さてと、緊急連載「北方領土史」の第3弾。前回、「俘囚長」を打倒した鎌倉幕府は朝廷が推し進めていた「就農」政策を緩和し、「北洋漁業」を北の主産業として育成するために「後俘囚長」安藤氏を抜擢して「渡党(安藤氏配下の帰化アイヌ人組織)」を組織させたが鎌倉幕府が滅亡後、南北朝の動乱に巻き込まれて幕府側の南部・武田家に滅ぼされてしまい以後アイヌの反乱が頻発した、ってとこまでやった。今回はその続き。
1593年武田(蠣崎)氏は秀吉が送った奥州再遠征軍に参戦。正式に全蝦夷地の領有を認められ、ついで1599年に松前氏と名を改め松前藩を開く。ここで大きな転機がやってくる。それは1603年に
アイヌたちの「自由貿易」が禁止
されたことだろう。目には見えないがこれは実に大きな「転機」だった。これに鎖国が追い討ちをかけた。これに従って松前藩は従来の方針を捨て1637年に使者を送り1679年に陣屋(久春古丹)を築いて樺太の直轄統治を開始する。この直後から今に続く「異変」が始まるのである、それも誰が見ても「最悪」のかたちで(怒)!そうカムチャツカに
ロシア軍がやってきたのだ
。前回書いたとおり、遅くとも1500年代にはすでに松前氏の支配を嫌ったアイヌの遠征隊がカムチャツカに到着、着々と殖民を進めていた。そこへ1697年ウラジーミル・ヴァシーリヴィチ・アトラソフ率いるコサック部隊が攻め込んだ。もう無茶苦茶(怒)!いきなりやってきて女子供を人質にとってサヤク(朝貢品)を持って来い
殺すぞ!
だもんね。アイヌの村へ来て最初の命令が「誰でもいいから取り合えず50人殺せ」だった(-_-;)。これじゃ「サヤク(朝貢品)」じゃなくて「ヤクザ」いやそれ以下だっツーーの(激怒)!そして勘察加(カムチャツカ)・アイヌと交易してた日本船を次々と拿捕し乗組員を皆殺しにしだす。なのに何故か記録上では「難破船」「漂流者」にされちゃうんだからほんとたまんねーーよ(ToT)。冷静に考えてくれ、親潮(千島海流)の源流にあるカムチャツカへなんで日本から舟が流れていくんだ?ジョン万次郎は何処で救助された?みんな少しは「分析」ツウものをしようぜ。偽装記録で公表されただけでもこの時期4隻48人が殺害されている。実際はもっともっと多かっただろう。背景にはロシアが清帝国にボロ負けして1689年にネルチンスク条約で「全満洲」から叩き出された事実があるのだろう。
侵略「命」のロシア帝国
では負けっぱなしは許されないのだ。実際、この直後に摂政ソフィア・アレクセーエヴナは解任・幽閉されてる。だが、そんなのこっちにとってはただの
「大迷惑」な「八つ当たり」
だ。ほんと勘弁しろよ(-_-;)。1700年に松前藩があわてて勘察加(カムチャツカ)は自国領と幕府へ申請したのはこの「密貿易」を隠蔽するためだったに違いない。なのに松前藩は「役人根性」丸出しで、勘察加(カムチャツカ)を奪回しようとはせず事態を放置した。絶句。自国領じゃなかったのかよ?「渡党」なら確実に取り返しにいつてるぜ(怒)!そしてこれがロシアの「北方領土侵攻」そして「日本侵略」の発端になったのだ。で、その話はまた次回語ろう。とほほ。
おまけにみくしー検索かけてみました。
「ロシア軍」
日記 検索 (4件)ひっと。
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