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2016年12月15日21:10

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「棒ノ嶺」「棒ノ折山」 山名論争と畠山重忠 伝説を訪ねて(1)

2016年12月4日(日)

奥多摩・奥武蔵 境界

「棒ノ嶺」「棒ノ折山」「棒ノ峰」をめぐる山名論争と畠山重忠の伝説を追って、古書の記述を参考に歩いてきました。

(画像は、
マウンテンガイドブック「奥武藏」(朋文堂)(昭和29年)から、権次入峠から望む棒ノ嶺 及び 川苔山、

「多摩・秩父・大菩薩」(原 全教)(朋文堂)(昭和16年)から、「有間谷と棒ノ峯」の地図、
(注: 山名及び位置について、郡村誌や武蔵通志とは異なる記載がある。)、

「山岳 第二十年 第一號 (第二) 秩父號」(日本山岳会)(大正15年)から、大丹波 ゴンジリ沢に祀られている「棒ノ折レ」



この日記は第1部から第3部まであり、大変 長くなっております。
また、山行アルバムは末尾に貼ってありますので、御覧いただけると幸いです。



0、「棒ノ嶺」

東京都と埼玉県の都県界尾根上にあり、奥多摩と奥武蔵の山域の境界にもあたる「棒ノ嶺」(969)を歩いてきた。

かつては奥多摩側から登る人も多かったようだが、今ではよりアクセスが良くコースも選べる飯能市の名栗湖から登る人が 断然多く、特に滝やゴルジュを楽しめる白谷沢沿いの登山道が人気だ。

棒ノ嶺だけでは半日の山歩きになってしまうので、尾根伝いに奥多摩入門の山とされる高水三山の岩茸石山、惣岳山とを結ぶコースもよく歩かれている。

また山頂からは北側の奥武蔵の山と丘陵、平野部の展望が抜群に良い反面、南側の奥多摩の山々は植林に遮られて見えず、山頂標識も埼玉県の設置である事から一般には奥武蔵の山と認識されているようだ。



1、今なお残る複数の山名

自称 静山派の自分は、 四季を通じて賑わっているというこの山に登りたいという意欲はあまり持っていなかったが、以前から 山名には関心を抱いていた。
というのも、「棒ノ嶺」「棒ノ折山」「棒ノ峰」と本によって名前が違うからだ。

平成に入ってからのガイドブックでは山名の由来や違いの理由を書かずに何れかの立場を取る本が多い中、幾つかの本は山名由来を紹介している。

分県登山ガイド 埼玉県の山(山と渓谷社)では、
「この山は国土地理院の地形図では棒ノ嶺となっているが、棒ノ峰、棒ノ折山の名称も多く使われている。
ここでは、鎌倉時代の武将 畠山重忠がこの地の山越えの時に使っていた棒が折れたのでこの名が付いたという言い伝えに因む「棒ノ折山」を使った。
また、南のゴンジリ沢に金精さまの石造物があり、これによるともいわれている。」

奥多摩に詳しい伊佐九三四郎氏 執筆の「ブルーガイド 奥多摩・奥武蔵 日帰り山あるき」(実業之日本社)では、
「権次入沢に祀られた石棒から棒ノ嶺とも呼ばれる山だが、鎌倉時代の武将 畠山重忠の杖捨て伝説にもとづく山名である棒ノ折山が定着している。」

近年のガイドブックで 最も詳しかったのは 山名考証「棒ノ折と棒ノ嶺」というコラムを設けて解説した「フルカラー特選ガイド 奥秩父 奥多摩 奥武蔵を歩く」(山と渓谷社)で、以下のように解説している。

「武田久吉博士は、山中にある石の棒の折れからつけられたものと説明した。
伝説によると、畠山重忠の杖が折れたものといわれている。
武蔵通志(山岳篇)にも「棒折山」と記されている。
「棒ノ嶺」とも呼ばれるが、これは当時の地図作成者が誤ったものであろう。
またの説として、『奥多摩』の名著を残した宮内敏雄は、この石棒を金精様に結びつけている。
名栗側ではこの山一帯を「坊ノ尾根」と呼び、棒ノ嶺となったという説もある。さて、その石の棒はどこにあるのか私は知らない。(浅野孝一)」

(武蔵通志は明治時代中期(1890年代)に河田羆(たけし)によって編纂された武蔵国の地誌で、このうち山岳篇は当時の山名や山の様子の基本的な資料とされている。)

