mixiユーザー(id:12844177)

2016年12月15日21:22

1446 view

「棒ノ嶺」「棒ノ折山」山名論争と畠山重忠伝説を訪ねて(3)

(画像は、
無人の「棒ノ嶺」山頂、
今回のテーマ「棒ノ嶺」山頂標識、
ついに出会えた「伝説の石棒」)


12、「黒山」

「馬乗馬場」を後にすると視界が開けて自然林となる。
冬枯れの木立が続く尾根は陽の高い時間帯を迎え、暖かそうな落ち葉の絨毯を軽快に踏みながらの登りとなった。

露岩が点在する高みから振り返ると岩茸石山から高水山の辺りが見え、馬酔木の短いトンネルを抜けると前方に「黒山」のなだらかなピークが見えてきた。
柔らかい陽射しを浴びて僅かの登りで黒山(842)に至る。

(「黒山」を含むこの辺りの山名には書物によって混乱があるので、また調査してみたい。)

登りつくと同時に、6人ほどのグループが声高に話しながら岩茸石山の方へ去っていった。

遥か南には大岳山の稜線が蒼い気高さを湛えて堂々たる風格を見せ、赤杭尾根からせりあがる川苔山を西の間近に望み、そしてこれから目指す進行方向には「棒ノ嶺」の穏やかに丸っこい山容が 愈々 目睫の間。

かつては茅原だったという棒ノ嶺の山容に、「黄金色のまるい夏蜜柑のような峰を光らせて…」という昭和29年のガイドブックの形容が思い出される。

束の間の静寂を破り、その「棒ノ嶺」から50代くらいの単独男性が尾根を辿ってきた。
山頂の様子を聞くと「思ったより人がいるよ。」との事で、さすがは四季を通じて人気の山、ここからは多少の喧噪を覚悟しなくてはなるまい。



13、「棒ノ嶺」

黒山から進み一旦 鞍部に下るところで、熟年パーティー男女4人が息を弾ませながら登ってきた。
挨拶を交わすととても感じの良い先輩方で、山で人に会いたくない性分の自分も心が明るくなる。
南には大岳山から続いて優美な稜線を描く御前山が遠くに見える。

急な下りを終えて鞍部からやや登り返すとそこが平坦な「ゴンジリ峠」(権次入峠)で、凡そ峠らしくない地形で風情も無い。
ここは名栗湖畔からの登路の合流点で人が大勢いたので、脇目も振らず足早に通り過ぎ、あとは前後を人に挟まれながらの暫しの登りでポンと山頂に飛び出した。

東西に長い広場のような山頂で、展望や昼食を楽しむ人で賑わっている。
端にザックを下ろし、自分の休憩場所を物色がてら広場を一周。
さすがは人気の山、数えてみたら 計50人余りが思い思いの時間を過ごしている。

自分は僅かに傾斜が盛り上がった山頂南側に座り、昼休憩を取る。
山頂にいるほぼ全員が展望を楽しむべく北に目を向ける中、自分だけは樹林に遮られて視界の利かない南側に身体を向けているのにふと気付き、これにはさすがに我ながら偏屈ぶりに呆れた。

ベンチを囲んで談笑するグループ、仲睦まじげな若いカップル、山頂に登り着いて「がんばった甲斐があったわ!」と喜ぶ女性、小学生らしい姉妹、幼児をザックに乗せた若いお父さん…

遮る物無く濶然と開けた奥武蔵の大展望を前に、日だまりハイキングを楽しむ老若男女がゆっくりと寛いでいた。

さて、時間はまだ12時半で陽も高い。
本当はゴンジリ峠に戻って名栗側からの「岩茸石」という大石も見たかったのだが人との擦れ違いを思うと億劫なので、都県界尾根をさらに進んでみる事にした。


14、「槇ノ尾山」と「長尾ノ丸」

この先の稜線は幾つかのピークを擡げて長く伸び、やがて日向沢ノ峰からは西に蕎麦粒山や仙元峠へ、もう一方は北の有間山稜へと分岐するが、長時間を要する上に地味なので人気は無いらしい。
しかしそこが自分の狙い目で、「賑わう山の傍らに寂峰あり」、そういう地味な山をこそ愛したい。

