合戦らしく矢が無数に飛び、そのうちの何本かは柱などに刺さる。義賢も瀕死の重傷だ。白旗も奪われたり、奪い返したり。後ろから敵方の進野次郎に抱え込まれた義賢は、己と後ろにいる進野次郎ごと刀で刺し貫くという凄い技を使う。

二重舞台に倒れ込んだ後、最後の力を振り絞って、手足をだらりと下げて、瀕死の人形の体で、立ち上がる義賢。さらに、素襖の大紋の裾を大きく左右に拡げたまま、高二重の屋体から平舞台めがけて、階段に倒れ込むから、これも迫力がある。顔をぶつけないように、腹から当たって行くように見えた。その上で、階段の傾斜を利用して体が滑り落ちて、息が絶える。

殺され方の美学に徹している舞台だ。いずれにしても良く怪我をしないものだと毎回思うが、三段にスプリングのような仕かけがほどこされているらしい、という説があるようだが、私には不明。倒れ方にもコツがあるのは確かだろう、と思う。

「歌舞伎の芯の役が、体を使った立ち廻りをするのは珍しい。仕掛けも、コツもなく、捕り手の皆さんを信じて動くだけ『仏倒し』を叔父仁左衛門は、『背伸びをして足の爪先をつっと滑らす』と教えてくださいましたが、長袴を穿いていて足先が見えないから、なかなかうまくできません」(愛之助の話)。

この見せ場は、実は、歌舞伎名作全集の台帳(台本)には、殆ど書かれていない。つまり、上演を重ねる中、役者の芸の工夫で生まれて来た演出なのだろう。いつものように、殺され方の美学絵を中心に論じたが、待宵姫の米吉も、ふっくらとしていて、可憐で良かった。


襲名披露の華「口上」は、梅玉が取り仕切る。高砂屋の梅玉のみ髷も裃の色も違う。ほかは、皆、市川宗家と同じ、鉞(まさかり)という独特の髷と茶色の裃。以下、主な発言内容。

梅玉:「(三代目右近と言い間違えた後、)三代目右團次さんは、口跡が明快で、キレがある。花もある役者だ」と持ち上げる。
この後は、梅玉の上手へ順に。
猿之助:「大名跡の右團次襲名は、澤瀉屋一門の誉。猿翁にとっても何よりも喜ばしい。二代目右近は、6歳で襲名。昼の部の「雙生隅田川」では、史上最年少の早替りも見せた。昼の部も見て欲しい。行く末長く、お見捨てなく」。
男女蔵:「襲名おめでとうございます。左團次も列座のところ、歌舞伎座出演と重なり欠席となりました。芸の上では親戚筋の関係になる。父にとっても私にとっても、右團次は懐かしい名前です。喜んでいます」。
右之助。右團次の家系。「81年ぶりの復活でありがたい。活躍をしてほしい」。
上手最右翼が、海老蔵:「おめでとうございます。右近として、最後の舞台を博多座でご一緒した。一緒に夜の方も楽しんだ。週刊誌の取材に怯えながら。本名が右近で、息子の役者名が右近。家ではなんて呼ぶのか(笑)。何はともあれ、お祝い申し上げます」。
下手最左翼へ。門之助:「右近さんとは、澤瀉屋の勉強会、踊り、鳴り物、軽井沢の合宿など、いつもご一緒で、同級生のような間柄。一年中で一緒にいない方が珍しかった。
上手へ順に。
中車:「41年間、父(猿翁)を支えてくれた。襲名は嬉しく、喜ばしく、父も喜んでいる。父に代わって、ただただ、感謝を申し上げたい。千秋楽まで、華やかにやって行きたい」。
二代目右近、三代目右團次と並んでいるが、口上は父親の右團次が先。
右團次:「松竹、市川宗家、右之助さんのご理解で、81年ぶりの復活、右近の初舞台も嬉しい」。
最後に、
二代目右近:「この度、右近を二代目として襲名する運びと相成りましてござりまする。よろしくお願い申し上げ、奉りまする」と、父親に教わった通りの難しい言葉が続く口上をきちんと、大きな声で、堂々と言っていた。