ちなみに、「山と高原地図」では国土地理院の地形図に倣い、地図に「棒ノ嶺(ぼうのれい」(棒ノ折山)と併記している。

解説には「諸説あり、「坊主の尾根」が転じた説や、武将 畠山重忠がこの山を越えた時に持っていた杖が折れたことに因んで付けられたという説などが伝わっている。」と書いている。
これは雑誌「奥武蔵」の刊行などで知られる奥武蔵研究会が調査執筆を担当している。

多くの人は複数の山名など気にもしないか、あるいは山頂標識にある「棒ノ嶺」をすんなり信じるのかもしれないが、元々 山名の由来や歴史に興味のある自分にとっては、魚の小骨が喉に引っかかったまま取れないような、何ともすっきりしない気持ちが続いていた。

かつて多くの山が幾つかの名前を持っていたが、時代と共に地図上では次第に一つの山名に収斂されていった。
尤も、奥多摩・奥武蔵にも山麓での呼称の違いや信仰などの由来によって今でも括弧付きで山名が併記されている山は幾つかある。

しかし この場合、例えば長沢背稜の酉谷山(黒ドッケ)などのように全く異なる呼び名であるか、或いは川苔山(川乗山)のように同じ語音で異なる漢字を宛てた表記である。

「棒ノ」までが共通で その後ろが「嶺(れい」「折(おれ)」「峰(みね)」と違うのは
山麓の呼称の違いでは無さそうで、他に理由があるはずだ。
上記のガイドブックのように「一般的に棒ノ折山が正しい」としながら、なぜ「棒ノ嶺」が罷り通るのかが気になっていた。

また一方で、「棒」が鎌倉時代の高名な武将 畠山重忠の伝説に纏わるというのにも 大いに興味をそそられる。

畠山 重忠は 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将である。

秩父氏が代々受け継いできた武蔵国留守所惣検校職の地位を引き継ぎ、平家追討や奥州藤原氏征伐においても重要な役割を果たして 源頼朝からの信頼も厚い幕府の有力御家人だった。

知勇兼備の武将として戦では常に先陣を務め、鎌倉幕府初期の功臣として活躍した重忠は その武勇と人望により、頼朝の死に際してはその子孫を守護するようにとの遺言を受けたほどであった。

しかし 頼朝亡き後は、実権掌握を目指して有力御家人を次々と排斥していく北条時政に目をつけられてその策謀に嵌められ 、3代将軍 源実朝の命令を受けた北条 義時の軍勢によって 子の重保と共に討伐された。

その清廉な人柄と豪胆な武勇で尊敬を集め、「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠。
その伝説は秩父の各地に残っており、棒ノ嶺のみならず都県界尾根上の「馬乗馬場」、「厩ノタル」も畠山重忠の伝説に纏わる地名で、山麓の旧 名栗村を含む飯能市、及び 秩父全域と鎌倉街道沿いの各地に残る重忠伝説は枚挙に暇が無い。



2、古書を紐解いて興味再燃

収集した古書の中から昭和13年の本を引っ張り出して読んでいたところ、奥多摩の代名詞とも言える宮内敏雄が誌上で紹介した山名論争の逸話が出てきて、あらためてこの山の名前への興味が大きく湧きあがってきた。
そのエピソードを以下に抜粋する。

『棒ノ折山については、面白い話がある。

田中新平氏が、「此の山を棒ノ折と言ふ人もあるが棒ノ峰と呼ぶのか本當であると思ふ」と発表した。
するとお馴染の岩科小一郎兄が「棒ノ峰不可説」と題して「山岳」第二十年第一號、「武蔵通志」「多摩郡村誌」等を引用して峰に非ざることを強調した。

すると田中氏は、 反駁して峰が正しいと主張し、更に、「かう言った机上の論駁を私は好まぬ性質でそれにあまりにも話が堅苦しくなるし、又それ程の問題でもないと思ったからである。青梅鐵道や武蔵野電車の案内記を見て 峰 とか 嶺 とか 折 とか一致していないやうであるが、それはそれ程の問題でないための結果であらうと思ふ。
それに此の大丹波川付近の村人は皆 棒ノ峰と呼んでいる。(宮内註。これは誤りらしい)
村人が峰と呼び、山頂に峰と書いてある以上、最早この山は棒ノ折山ではなくして棒ノ峰で良いのではあらうか。
物事と言ふものはそんなにむつかしく考へる必要は無いのである。何も「多摩郡村誌」と「武蔵通志」を手にして奥多摩の山へハイクする人もあるまい。
それは純真な気持ちでハイクする、率直なるハイカーの心を萎縮させる外の何物でもないのである。」と気焔を吐き、岩科兄を苦笑せしめたものである。

