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2016年05月16日17:29

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5-08 塔ノ岳 尊佛祭(尊仏祭) 尊佛岩(尊仏岩跡)

2016年5月8日(日)

第25回 尊佛祭(尊仏祭)に参加し、塔ノ岳の歴史を訪ねて歩く

寄(やどりぎ)→雨山峠コース→寄コシバ沢右岸尾根→鍋割峠→鍋割山(1273)
→小丸(1341)→大丸(1386)→金冷シ→
塔ノ岳(1491)

「第25回 尊佛祭」

→不動の清水⇔大金歩道
→「尊佛岩跡」→塔ノ岳→大倉


画像は
鍋割峠、尊佛祭、尊佛岩跡

山行アルバムを公開しております。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099442873&owner_id=12844177


0、1ヶ月半ぶりに山へ

ゴールデンウィーク中は素晴らしい好天に恵まれた日もあったが、諸事情により山に行けなかった。

塔ノ岳で毎年 開催される尊佛祭の日取りが今年は8日(日)で、天気予報は次第に好転して当日は高気圧に覆われて晴れるという。

山は1ヶ月半ぶりで足に不安はあるが、当日朝から塔ノ岳を目指す事にした。

表尾根や大倉尾根の混雑を避け、昨年と同じく雨山峠コースから鍋割峠へショートカットして鍋割山経由の登山道で塔ノ岳に向かう。

祭の開始時刻は昼12時で、昨年は余裕を持って40分前に到着できたが果たして今年はどうだろうか。


1、新緑の山肌と鍋割峠

小田急線 新松田駅で電車を降りて走り、寄行きの始発バスに駆け込むと乗客は10人ちょっとで空席も目立つ。

終点の寄(やどりぎ)で降りると鍋割山南稜に向かう人が多く、寄大橋を目指すのは先行した男性と自分、そして後続の男女ペアだけで安堵する。

川の清流は光を跳ねて朝陽に煌めき、山々は瑞々しい新緑に彩られて眩しい。
北には雲一つ無い青空に映える檜岳山稜を望む。
久々に目にする自然の清々たる配色に心洗われる思いだ。

準備運動を終え、7時半過ぎに出発。
しばらくは車道を歩くが今日は身体が軽い。

最近新しくできたらしい休養施設を見送り、犬を散歩させている御夫婦に挨拶して杉林の中の坂を上がると、先行の男性がいた。
この30代らしい男性とはその後も抜きつ抜かれつとなる。

雨山峠に向かう道は何度となく歩いており勝手知ったるコース。
途中で水遊びをする家族連れに出会い、御主人に「魚釣れますか?」と声をかけられた。
いつもポールを一本だけ持って歩いているので傍目には竿に見えるらしい。
以前、北丹沢の神ノ川沿いでも工事の交通誘導員の方に釣りと間違われたのを思い出した。

やがて寄沢を離れた左岸の尾根からは、柔らかく瑞々しい若葉の温気が立ち昇る山肌の美しさに暫し見惚れる。

木の梯子があるガレ場では4人の中高年男女が休憩していた。
かつて造林作業の人たちの休憩所であったという釜場平を抜けてひとしきり登った後は寄コシバ沢に出合う。
先程の30代男性の背中が見え、雨山峠の方へ向かって行った。

9時20分、ここから寄コシバ沢を遡る。
危険を示す看板があるが、鍋割峠、そして鍋割山へと短時間で行けるこのルートは貴重だ。
ガレ場を登り、やがて右岸尾根に乗って道形を辿ると鍋割峠の直下に至る。

ここは草地となって南の展望が大きく開けて気持ち良い。丹沢で好きな場所の一つだ。

緩斜面を登ると10時05分、穏やかな鞍部の鍋割峠に出た。
北の樹間に丹沢主稜線を望むこの峠はいつ来ても静かで、風の音と小鳥の囀りだけが聴こえている。

ここは昔、山奥の熊木沢や箒杉沢に入る杣人や猟師が越えていたという。
製材所ができると南の寄村と奥地の諸士平を繋ぐ径路として使われ、木材などを運ぶ人馬が毎日のように往来していたそうだ。
今では静かに佇む馬頭観音像と峠の南北に僅かに残る幅広の径路跡が往時の様子を偲ばせる。