山頂から西に入るとすぐに藪がかかり、先程までの喧噪は嘘のような静けさだ。
間もなく父娘らしい二人と擦れ違ったが、その後は独り旅となった。

槇ノ尾山(945)(名栗では古くは「ウバ小屋沢ノ頭」)は相変わらず南が植林、北が自然林の平坦なピークで、ここで仙岳尾根が分岐している。
さらに進むと奥多摩側も自然林となって、西の逆光の山塊の中に蕎麦粒山かと見紛う三角の尖頭が覗く。
この辺り、午後の陽射しを浴びてこの日 最も深山らしい趣きが漂っていた。
尤も、この北の稜線直下には有間林道が山腹に付けられているが、一般車は入れないのだろう、とても静かだ。

歩を進めるとピークを南に巻く径路が明瞭で、辿っていくと清浄の気が満ちた杉林の谷のトラバース径となり、この辺りは大丹波川 左岸最奥の雰囲気である。

巻き道の上のピークがどうやら「長尾ノ丸」(古くは発音は「ナゴーノマル」)と思えたので、径路を外れて直登すると果たしてそこに「長尾丸山」の手製標識を見出だした。

有間山稜はまだ少し遠くに見えている。そちらはまたの機会の宿題として「棒ノ嶺」に戻る事にした。

陽が傾くとやはり冬の気配、風も少し冷たくなってきたが木立や山肌が織り成す陰影は濃さを増し、その幾何学模様を楽しみながら歩く。

やがて辿り着いた「棒ノ嶺」山頂は 早くも無人の広場で昼間の賑わいは遠い昔、奥武蔵の展望も夕陽に包まれている。

 誰も居なくなった頂上を見渡しながら、多摩郡村誌(明治初年)の記述を思い出す。

棒之折山
「山中樹林なく、總て茅叢に屬す。頂上眺望活濶、八州の山川曠野を睫眉の間に収む、気象千萬の壯觀なり」

あらためて中央に立ち北の展望を見遥かせば、奥武蔵の山と丘陵は恰も地平線のように尽きる事なく、なるほど足下のこの山が「奥武蔵の南十字星」との形容も強ち誇張とも思えない。

陽射しを浴びて茅原を光らせていたという往時の山容を瞼の裏に浮かべれば、「奥多摩渓谷」(朋文堂)(昭和14年)を著した岩根常太郎が表現した「奥多摩の北斗星」も首肯ける。



15、伝説の「石棒」との邂逅

ここからは南に下れば1時間足らずで大丹波川の清東橋。日没にもバスにも十分に余裕がある。

下り始めると忽ち空は雲に覆われ陽は翳り、最終下山者の看板を背負って杉林の間を縫う。

前方に川苔山を眺めながらの下りで、時折 杉の間に大岩が現れる。
その度に、例の棒ノ折れが祀られていやしないかと確認するが見当たらない。
(古書を仔細に読めばゴンジリ沢の源頭に祀られていたとわかるのだが、そもそも あまり予習をするとつまらないので地図もろくに見ていない。)

沢の瀬音に耳を傾けようにも荒れた植林地に水流の兆しは無く、棒ノ折れの事は半分諦めながら下りゆく。

そうしてようやく下り着いたゴンジリ沢の傍らに「山の神」らしき社が見えてきた。
木造の質素な社だが、中を覗いてみて吃驚仰天、そこにはまさにあの伝説の「棒ノ折レ」が屹立していたのだった。

大正15年の写真では野晒しで、武田久吉の解説には「傍に奇形の石塊等を置き、向って右にカラマツ、左にヒサカキを植え、背後に小紙幣を立ててあった」とある。

てっきり今は風化して野辺に倒れているかと想像していたのだが、実は社の中にしっかりと納まって今なお健在なのであった。

ほとんど 諦めていただけに喜びは一入で、遂にあの伝説の石棒に相見えて快哉を叫ばんとする気持ちが湧き上がるのとは裏腹に、索漠たる思いが胸に広がって徐々に重く沈潜していくのを意識せずには居られなかった。