田中氏はその後も引き続いて峰説を強調し、「岩科氏のやうにむづかしく考えたならば、此の頭はゴンヂリの頭と云ふのが正しいのである。」と云って居られる。(宮内註。これもどうかと思ふ。他日、私は「大丹波川水源の山々」を書いてみたいと思っている。その時 精しく述べることにしたい。)』

一部省略したが、このエピソードからすると、真剣に山名論争が行われていたこの時代、当時の 宮内敏雄は尊敬する先輩である岩科小一郎の「棒ノ峰不可説」に賛同していたようだ。

( 岩科小一郎(1907-1998)
民俗研究家、登山家。
柳田國男に心酔し、山と民俗の研究に人生を捧げた。「山村民俗の会」を主宰し、民俗研究誌「あしなか」を長年に亘って発行。カメラハイキングクラブ(日本山岳写真協会の前身)、東京山嶺会の創立に尽力する。特に秩父、大菩薩の山々を愛した。登山家であると同時に山村民俗研究の第一人者であり、登山と民俗学を結びつけた先駆者である。また、富士講の研究家としても知られた。)


この山名論争については、仲間たちと共に高水三山に出掛けた宮内氏が、山名について熱く語る仲間の様子を見て「岩茸石山の山頂にて口角泡を飛ばすこと三十分。一同 唖然として拜觀(拜聴にあらず)。棒ノ折山についてである。」と記している。

このエピソードの約10年後、宮内の名著「奥多摩」が刊行され、彼はその中で何と2ページ半にも亘る字数(百水社 復刻版)を割いてこの「棒ノ折山」について誰よりも詳しく説得力のある説を展開している。
この小さな山の山名について他の例を紹介しながら詳述しているという点だけを取ってみても、宮内敏雄という人物は奥多摩研究への誠実さと熱意において傑出している。

(宮内敏雄(1917-1945)
奥多摩の研究者。28歳で中国にて戦病没。「奥多摩 」(昭和19年)は今も奥多摩の山と谷について解説した本として不朽の名著である。)



3、昔のガイドブックでの扱い

では、「棒ノ嶺」は昔の案内書ではどのように紹介されていたのかを見てみたい。

歴史上、日本で最初の山のガイドブックとされるのは「一日二日 山の旅」(河田禎)(自彊堂書店)(大正12年)で、彼は 明治の「武蔵通志」を著した河田 羆の長男である。
父が通志で「棒折山」としたものをこのガイドブックでは「棒ノ嶺」としているが、その後は下記のように「棒ノ折山」と改めている。

「東京附近の山々(河田禎 高畑棟材)(朋文堂)(昭和6年)」

大丹波川を遡り、(中略)、間もなく左岸に権次入澤が現れ、その左岸に権次入峠への小徑が通じている。
この細徑は全山をカヤトで覆はれた棒ノ折山(九七六米。地圖に棒ノ嶺とあるもの)の東南面を繞って、外秩父の名栗の谷へと走っているのであるが、途中に、其昔 秩父の庄司 畠山二郎重忠が急用で鎌倉へ馳向ふ際、此處で平素愛用の息杖が折れた故、その一端を投捨てたものであると謂ふ石の棒の折が祀ってある。



「東京近郊の山と渓(菅沼達太郎)(朋文堂)(昭和6年)」

棒ノ折(棒ノ嶺): 大丹波川に沿って大丹波の村を過ぎ、(中略) ゆるやかな草原の尾根となれば、道はゴンジリ澤の源頭を迂回して名栗川の有間谷へ下る峠となる。
峠の手前に所謂傳説の「棒の折れ」なる石の太い棒の折れが祀ってある。
棒ノ折の頂は眼の前に聳える。頂上より見下す名栗の山里は南畫風の感じである。秩父入間の低い山々、淺い山々、其間をつづる白い街道、又 多摩の谷は狭く深くそれを囲む山々は高く大きい。


「奥多摩 それを繞る山と渓と(山と渓谷社)(田島勝太郎)(昭和10年)」

大丹波から川苔山へ
清東橋を渡って又右岸に移る。この邊からゴンジリ峠へ上る野中の横道が棒のやうに一直線に見える。
例の棒ノ折は野の下の杉林中の澤で本道から十町位の處にある。
棒ノ折の傳説は衆知の事である。