峠から鍋割山の山頂までの距離は短いが急傾斜なので長く感じる。
展望は実に広闊爽快で、北に 盟主 蛭ヶ岳を中心とする丹沢主稜線の山並みを一望できる。
やがて山頂直下に至ると西の山並みの向こうに遠く富士山が浮かぶ姿も見える。

ここまでは鍋割山への裏道とでもいうべき静かな山旅を楽しめるが、この後はそうはいかない。
行き交う登山者との挨拶ラッシュが待っているので心の切り替えが必要だ。

また、疲れも無く順調に来たつもりだったが時間は少しずつ遅れ気味で気が焦ってきた。


2、一路 塔ノ岳を目指して

10時45分、鍋割山(1273)山頂脇に出る。
12時までに塔ノ岳に着かねばならないので素通りしてそのまま小丸(1341)、大丸(1386)が列なる稜線を景色も見ずにひたすら歩く。

大丸の周辺にはブナの大木があって雰囲気が良いが、立ち止まって見上げる余裕は無く、時計とにらめっこしながら急ぐ。

大倉尾根の金冷シに合流すると、やはり人はさらに増えた。
足は疲労を訴えているが、半ば意地になって階段道を登っていく。
照りつける陽射しの暑さの為か、大倉から登っている人達はかなり辛そうな足運びだ。


3、第25回 尊佛祭

11時50分、塔ノ岳に到着。

昨年よりも30分遅いが何とか間に合った。
尊佛祭はまさに始まろうとしているところだった。

尊佛祭とは、山北町の丹沢山東光院が主催し、秦野山岳協会が支援して挙行される登山安全祈願と遭難者慰霊の山上護摩祈祷である。

塔ノ岳の山頂標識の傍らにある狗留孫仏石碑は強風で倒壊した昔のお堂に代わって東光院が建てたものだ。
狗留孫仏は昔から祀られており、古い御堂の写真は昭和初期の貴重な写真書である「丹沢山塊」(塚本閤治)で見る事ができる。

今 山頂にある真新しい石碑は、大正12年の関東大震災翌年に起きた丹沢地震で大金沢に崩落した尊仏岩が、過去七仏薬師の一人である狗留孫仏を本尊として古来から山岳信仰の対象となっていた事から、新世紀の登頂初祈祷と尊佛祭再興10周年を記念して2001年に建立された。

(詳しくは昨年、及び一昨年の日記に書いております。)

今回は第25回で一つの区切りという事もあってか、秦野山岳会の方の話が長い。
塔ノ岳の山名の由来、雷への対処法、山小屋利用の奨めなどに話は及んだ。
また、丹沢山みやま山荘の小屋番である石井さんも祭りに途中参加となった。

今年も山頂には多くの登山者が犇めいているのに、祭の関係者を除く一般参加者は自分含め20人程度だろうか、物珍しさからカメラを向ける人もいるが、ほとんどの人は法螺貝の音が響こうが鉦が打ち鳴らされようが全然関心が無さそうだ。

もっとも、住職も山岳会も山頂の人々に声をかけて回って祭に参加してもらおうというほどには普及に積極的でない様子。

そして参加している自分とて、住職たちの読経の最中に疲労と暑さの為か頭が少し朦朧としてしまい、ふと我に返った時にはこの後の御神酒の乾杯が楽しみになったというのが正直なところだ。

「丹沢山」の御神酒を二度おかわりしたのだが、帰りに車を運転するという女性からさらにコップに注ぎ足されてしまった。
少し残して空のペットボトルに移し、いつもの儀式に備える。
御札をもらい、御守りも2つ購入した。

散会となり、山頂はいつもの風景を取り戻す。

自分は今日の主目的は果たしたので、気が抜けてしまってそのまま座りこんで昼食とする。

山頂には老若男女が行き交い、その多くはグループで和気藹々としていて何とも賑やかな山頂だ。


4、不動の清水

たっぷり食べて、塔ノ岳西尾根の水場 「不動の清水」に向かう。
山頂から西に300m下ったところにあるこの水場は、かつては尊佛岩への参拝者が身を浄める場所だったが、山頂からブナや雑木林が消失した今では水は か細くなっている。

盛りを過ぎたマメザクラを眺めながら少し下れば、もう山頂の喧騒は忽ち彼方に遠ざかる。

花が一際多く咲いている木を眺めて「散りゆくサクラの…」と一句吟じて愛でている男性二人がいたので「いいですね」と声をかけると一人の男性と立ち話となった。
聞けば水場で水を5リットル補給してきたとの事だ。尊仏山荘の事情にも詳しかったので、よく歩かれている方なのだろう。