荒事の様式美


「錣引(しころびき)摂州摩耶山の場」は、2回目。1861(文久元)年、江戸の市村座で初演。平家物語の屋島の合戦の際、平景清と源氏方の美尾谷十郎の一騎打ちで、景清が美尾谷十郎の兜の「錣」(戦闘で、武士の頭を守る「鉢」の下に垂らす部分のこと。後頭部や首廻りを守る)を引きちぎったという伝説を素材に河竹黙阿弥が原作を書いた。

歌舞伎や人形浄瑠璃の登場人物としては、美尾谷十郎は、美尾谷四郎となる。初演時の配役は、河原崎権十郎、後の九代目團十郎が、景清を演じ、相手の美尾谷四郎は、四代目芝翫が演じた。九代目團十郎は、当り役とした。後に七代目幸四郎も、景清を演じた。

今回の主な配役は、順礼七兵衛、実は、上総悪七兵衛景清は右團次。虚無僧次郎蔵、実は、三保谷四郎国俊は梅玉。三位中将は友右衛門。伏屋姫は米吉。木鼠次段太は九團次。平経盛は寿猿。天上寺住持は家橘。

源平合戦の時代。幕が開くと、舞台下手に「摂州摩耶山」と書かれた立ち杭がある。摂州摩耶山天上寺(まやさんてんじょうじ)の観音堂に平家方の上総五郎兵衛忠光の妹・伏屋姫(米吉)一行が、重宝の八声(やこえ)の名鏡(めいきょう)を携えて参詣に来た。朱塗りのお堂だ。源平合戦の勝利、幼い安徳帝の病気平癒などを祈願するためだ。源氏方の岩永左衛門の郎党木鼠次段太(九團次)は、脅して仲間に引き込んだ僧とともに、名鏡を盗もうと観音堂に隠れていた。お堂の壁を破って出てきた次段太は、伏屋姫と争ううちに盗んだ名鏡を谷底に落としてしまう。次段太、伏屋姫とも、鏡を求めて谷底に下りて行く。

大せりで、観音堂の大道具が上がると、平舞台は谷底に替わる。谷底では、乞食に身をやつした順礼七兵衛(右團次)がいる。七兵衛の足元には焚火がある。花道から虚無僧次郎蔵(梅玉)が現れる。ふたりは、雁金の飛び立つ様子を眺める。偶然一緒になったふたりは、正体を明かさずに身の上話をしている。そこへ、崖上から名鏡が落ちて来る。「心隠して両人は……」で、虚無僧は上手に、巡礼は下手にと、別れて行く。

伏屋姫が崖上から降りて来て、名鏡を探し当てる。遅れて来た次段太は、伏屋姫に襲いかかる。駆け付けた三位中将が姫を助ける。

浅葱幕が振り被せ、振り落しで、場面展開。谷底の背景は、海の遠見に替わる。再び現れた七兵衛と次郎蔵。戦姿に変わっている。花道へ立ち去ろうとする七兵衛を上手から次郎蔵が呼び止める。「景清待った。悪七兵衛景清待った」。次郎蔵は、七兵衛の正体を見抜いていたのだ。次郎蔵は、自分は、三保谷四郎だと名乗り、刀を抜いて立ち回りとなる。互いに兜の錣を引き合いながら、力の強さを競う。豪傑同士の力比べと言うのが、この芝居の見せ場。

やがて、沖の水平線に大きな朝日が昇る。お互いの力を知った二人は、この場では決着をつけず、戦場での再会を約束する。本舞台に三保谷四郎。花道七三に景清。「まず、それまではサラバサラバ」と別れて行く。歌舞伎の荒事の様式美を楽しむ。それだけの芝居。引張りの見得にて幕。


「黒塚」を観るのは5回目。「猿翁十種」と呼ばれる演目の一つ。当代猿之助では、12年07月、5年前の新橋演舞場での襲名披露、15年01月、2年前の再建後の歌舞伎座での初演。12年ぶりの歌舞伎座出演だった。そして今回と3回目。