「甲 武 相 山の旅(今井重雄)(天佑書房)(昭和15年) 」

棒ノ折山
御嶽驛から出るバスに乗り大正橋で下車、(中略) 大丹波川が西に著しく屈曲する地點、百軒茶屋へ達する。
此處で指導標により獅子口への道に分れて、大丹波川を左岸に飛石傳ひに渉り、ゴンジ入澤沿ひの林道に入る。附近は植林地で薄暗く、権次入澤には山葵田が作られてある。
近時、心なきハイカーの手によってこの山葵田を荒される事が段々激しくなるばかりとの由であるが、實に不愉快極まる所業である。
之は一般ハイカーの質的低下であって、嘆かはしき限りである。
軈て山名起因となった「棒の折」と稱する高さ一尺餘りの苔蒸した石棒に達する。
傳説によるとこの石は、鎌倉時代、一方の旗頭 畠山重忠の愛用の石杖の破片ださうで、北方 名栗側にも同様のものがあったさうであるが、現在不明との事である。
徑はそれから権次入澤から離れて千鳥に可成り激しい登りとなる。軈て植林地を抜けると眉近く草原の山頂が現れて来る。山頂は草原で展望は元より廣濶なものである。


「奥多摩の山と谷 登山地図帳(山と渓谷社)(昭和35年)」

棒ノ折山 : 多摩川中流北岸の山の中で、全山茅戸のドーム状の山容は、見る人の心をとらえずにはおかない程 印象的である。
この山は地名論争になる山で、地図には棒ノ嶺と記されている。この他 棒ノ峰、坊ノ尾根(名栗側古称)等と云われているが、現在では棒ノ折山と呼ぶのが正しいと云われている。

ゴンヂリ沢より: 棒ノ折山における最もポピュラーなコースがこれである。(中略) 右に百軒茶屋を見る。頼めばお茶の接待をしてくれる。その先で導標に従い右の小径をおり、(中略) 一面のワサビ田である。
大丹波青年団の建てた導標のそばに例の有名な石棒がある。この石棒は金精さま(男根)を祀ったと云われている。
ここで径は左へまがり杉の植林中を急登する。(中略) 程なく棒ノ折山頂である。展望の良いのは今更云うまでもない。



4、武田久吉 博士による説明

日本山岳会 設立発起人の一人で、日本近代登山史の黎明期に重要な役割を果たした武田久吉 (理学博士。後に日本山岳協会会長、自然保護協会会長を務め、尾瀬の自然保護に尽力して「尾瀬の父」と呼ばれた) は、明治から大正にかけて丹沢、奥多摩、中央線沿線の山を丹念に歩いて古書や地元の話を渉猟し、年3回発行の「山岳」(日本山岳会)に精力的に紹介した。

山岳 第二十年 第一号(日本山岳会)(大正15年)は「(第二)秩父号」と題して秩父とその周縁の山塊の特集を組み、武田久吉は「仙元峠附近」の中でこの棒ノ嶺について詳細に解説している。この中から山名由来について引用する。

日向澤から東走して、荒川と多摩川との分水嶺をなす山脈について、(中略)、槇ノ尾山の東方には稍高い九七六米の童山がある。
これを地圖には棒ノ嶺と名けてあるので、去る有名な旅行家(?)がこれを棒ノ嶺(ボウノミネ)又は棒嶺山(ボウミネヤマ)と呼んで、夢更怪しまない處がひどく面白い。
これは「武蔵通志」に棒折山と記す通り、棒ノ折(ボウノオレ)である。
それを耳の良い御役人が棒ノ嶺(ボウノレイ)と譯した御手際には敬服せざるを得ない。
山名は山腹にある石の棒の折れから導かれたもので、傳説によると、畠山重忠が杖についた棒の折れ端だ、といふのであるが、慥に人工の圓柱ではあるが杖とは受取り難い。
去りとて石器時代の石棒の破片とは尚更考へられない。
秩父の方にもその一方がどこかにあるとかいふが、大丹波側約六百米附近に安置してあるものは、高さ一尺一寸、上端の周圍八寸、下端の周圍六寸を算し、年代その他文字は何もない。
考古家が一覧されたら何とか解決できるであらう。
この 棒の折れ の傍らを上り、秩父に越す峠をゴンヂリ峠と稱する。

(同誌には、この「棒の折れ」の写真が掲載してある。)