昼を過ぎて遠くの空が微かに白く霞みはじめたが、山々の景色はまだ鮮明で陽射しも強い。
水場のベンチには一人先客がいた。自分はもう1つのベンチにザックを置き、水を補給する。

いつもより水量が多く、ペットボトルは忽ちいっぱいになった。
この水場の周りではいつもカエルが気持ち良さそうに鳴いている。

ベンチに戻り、湯を沸かしてカップラーメンを食べ、続いて即席おしるこカップも食べる。

やがて、住職と山岳会関係者一行が下りてきた。
彼らは毎年ユーシンから塔ノ岳西尾根を往復している。
「丹沢の午後は(天候や景色が)ダメになるね」と声が上がり、「車のとこまで天気がもてば良いな」と応じる声が聴こえたが、今日の空には天候が崩れるような気配は無く、薄雲を通して陽射しが強い。

一行が去って静かになったのでベンチに寝転がる。近くの草叢ではトカゲが盛んにカサカサと動いている。
朝から陽射しを浴び通しなので身体は火照り、食べ過ぎたので動くのが億劫だ。

しばらく寝そべってから再び水を補給しに行くと、もう1つのベンチにも男性が寝転んでいた。


4、大金歩道と尊佛岩跡

14時、大金歩道と呼ばれるかつての尊佛岩の賽路に向かう。

「西方玄倉部落でも孫仏山へ登拝して雨を乞ふといふことは滅多にありません。で普通一寸した旱天には村端れのタツマの堰堤で行はれます。…(中略)…其処でどうしても験がないとなるとさあ大変なことになつて愈々全村あげて孫佛山へ雨乞ひの大遠征隊を繰り出すと云ふ騒ぎになります。…(中略)… 全村と云つても約五拾人位の村民が集って心からなる雨乞ひの目的達成と無事登山の祈願をこめられて愈々先達を眞先に塔ノ岳目指して出發するのです。それを見送る女房や小供たち、何とりりしい却々愉快な風景ではありませんか。
蜿蜒と続く一行は「六根清浄」の掛け声も勇ましく山神峠を越えて玄倉川左岸の中腹を辿り逆木から川添ひに諸士平へ出てそれから熊木の落合を経て箒杉澤に這入り、金澤から塔ノ岳への尾根に取り付くのです。」
山と渓谷40号 「丹澤 塔岳雑談」(坂本光雄)(昭和11年)より抜粋

西尾根を北西方向に外れていくとやがて明瞭な尾根となり、ザックを早々とデポして空身で尾根を下る。
この尾根が前述の大金歩道で、すべて自然林で新緑が美しい。
かつての径路跡をうかがわせる石積みなどは無いが、唯一、昭和二十四年(?)と彫られた「左 ユーシン 右 塔ヶ岳」の石標がある。どこかの同好会が建立したものらしい。

右に水量豊富な大金沢を見下ろしながら下ると目的の巨木が見えてきた。
(これまでずっとクロマツかと思っていたのだが、同じマツ科でもどうやらツガらしい、と後でわかった。ここを訪ねるのはいつも昼過ぎで木が逆光の中にある為に樹皮がかなり黒く見えていて、ツガよりもマツに見えた。)

ツガの大木は丹沢でよく見かけるが、多くの場合、尾根筋などに立ち並んでいる。しかし見たところこの木は孤高の佇まいで、その抜きん出た樹高で辺りを睥睨するかのようなその姿には まさにこの径路の守護神と呼ぶべき存在感がある。

尊佛祭の日にこの木に詣でる事は自分にとって大切な行事だ。
久闊を叙して御神酒を供え、太い幹に触れて見上げる。

尾根を再び登り返すと、シロヤシオの花が咲いているのに気づいた。
五葉躑躅の名の通り葉は5枚で、花は清楚可憐で愛らしい。

見回して歩くと其処此処にシロヤシオが咲いており、どうして下りでは気付かなかったのだろうと訝しく思うが、惜しむらくは空が白く霞んでいる為に写真にうまく撮れなかった事だ。