目の前の社は朽ちかけて暗く、寒々しい賽銭が散らばって、供え物のつもりなのか飲みかけのペットボトルの茶が置かれている。
窮屈そうに納まっているこの棒の謂われを示すものがあるわけでもなく、ただ寂れるに任せている。
この扱いは一体どうした事だろう。

大正から昭和の初めには山名論争が繰り広げられ、当時の名だたる岳人が挙って言及したこの伝説の石棒は、もはや現代のハイカーからは一顧だにされる事なく忘れ去られようとしているように見える。

件の「棒ノ折れ」は目測では武田久吉が記していた寸法に近いようだ。
長い円柱ではあるが男根に見立てた「金精さま」にしてはあまりにも無造作な石で、亀頭の形を示すような加工が施された形跡は無いように見える。

多摩地方の性神信仰に関する資料(「多摩のあゆみ 30号」)では陽石はどれも亀頭を強調した立派な造りなので一目でそれとわかるのだが、それに比べるとこの棒は何の衒いも無い寸胴型であり、実際に相対してみるとやはりこれは畠山重忠 伝説上の杖が折れた「棒ノ折レ」ではないだろうか、と思えてくるのである。

(奥多摩町の石造物に関する資料はまだ入手していないので、見ていない。)



16、旅の終わり

社を背にして、ゴンジリ沢の清流に沿う山葵田の傍らを下る。
この山葵田、下るほどに大きくなり、沢の流れを目一杯 活かして長さ500m以上も続いていた。
昭和15年の「甲 武 相  山の旅」(今井重雄)にはこの山葵田がハイカーによって荒らされているとの記述があり、古くからワサビ作りが行われていた事になる。

やがて大丹波川にかかる橋を渡って下山完了。
山中で拾いお世話になったポール代わりの棒2本に別れを告げ、あとは川沿いに清東橋バス停まで下るだけだ。

道沿いに古い民家のような建物が散見されるが明かりはどこの窓にも灯らず、人はおろか犬一頭 猫一匹居らず ひっそりと静まりかえっている。
誰も住んでいないのだろうか、少し不気味に感じはじめたところでバス停に着いた。

1日2本しかないバスの最終は16時50分、まだ30分近く時間がある。
バス停の脇には綺麗なトイレと立派な待合所があった。

バス便が以前より減って訪れる登山者は減少の一途だそうだが、それにしては不釣り合いな新しい建物に面喰らう。

しかし待合所に入ってみて気付いた。
この辺り、狭い谷沿いには百軒茶屋キャンプ場などがあり、夏は客も来るのだろう、壁に落書きが目立つ。
最も古い落書きはおそらくはこの待合所ができた平成12年のもので、女の子6人が名前を連ねて8月の日付を記し、「就職祈願」とある。
夏に羽を伸ばした記念のつもりだろうが、こんな落書きも若さゆえか。

それから16年経った今、おそらく彼女らは30代中頃か後半になっているはずだが、この奥多摩の山間のキャンプ場での一夏の思い出をまだ心に残しているだろうか。

バスは思いの外 早く来た。乗り込んだのは自分独り。

暮れ落ちた谷間を縫うバスに揺られながら一日の山歩きを反芻する。
いつしか瞼が重くなり、ふと我に返ると左の車窓に山間とは思えない煌びやかなクリスマスイルミネーションが明滅していたが あれは果たして夢か現か、次に我に返ったのは「川井駅 前ですよ」との運転手の声であった。

運転手さんは 少し高みにある駅までの道のりを親切に教えてくださった。

初めて乗るJR 青梅線。「伝説探訪」と銘打った小さな山旅の成果を胸に、やがて車中の人となる。



17、結論

昭和の初めに岩科小一郎と田中新平が「棒ノ峰」をめぐって山名論争を繰り広げた件は冒頭で触れたが、宮内敏雄は今もなお 名著として語り継がれる「奥多摩 」(文松堂)(昭和19年)の中で(自分が持っているのは1992年に百水社から刊行された復刻版だが。)、この小さな山に対する記述としては異例の多くの字数を割いて持論を展開している。