また、同号で神谷 恭が記した「川乗山と其附近」の「大丹波川を遡る」編でも、棒ノ折れについて触れている。

權次入への岐れ路を對岸に見る。此路は棒折山の中腹を縫ふて名栗へ越ゆるもので、地圖には九七六米突の獨立標高點を有する棒ノ嶺の東南をめぐる小徑に當っている。
途中 山ノ神があって、そこには畠山重忠が携へて居たといふ棒の一片が化石したものを祀ってあるとのこと。
棒折山といふ名の起源もそれに基因するものではあるまいか。
佐市(大丹波村 在住の 案内人)の話によると畠山重忠が鎌倉へ駈け向ふ途次 此山にかかり、携へた杖の折れた一端を大丹波川に、他の一端を名栗の谷に投げ捨てたのでさうで、名栗側へ降る途中にも同じく山ノ神が祀られて有さうである。



5、古書を踏まえての考察

古書を見ていくと、どうやら昔の名前はやはり「棒ノ折」で間違いない。
当時から「棒ノ嶺」は誤りであるとの認識はされていたようだ。

名栗側では全山カヤトで覆われて樹木が無いこの山を「坊ノ尾根」と呼んでいたそうだし(多摩郡村誌にも「全山茅叢に屬す」とある)、畠山重忠の伝説に基づく「ボウノオレ」と名栗村から見た山容の「ボウノオネ」は発音が奇しくもほぼ同じであって、少なくとも「棒ノ嶺(ボウノレイ)」でも「棒ノ峰(ボウノミネ)」でも無い。
「峰」は いかにも登山者が山と峰を同義としてそう呼びならわしたような安直さがあり、大丹波側に祀られていた棒が金精信仰の御神体だとしても、それを以て「男根山」だから「棒ノ峰」とはならないだろう。

やはり武田久吉の説通り、ボウノオレをボウノレイと聞き違えた明治の測量技師が「棒ノ嶺」の字を宛てたのではないかと自分も思う。

聞き間違いだけでなく、実際 丹沢にも似たような例が幾つかある。

例えば「丹沢山」の名は当時の測量技師が 便宜上 勝手に付けたものであり、それまでは「三境(山)」と呼ばれていた。
日本山岳冩眞書「丹沢山塊」(塚本閤治)(山と渓谷社)(昭和19年)の写真には丹沢山の道標に確かに「三境(さんさかい)」とある。

また、「尺里峠(ひさり)」は、「丹沢の天狗さん」として親しまれたドイツ人のハンス シュトルテ氏によれば正しくは「久里峠」で、測量技師が崩し書きで記入したものを地図作成者が見誤って「久」を「尺」の漢字にしてしまったという。
同様に、宮ヶ瀬湖の土山峠に近い「辺室山」も「新編 相模国風土記稿」では「辺宝山(ヘンボウサン)であって、漢字の間違いであるとの事だ。

そうした例は各地にあって、「棒ノ嶺(ボウノレイ」はまさにこれと同様の誤りであり、いったん地図に記入されてしまえば後から誤りとわかっても罷り通ってしまう。

(因みに自分の父と弟は測量の仕事をしている。当時も現代も、測量においては「数字の正確さ」「境界の確認」が何より重要であって、「漢字で書く地名」は二の次である。)



6、山行計画

しかし古書を開いて引用してみたり頭の中で理屈を捏ねくり回しているだけでは埒があかない。
やはり、現地を訪問して山を見に行かねばならない。
山を歩いて山を見て、できれば伝説の「棒」を探し出したい。
そうして、自分の中でだけの話ではあるが、この山の名前を一つに確定させたい。

大正15年の「棒ノ折レ」の写真では、石の台座の上に円柱形の棒が直立し、横にも石が置いてあるが 社殿や屋根などはなく、剥き出しで野晒しである。
その石棒が今なお 現存している可能性はほとんど無いように思えるのだが……。

歩くコースは、畠山重忠伝説が息づく「馬乗馬場」、常盤御前の伝説が眠る「常盤ノ前山」を絡めて、歴史ある小沢峠を起点とする。

奥武蔵の旧 名栗村から小沢峠に入り、都県界尾根を歩いて「馬乗馬場」「常盤ノ前山」を経て「棒ノ嶺」に登り、山名の起源とされる伝説の石棒を求めて奥多摩側のゴンジリ沢沿いに下るという計画だ。

結果的に何も見つけられずただの山歩きになったとしても気分は「畠山重忠の伝説探訪」、大いにわくわくしながら当日を迎える。

(続)↓

「棒ノ嶺」山名論争と畠山重忠 伝説を訪ねて(2)
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