願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ (新古今集)
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮 (新古今集)
西行は平安〜鎌倉期の最も優れた歌人の一人で、又元祖遁世者(数寄者=自由人)として後の時代のエリートや文化人達の第二の人生(出家・隠遁)の手本となる生き方を実践した人物である。
西行は文芸評論家の小林秀雄に愛された(高く評価された)ことでも知られるが、
西行の歌は藤原定家のような象徴性の高い幽玄耽美な歌とは異なり、
自らの心情を雪月花に譬えて率直に詠う(反語によって嘆く)歌が多い。
この辺りが小林秀雄の性格(技巧を嫌う情熱家)からして、定家よりも西行を推している点だと思われる。
喩え一般の評価がそうではないにしろ、「新古今和歌集」には西行の歌が一番多く入撰しているのも又事実なのだ。(※注1)
生まれも育ちも実力も文句のつけようのないエリート(※2)でありながら、若くして突如、妻子を捨てさり出家した西行。
しかしその一方で仏道を求めながも、敢えて俗(煩悩)を捨てない
(あるいは捨てようとしても捨てきれない)人間味のある歌を数多く詠っているところに、
(達観しきらず悟りきらないところにこそ)西行の歌の魅力と真価(根幹)があるのであって、
西行が時代を越えて誰からも愛され共感され続ける理由なのだろう。
この著作の中で白洲正子は明恵上人の伝記の言葉を借りて、若き日の明恵が西行に深く共感し慕っていたと述べているが、
明恵が18歳の時に西行が亡くなると、明恵はふっつり歌を捨てて、仏道ひと筋に専念し、
その翌年から「夢記」(※注3)を書き始めたことに対し、
これを真の数寄者の妙(シンパシーの伝播)だと直感している。
注1:新古今和歌集(定家も撰者の一人である)には西行の94首が最多入撰している
注2:家系は代々衛府に仕え、鳥羽院の北面武士として奉公、平清盛は同年の同僚
注3:人類初の長期に亘る夢の記録として有名(学術的にも希少価値が極めて高い)
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