前出の武田久吉の説を「まことに興味のある御説ではあるが、」とした上で、概ね以下のように記している。

「名栗村では坊ノ尾根と呼んでいるのである。
之は昔からこの山が有名なカヤトの山だったからで、往時は河又附近の農家は、家屋の屋根の萱ブキを採るために、毎年此処を火入れしてカヤトを生い繁らせたものだそうである。(中略)

文書に書いて棒ノ尾根となったのはこれまた語音が同じだからで、(中略)

大丹波側から考えてみると、石棒を俚人は棒ノ折として祀って、今では本来の意義は忘れているが、あきらかにこれは金精様で、それを崇拝した名残りが今日まで惰性で伝わり、「あの棒ノ折様が」の位置を示す言葉がその祀ってある場所を指すようになり、それが名栗側の坊ノ尾根と混乱混同して、棒ノ折山の名が山を距てた双方の部落で同一名で呼ばれるほどになったのであろう。」


一方、「ものがたり奥武藏」(神山弘)(奥武藏研究會)(昭和26年)にはこの山について、
 「義經記という本に重忠は名をえたる美男なりければ云々、と書いてあるように、彼は物凄い色男だったそうです。
ですから鎌倉街道を通るときは、附近の部落の女たちは顔をみようとみんな道端に並んでしまうので、重忠はそれがうるさく 街道を通らずわざわざ裏山を抜けていったのだと傳説はいいます。

有間谷右岸の棒ノ尾根は傳説上からは棒ノ折山と呼んで、鎌倉へ急ぐ重忠がこの山を越える時、杖にしていた棒が折れてしまったので、一つを大丹波へ、他の一片を名栗の谷にすてたといいます。

又 別のはなしは重忠は馬に乗ってこの山を越えたが、あまりに急いだので落馬して股の一物をへし折ってしまった。それからこの山を棒ノ折山というのだそうです。」

(しかし山の地名は)「こんな單純な傳説に起因しているものではなく、むしろ傳説が地名によって生じるものなのであります。

現在でも名栗村の人々はこの山を棒ノ尾根と呼んでいます。これは坊ノ尾根で、山が坊主の草山だからです。
その棒ノ尾根が棒ノ折になまって以上のような傳説ができたのでありましょう。

又この山は河又から古里村へ行く峠の頂きであって、山仕事や炭燒の人々がどちらから登ってもこの山で杖にしていた棒を捨てたので棒ノ尾根と呼んだという説もあります。

陸地測量の人々がその棒ノ尾根を棒ノネときいたか、又は傳説上の棒ノ折を棒ノレと誤聞して、地圖に棒ノ嶺と記入したために、それを登山者が棒ノレイ、又は棒ノミネと訓んで棒ノ峰の文字をあてはめたために色々の山名が出來上ったのであります。」


 かつて全山カヤトの山を指して名栗村では坊主の尾根との意で「坊ノ尾根」(ボウノオネ)と呼び、そこに山麓の人々によって秩父の英雄 畠山重忠の「棒ノ折(ボウノオレ)」伝説が加えられ、尚且つ東の「馬乗馬場」と西の「厩ノタル」によって より力強い伝説へと作り上げられたというのに、その重忠を産んだ秩父を擁する 埼玉県が、山頂に堂々と「棒ノ嶺」の標識を掲げているのは何とも情けなく 無粋な話だ。
 
やはり この山は 紛れもなく「棒ノ折山」である、というのが自分の中で得た結論となった。



18、自分が理想とする山歩き

武蔵国を代表する名武将 畠山重忠に抱いた尊敬と憧れが産んだ「馬乗馬場」や「棒ノ折」の伝説。
 
戦前から奥武蔵の各地の山麓に住む古老を訪ね歩いて 古くからの伝説を採訪した神山弘 氏は、「圍爐裏ばたで村の老人から昔話をきく時は、いつも私の心は子供にかえって、大きな空想の翼をひろげ、遥かな夢の世界へと飛びたってゆくのである」と記した。

