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2016年05月31日16:06

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(21) 「人間は何でもできるわけではなく、神は人間と同じではありません」

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(21) 「人間は何でもできるわけではなく、神は人間と同じではありません」

親は子どもを見て、自分の子どものころと比べます。よくやっているなあ、と感心する場合も多いかもしれませんが、自分の子どもだったらもっとできるはずなのに、どうしてこんなこともできないんだ、といらだつ場合も少なくないでしょう。

自分の子どもにはこうなってほしいという願いを親は持っています。それが、やさしい人になってほしい、生き抜く力を身につけてほしい、というようなものであれば、健全なのですが、何々大学に行かなければならないとか、何々の仕事に就かなければならない、というようなことになれば、それは、もはや、願いではなく、強要であり、下手をすれば、子どもの心身は押しつぶされてしまうことでしょう。

ここで、親はふたつの誤解をしているように思えます。ひとつは、自分と子どもが同じ存在であると思ってしまっているのではないでしょうか。だから、自分ができることは子どももできるはずだと思い込んだり、自分にとって理想のことを子どもにも強いたりするのではないでしょうか。

けれども、親と子どもは、あくまで別々の存在で、子どもの人生は親の人生とは別のこととして、尊重されなければならないのです。

もうひとつは、親には子どもの人生を創る力があるという誤解です。親は子どもに対して全能、万能であるという誤解です。

けれども、親は子どもに協力することはできても、進学、就職、結婚などの子どもの人生のひとつひとつの出来事を創り出したり、考え方、体力、運動能力、芸術能力、心理的枠組みなどのひとつひとつの特色を与えたりすることはできないのです。

親と子どもは、まったくの別人格であり、親は子どもに対して万能などではないのです。

聖書によれば、イエスが出てくる少し前から、ヨハネという人も活動していました。どちらも洗礼という宗教儀式も行っていたようですし、どちらも神に仕える生き方を促すメッセージを発していたようです。また、ふたりとも、人びとからメシア(救い主)ではないかと期待されていたようでもあります。

けれども、ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言いました。ヨハネは、イエスはメシアだが、自分はそうではない、と言って、自分とイエスをはっきりと区別します。ヨハネは自分とイエスを混同しなかったのです。

ヨハネはまたイエスを「上から来られる方」と呼び、神に属する者としましたが、自分は「地から出る者」、人間に過ぎないと弁えます。

そして、自分にはそのような力はないが、イエスなら人びとを神とむすびあわせることができると言います。聖書では人が神のいのちとつながっていることを「永遠の命を得る」と言い表しています。ヨハネは、自分にはできないがイエスは「永遠の命」を与えることができる、という意味で、イエスを全能の存在とみなしていたのです。

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