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2016年08月02日09:45

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(30)「人を優劣や価値で判断しない」

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(30)「人を優劣や価値で判断しない」

毎朝、花瓶の水を換えています。夏場は花も長持ちしません。色があせたり、花びらが落ちたり、形が崩れたり、枯れかかったりした花は、器の外に出してしまいます。ゴミ箱に放り込むのは忍びないので、裏庭の土に置くようにしています。それでも、そういう花は美しくない、価値がない、目を楽しませてくれる役目は終わった、と捨て去ってしまってよいのでしょうか。苦々しさはぬぐいされません。

ある政治家は障がい者福祉施設を見学したあと「ああいう人には人格があるのかね」と語ったと伝えられています。先日はあるところで19人の障がい者がつぎつぎに殺されてしまいました。容疑者は「障がい者はこの世界にいない方が良い」と口にしていたと報じられています。

わたしたちは学歴で人や自分を判断してしまいます。けれども、中学、高校の試験ができ、いわゆる良い高校、大学に入る以外にも、人生をゆたかにする方法はたくさんあります。自然のやさしさ・厳しさ・うつくしさ・枯れゆくさまに触れる、音楽・文学・絵画・演劇・映画を味わう、暴力や暴言を受けない環境が社会全体によって用意される、わらったり泣いたりする、苦労したり楽したりする、スポーツに励む、何かを達成する、何かを達成できなかった経験から何かを得る、好きな人がいる、一緒に生きる人がいる、花を美しいと思う、目標をもって生きる、一日一日を生きる、飯がうまい、酒がうまいなどなど。

聖書によりますと、ガリラヤという田舎出身ということでイエスを蔑む人々がいました。出自で差別し、そんな人が神のことを語ったり、ましてや、救い主であったりするはずがないというのです。

けれども、聖書は、首都エルサレムの権力者でもなければ学識者でもなく、そこから遠く離れ、辺境の地と差別されるガリラヤ出身で、自身も蔑まれたイエスを救い主として描いています。そして、このことは、神は人を優劣にわけず、誰であっても等しく愛を注いでくれることを示していると感じる読者は少なくないでしょう。

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