「黒塚」は、3段構成の舞踊劇。照明効果を重視した新作舞踊劇。第一景は能楽様式。第二景は新舞踊様式。第三景は歌舞伎様式。

第一景。暗転のうちに舞台が始まる。暗い舞台の中央に小屋。薄い灯りがともっている。障子には、影が大きく写っている。小屋の後ろは、一面の薄(すすき)の原。安達原だ。舞台中央上空には、細く、大きな三日月がかかっている。下手には、庵戸がある。能楽を意識しているためシンプルな舞台装置だが、光と影の演出には、気配りが感じられる。スポットライトも活用されている。やはり、これも新作歌舞伎だと印象を強める。

花道より、阿闍梨(右團次)一行が安達原に近づいて来る。阿闍梨一行には弟子の山伏大和坊(門之助)、同じく讃岐坊(中車)、強力の太郎吾(猿弥)が随行している。本舞台に来て、阿闍梨は小屋の主に向って、一夜の宿りを乞う。簾式の障子を巻き上げて、木戸を開けて出て来たのは、独居老女・岩手(猿之助)である。

小屋の前にスポットが当たり、本舞台は光の「室内」のように見受けられる。小屋の外、「室内」に置かれ直した糸車を廻しながら、身の上を語る老女。仏の教えにより成仏できると説く阿闍梨。心が晴れた老女・岩手は一行をもてなすために山へ薪を取りに行く。小屋の中の閨(ねや)を決して見るなという注意を残して出かける。猿之助の科白廻しは、太く、低い。花道を行く足取りも猿翁工夫の独特のものがある。

阿闍梨一行は、勤行をしながら老女の帰りを待つが勤行に参加しない強力の太郎吾だけは、閨の中が気になって仕方がない。そっと覗き見ると、閨の中は、人骨と血の海。老女は、安達原の鬼女だったのだ。驚いて阿闍梨らに知らせる。一行は、老婆の言いつけを破ってしまった。

第二景。山から薪を背負って戻る途中の老女・岩手。辺りは一面の薄の原。月が明るく照らしている。阿闍梨の「成仏できる」という言葉を思い出して楽しい気分になっている。月明かりに薄が光る安達原で、心の明るさを表すように老女は踊り始める。猿之助は、この場面での踊りが特に好きだという。長唄、琴と尺八の合奏。月光を浴びて老女は童女のように無心に踊る。至福の踊り。心の喜びを表現する。月光は、舞台を青く照らす。三味線に乗って、猿之助が踊る。海の中か、宇宙空間で踊っているように見える。だが、至福の時はいつまでも続かない。

血相を変えて上手から逃げて来る太郎吾の姿を見て、阿闍梨一行が約束を守らなかったと悟った老女・岩手は、人の心の偽りに怒り、悲しみ、姿をくらましてしまう。舞台中央奥のやや上手で「宙に・返る」ように飛び上がり、消え去る。「宙返り」か。

第三景。薄の原の中に古塚がある。宇宙船のようなカプセル。老女を探し求めていた阿闍梨一行が到着すると、古塚が割れて、中から後ジテの鬼女の姿を顕した老女・岩手が、襲いかかって来る。老女は、最早、人ではない。鬼女は異星人か。地球人・阿闍梨一行は、数珠を押し揉み、一心に祈ることで、鬼女の魔力に対抗する。花道で老女は、「仏倒れ」を見せる。鬼退治。基本的に「紅葉狩り」や「茨木」などと同じジャンルの演目と言える。

「黒塚」は、1939(昭和14)年に二代目猿之助(後の、初代猿翁)によって、初演された。二代目猿之助はロシアンバレーまで参考にして所作の手を考えたと言われる。新作舞踊の名作となり、三代目猿之助(二代目猿翁)が、1964(昭和39)年に「猿翁十種」として選定した。老女・岩手、実は、鬼女を初代猿翁が16回演じ、二代目猿翁が31回演じた。当代の猿之助は今回が5回目である。伯父の二代目猿翁の31回へ向けて、四代目猿之助は舞台を重ねて行くことだろう。
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