緒方直人や宍戸開のころはいきなり映画などに抜擢されても、実は親が緒方拳や宍戸錠だということは例えば週刊誌などの別のメディアから流れてきて、そういえば名字が同じだし顔もそっくりだよなといった感じで納得していた記憶があります。
その次の世代はバラエティ番組などで紹介されるときに、「お父さんは司会などでご活躍の関口宏さんです」とか説明が加えられましたが、自分から近親者の有名タレントについて話題にすることはなかったと思います。
その次となるといよいよ自ら積極的に言及するようになります。ここを代表するIMALUは両親の存在が大きすぎる(重すぎる)のに、それを中和する技術を持っていないため、場の雰囲気が異様にどんよりしてしまい、誰にもそれをどうにもできないどうしようもなさが唯一の見どころだったりします。
一方、いま話題の高畑裕太はいつかは越えるべき存在として母親を設定することで、二世という存在にかかる負荷をそれとなくアピールし、あわせて手にしている圧倒的なアドバンテージ(ふつうならオーディションなどをくぐりぬけてようやくスタートラインに立てるのに、そこを免除されていきなり歓待してもらえる)をなんとなくうやむやにするという高度なテクニックを披露していました。
彼はなんでもそつなくこなすし、このやり方がアリとなれば、効果的だけれど扱い方の難しい(濫用は視聴者の反感を招きかねない)二世タレントの起用について、新たな方法論が確立されるわけですから、テレビ各局はかなり期待を寄せていたのではないでしょうか。実際、騒動によって改めて明らかになった彼の売れっ子ぶりはその期待の反映といえるはずです。
今回、こんなことになってしまいましたが、おかげでこれ以上、二世タレントがのさばるのを見ずにすむと思えば、それはそれで悪くない気はします。
事件にあわせて、いろんなところでいろんなことが暴露されてますが、個人的にはテレビで見るぶんには「その手があったか」と感心しながら眺めていました。嫌いではなかったです。
ログインしてコメントを確認・投稿する