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2016年11月15日11:10

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他人の人生を描けるはずがない・・・のだけれど

タイトルに猛烈に惹かれて、城山三郎さんの『「粗にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯』という本を読んでいます。とはいっても、読み始めたとばかりなので、この本について語れることはないもないのですが・・・意外に読みやすそうなので、読み終わったら読書感想文のブログに感想をアップしますね。毎度、簡単で単純な印象のコメント程度ですが。

そういえば、思春期の頃、自分を表現するのに「陰だが湿ではない」って言っていました。自分では「言い得て妙」と気に入っていたのですが、「粗にして野だが卑ではない」を知ってしまうと、内容の深みはもちろん、表現としても比べ物にならないなぁ〜とガックリしてしまいました(^^;。

といいつつ、これから話すことは、伝記否定になってしまうような内容なんですが・・・はい。

この五年、ずっと考え続け気ているていることは・・・藍那の為に何が出来るだろうかということばかりです。心の奥底で「今更してあげられることなど何もない、何をしようと、それは自分自身を慰めることでしかない」と思いつつも、「それでもいいから、何か藍那の為だと思い込めることができないだろうか」と探し続けています。

藍那がしようとし始めていながら出来なかったことを代わりにしてみるとか、藍那が大切に思っていた人たちの活動を支援するとか・・・それこそ、ほんとうに色んなことを考えたのですが、どれもこれも、何か違うなぁ〜って思ってしまいます・・・

たとえば「藍那がしたかったこと」、それは藍那がしてこそ意味があるのであって、親とはいえ他人が代わりにやったとしても、なんの「藍那の為」にもなりませんよね。それきっかけで、私自身が新しい楽しみを見つけられたとしたら、それはわたしの為にはなりますが「藍那の為」ではないですから。

「生きた証を残してやりたい」というような表現を見聞きしたことがありますが・・・それはねぇ〜、ほんとうによく分かります。そういう心情・・・よく分かります。だから、わたしでも少しは出来そうな「書くことで藍那を表現して残すのはどうか」ということも、本当に真面目に考えました。

けど・・・わたしが表現する藍那は、わたしの藍那でしかない・・・藍那が表現して欲しい藍那ではないかもしれない・・・そもそも藍那自身が、表現されることや、何かの形で残されることを望んでいないかもしれない。

親がいうのもなんですが、藍那は容姿に華のある子でした。だから、彼女が空間芸術や舞台美術に興味があると言った時に、「演者側に興味はないの」と聞いたことがあるのですが、その時は「あまりない」との返事でした。本心かどうかは分かりません。自信がなくてとか恥ずかしくてとか、興味がなくないけど口では否定したという可能性がないではないですが、一応、言葉ではそう言っていました。それをそのまま受け取るとしたら・・・自分が訂正や修正できないところで、他人に自分という人間を語られ、それを世間に曝されることを、彼女は望まないかもしれない・・・だとしたら、わたしが藍那のことを書くことは、「藍那の為」になるどころか、藍那を傷つけることかもしれない。

そうなると、唯一、わたしが藍那の為にできそうなこと「書くことで藍那を表現して残す」いうことも、すべきことではないかもしれません・・・

で、ここで一気に一般論になるのですが・・・そもそも伝記って、どうなのかなぁ〜、そう思うようになってしまいました。

自伝なら、そこにワザと語られないことがあろうと、多少の誇張があろうと、他の当事者とは違う認識で表現されていることがあったとしても、本人が自分について書いているのですから、故意に他者を誹謗中傷していないかぎり、なんでもokかと思います。そこは読む方が、本人の自己申告だと心して読めばいいことだと思います。

けれど、本人の日記や手紙などの資料を基にしていても、家族や友人知人に取材したとしても、他人が誰かの人生を描く伝記というのは・・・どう読めばいいのでしょうね。何かに功績のあった人の、その功績の部分に関してなら、客観的事実というのがシッカリあるでしょうから、それを記録するというような文章があるのは悪いことではない・・・というか、第三者にとっても役に立つものにもなり得ると思いますが、プライベートな人生、特に心情の部分を、第三者が語るというのは、どうなんでしょう・・・と思わずにいられません。

良く知らないのですが、歴史の資料などには、一次史料とか二次史料とか資料にランク付けみたいなものがあると聞きました。一概には言えないでしょうけど、一次史料の方が二次史料より信ぴょう性が高いと考えられるでしょうね。それを個人に当てはめるなら、一次史料は本人が書いたものとか音声や映像に残したもの、二次史料が周りの人から聞いたことみたいな感じでしょうか。で、周りの人から聞いたことって、聞いた人は聞いたそのままを伝えてくれたとしても、本人が相手によって違う表現をしていること、ものすごく沢山ありますよね。たとえばボーイフレンドのこと、親には心配かけたり反対されたりしないように優等生的なことだけはなし、友達には多少見栄を張って話を盛ったり・・・どちらも嘘じゃないけど本当でもないみたいなこと、とてもたくさんありますよね。また、本人の書いた日記などであっても、必ずしも本当のことだけが書かれているわけじゃない。希望や願望が混ざってしまったり、思い違いがあったり、自分に都合の悪いことを自分の中で都合良く変形させて思い込んでしまっていたり・・・だから、本人の残したものであっても信用できないことも沢山あるはずです。

そういう意味では、わたしの知っている藍那は、絶対に藍那の全部じゃない。わたしがそう思いたい藍那と、藍那がそう思ってほしい藍那が混ざり合って出来上がったものでしかない。それを形にして残してしまえば、それが藍那の事実のようになってしまって・・・それは、絶対に藍那の為にはならない。

では、藍那を描くのではなく、藍那と接した私を一人称にして、あくまでも私の目に映った藍那として描いたとしたら・・・いや、結局同じことだと思う・・・・

今、唯一、許されるのじゃないかと模索しているのは・・・童話として「しんちゃんシリーズ」に、藍那をイメージした女の子を登場させることで・・・これなら、あくまでもフィクションだし、藍那をそのまま描くのではなく、イメージを反映させるだけだし・・・わたしは書きながら、藍那を感じたり、時には会話なんかも出来たりはしないだろうかと・・・どうかなぁ〜、どうだろう・・・

やっぱり、何をしても藍那のためではないんです・・・わたし自身の為、わたしが生きるために、藍那が必要なんです・・・藍那が居てくれないと生きていけないんです・・・と、思います。
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