かつて山麓の家々の団欒の中で伝説が語られた時、展望絶佳の山上の草原を畠山重忠が馬に乗って駆ける姿を想像し、目を輝かせる人もいただろう。
また、鎌倉に馳せ参じる重忠が山を越えて行ったという話に、誇らしさと憧れを感じ胸を高鳴らせた人もいただろう。
この山に纏わる物語は、名武将 畠山重忠への憧憬と親しみを込めた伝説であった。

もちろん、山の伝説はこの「棒ノ折山」のように歴史上の武人や貴人が登場するものばかりではない。

山に坐す神への崇拝、山によって与えられる豊かな恵みへの感謝、突如として荒れ狂う山がもたらす災害への畏怖、といった山村の人々の真摯な祈りや願いが込められた物語の数々。

山への憧憬や信仰、あるいは禁忌や戒めの物語として紡ぎ出され、脈々と受け継がれてきた伝説の数々。

山に纏わる伝説や奇譚、「物の怪」や不思議な話の類は、現代の常識や科学的な見地からすると一笑に付されるか、或いは言下に否定されてしまうような話ばかりかもしれないが、山とその山麓にはそうした物語が生き生きと、或いはおどろおどろしく息づいていた時代が、確かにほんの少し前まであったのだ。

 神山弘 氏は「先祖から傳へられた私達の揺籃の夢は、次の時代へ傳承してゆかなければならない」と記した。
しかしそれらの物語は現代ではもう風前の灯となって消えかけているようにも思える。

現代科学の急速な進展は山村僻地にも遍く押し寄せ、その結果として 、自然に囲まれて素朴な暮らしを営んでいた人々の間で信じられ語り継がれてきた様々な物語や伝説、そして山を棲み処に薄明薄暮と夜闇の狭間に生きていたモノたちは 完膚無きまでに解体され、駆逐されてしまったように見える。

だが、渾沌として雑音が溢れた都市の生活の雑踏を束の間 離れ、山を独り静かに歩く人は、深い樹林の中を歩く時、あるいは昼なお暗い谷を彷徨う時、そして山中にひっそりと佇む石仏や社祠に向き合う時、日頃は鈍麻していた感覚が研ぎ澄まされ、遠い呼び声にも似た懐かしい囁きを風が運んでくるのを感じた事があるのではないだろうか。
自分が理想とする山歩きは、そういう山歩きである。

文明の利器を通じて忙しなく垂れ流され巷に溢れかえる情報の洪水を遠ざけ、時が止まったかのような古書店の棚の片隅に眠っていた古書を紐解けば、先人の情熱と努力の熱い結晶に魂を揺さぶられ、恰も時空を越えて彼らと共に山を歩み、その喜怒哀楽に触れているような気持ちになるのではないだろうか。
自分が理想とする山との向き合い方は、そういう在り方である。
 
丹沢・奥多摩・奥武蔵・奥秩父・大菩薩といった山域に万古斧鉞が入らない人跡未踏の原生林など無い以上、現代の全てのハイカーや登山者は、そうした古くから人との関わりが密接不可分であった山に入らせていただく以上、 かつて山や峠を越え谷を歩いた先人や、山麓の歴史、信仰、民俗などに対して 少なくとも無関心であって良いはずがない。

山を歩く人には、いろいろな趣味の人がいる。
山域の尾根や谷に精通している方はもちろん、樹木、植物、動物、昆虫、地質、あるいは歴史、信仰、民俗、そして写真撮影、絵画…などなど、それぞれの分野に 知識と愛情を持つような造詣の深い方々は、まさに尊敬に値する。
こういった方々とは、山小屋での一夜にじっくりと語り合いたいものだ。


彼らに比すれば、自分はその気質に於いて やや偏屈が過ぎるとの謗りを免れない浅学非才のハイカーに過ぎないが、一介のハイカーにも五分の魂、せめて先人が遺した書物を開いて山に纏わる歴史や物語に触れ、先人の息遣いとその足跡への敬慕の念を胸に山道を辿り、山に生きるあらゆる生命を慈しみながら、静かなる思索をめぐらせたい。


今回の棒ノ折山「伝説探訪」を終え、 あらためて その思いを強くしたのであった。


山行アルバム(写真66枚)

 http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000101503709&owner_id=12844177
 
(完)

mixi
「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ

(現 事務局長)

7 14

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する