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2016年09月09日23:56

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呉越同舟

 『アオイホノオ』で最も興味深いエピソードといえば、主人公がまったく関わっていないけれど、後にガイナックス創立メンバーとなる面々がダイコンIIIのオープニングアニメーションを製作するくだりでしょう。

 当時、山賀ヒロユキ・庵野ヒデアキ・赤井タカミ(劇中では実在の人物をモデルにした架空のキャラクターであるため、下の名前がカタカナになっています)は大阪芸大の学生でしたが、実作派の庵野と赤井に対し山賀のみはプロデューサー志望で、庵野と赤井の超絶テクを目にしては「こいつらさえ手放さなければ、俺は一生食いっぱぐれない!」と心中ガッツポーズをするも、芸大生ながら絵も描けず共同作業の割り当てでは「俺は描かないんじゃなくて描けないんだ。そこを間違ってもらっては困る」と開き直るガチクズぶりでしたが、実際に作る人間とそうでない人間では作品に対しての考え方も異なり、両者の間には溝が生じつつありました。

 そんななか、庵野の友人を通じてダイコンIIIのオープニングアニメーションを作ってくれないかという依頼が寄せられます。カラーのセルアニメ製作の大変さを知っている庵野と赤井は難色を示しますが、なにもできない山賀だけがやる気になって三人で話を聞きに行き、赤井から作業の膨大さを指摘された相手の武田は、怒号を発します。
「自分、なに常識語っとんねん。ホンマモンにならなアカン。ホンマモンにならな、世の中動かせへんぞ。この企画を担当しとる岡田ちゅうやつこそ、ホンマのホンマモンや」

 そして、岡田トシオの家を訪れることになります。超大金持ちの岡田邸はとても変わった造りの建物で、玄関には2体の鹿と1体のツキノワグマの剥製が不気味にライトアップされて並べられており、名状しがたい雰囲気が漂っていましたが、ひとり庵野のみは「ショッカーの基地のようだ。来てよかった」と満足げでした。

 彼らの前に現れた岡田トシオは「俺ってすごいやろ」オーラがだだ漏れになっている、たしかにとんでもない人物でしたが、その発言はなかなか興味深いものになっています。
「ボクはやろう思うたらかならずやるねん。そりゃ当然のことやけどな、そりゃな。いま、ボクがやりたいんは、そりゃSF大会のオープニングで度肝を抜くようなすごいアニメを上映することや。みんなの力を借りてな。もちろん、簡単やとは思うてへん。せやけど、現実的に無理なこともない。せえへんかったらできへんけど、やったらできる、こりゃ当たり前のことや。ボクのやりたいことはそれ。きみらはそのなかできみらのやりたいことをやったらええ。もちろん、完璧にフォローはさせてもらうよ。金と人材のフォローはなんぼでもできると思ってる」
 この時、すでに庵野には岡田がショッカーの首領にしか見えていません。
「なにを描いてもいいんですか?」
「なにを描いてもええ」
「ガンダムでも? イデオンでも?」
「全部好きなもん描いたらええ」
 赤井の「岡田さん、そんなこと勝手にやっちゃっていいんですか。他人の作品ですよ」というきわめてまっとうな質問への、落ち着き払った返答は以下のようなものでした。
「赤井くん。自分で自分を縛りつけとったらあかんよ」
「常識的に考えて……」
「赤井くん。きみにいい言葉を教えてあげよう……。“世の中、やったもん勝ちなんや!”」

 そして、そこから語られるのは岡田家が財をなした事情の一端、それは有名ブランドのロゴを微妙にマネた廉価のパクリ商品を大量販売することだったのです。その衝撃の事実の前に赤井はただ茫然とし、庵野は「ここはやはり間違いない。ここはショッカー基地だ。ここで俺は捕まって改造手術を受けなければならないのだ」と妄想を膨らませて陶然とし、山賀は「やった、おそらく俺はもう一生食いっぱぐれない」と確信を深めています。

 ここのところを、あるいは三国志における桃園の誓いのように美しく描くことはできると思います。傑出した才能の持ち主たちが数奇な結びつきから一堂に会し、高い理想を掲げて一致団結、手をたずさえてともに困難を乗り越えながら一歩ずつ進んでいく様子を一編の叙事詩として謳いあげることもできるでしょう。

 しかし、この作品の中では基本的に自分の都合しか頭にない人間たちが、たまたま互いを利用しあえるといっただけの縁でつるんでやっていくということになっています。しかも、そこで援用されるのは法律的にはグレーかもしれませんが、モラル的には完全にアウトな商売上の裏技だったりします。
 そこに美しさは欠片もありませんが、実際に新しいものができていくときはそういうものかなという気もするし、こういうアクの強いキャラクターも必要になるだろうし、ここから、『オネアミスの翼』や『エヴァンゲリオン』、『シン・ゴジラ』へとつながっていくことを考えると感無量でもあります。

 考えてみると、福田雄一はこういう状況としては進展していっているけれど、実は登場人物たちはてんでばらばら方向を見ていて、結果として進んでいるだけで、それはほとんど偶然にすぎないということが多いです。というか、ふだんの会話も実際にはほとんど噛み合っていません。むしろ、その噛み合っていなさ加減から、それぞれのキャラクターについて語られているいいましょうか。

 感情の繋がりや連なりもなく、ひたすら自分の事情や都合をぶつけあうだけなので、いわゆるふつうの演技のうまさみたいなものを発揮する機会はありません。『ニーチェ先生』を見ていたころは、駆け出しのアイドルをキャステングされることが多い深夜ドラマ向けに編み出された演出手法なのかと勘ぐっていたのですが、今は資質的にもともとこっちの人なのかなあと思っています。

 『ガンダム』や『エヴァンゲリオン』、もっといえばカウンターカルチャーには「結局、人と人はわかりあえない」ということについてなんとか足掻こうとしているところがあるけど、福田雄一はそこから生じるずれや行き違いをどうしようもなくおもしろがっているといいますか。

 もちろん、『アオイホノオ』は島本和彦の原作があるのですけど、脚本と演出を引き受けるにあたっては自分と近いものを感じたのでしょうし、あと、たしか『勇者ヨシヒコ』の次のシリーズも控えているはずなので、期待しています。
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