ザックを背負い塔ノ岳西尾根に合流して不動の清水まで登り返すと15時半、もう誰もいなかった。

水を再び補給し、少し木段を上がったところから登山道を外れてトラバースを開始する。

尊佛詣りの賽路は、大倉からは大倉尾根を登り、金冷シ付近から塔ノ岳山頂直下の西斜面をトラバースし、不動の清水に出てそのまま直進して尊佛岩に通じていた。
一方、玄倉からの賽路も先程歩いた大金歩道から不動の清水に出て、同様に尊佛岩に向かっていたという。

関東大震災(1923年)と翌年の丹沢地震により丹沢山地は激震に見舞われ、各所で崩壊が起きたが山腹に付けられた水平径路や峠道は崩壊が著しかったようだ。

不動の清水から尊佛岩に向かう水平径路も今や崩壊地に呑まれて跡形も無い。
もちろん踏み跡や赤テープも無い。
ただ旧径路をできるだけ忠実に辿りたいという思いだけでここを歩くのは3回目だが、今回は非常に危うい綱渡りとなってしまった。

最初に現れる赤土の崩壊地は草付きの斜面まで登って躱したが、次に越えなければならない崩壊地では目測でそのまま行けると判断したのが誤りで、トラバースの途中で進退極まるという危地に陥った。

足下はグズクズと崩れる赤土で、露岩に掴まろうにも手をかけると鋭い破片となって剥離する脆い岩質、下は大金沢の源頭部に切れ込んだ溝が長く下まで伸びており、立ち木も無いので転落すればたぶん止まらない。

見上げれば塔ノ岳山頂付近の稜線は見えているが、よもや山頂直下の急斜面に張りついている者がいようとは誰も思うまい。

横方向に進むも退くも叶わないとなれば、もう登るしかない。
靴を蹴り込むようにして足場を作り、岩を掴んで剥がれない部分を探し、少々ぐらつくホールドに半ば命を預けるつもりで思い切って身体を引き上げる。

心許ない岩に手を掛けながら何度か躊躇したが、しがみついて登る以外の選択肢が無い状況の中で、日頃からの上半身の筋トレの成果を今こそ生かすぞ、との思いだけを頼りに四つん這いで登り続ける。

ようやく斜面から横に張りだした立ち木に身体を乗せた時にはホッと安堵したが、この後も急傾斜のガレの溝を越えなければならず、全く気が抜けない。もう来年からはここを歩くのは止めよう、と思いながら進むと、コイワザクラの群落が見えてきた。

紫色の小さな花が幾つも寄り添ってそよそよと風に揺れる様は、荒涼とした岩肌に文字通り花を添えている。

尊佛岩跡を訪ね始めて3年、毎年この可憐なコイワザクラにどんなにか心癒されている事か。自分にとっては5月の塔ノ岳の風物詩となっている。

花の写真を撮りながら進むと、在りし日の尊佛岩を彷彿させるような岩塔が見え、ここまで来ると岩跡は近い。

16時。下方に岩跡を見い出し、1年ぶりに対面する。

前述の「丹澤 塔岳雑談」から再び続きを引用する。
不動の清水からこの日自分が四苦八苦してトラバースした斜面は、坂本光雄氏は昭和初期の当時既に「クドレていて通行不能」としている。

「そして(村民一同は)不動尊の祀れる水場、所謂ミタラシで口や手を清め右に山頂へは登らず、左へ場悪るのみちを樹木に跨がり岩に這ひすがりつつして孫佛岩に達するのです。軈て孫佛様の前に集った村民一同は先達の聲に和して「アーメを乞ひしやソンブツサン、雨がおおきに降つて来たー」と云ふ唱文を千繰りと云つて雨が降つて来る迄繰り返して唱へます。さてそれでも中々験が現れないと成ると愈々最後の切札として先達を眞先に皆の者は後から順繰りに例の雷穴を掻き廻すのです。すると如何に晴れ渉つていた蒼空でも見る見る裡に曇り出し遠雷が鳴り響いて来たかと思ふと、やがて大粒の雨がザンザンと降つて来て山麓の田畑を潤ほすと申します。以上の雨乞ひ行事は明治の末年頃まで行はれていたさうです。(玄倉村の諸星梅吉翁、同勇氏、同太助氏の談)」

かつて近郷の農民庶民の崇敬を集め、雨乞いだけでなく病気平癒にも験があるとされた尊佛岩。

件の資料には尊佛岩について 以下のようにも記されている。

「何しろ足柄上、中、愛甲の三郡に跨がつた塔ノ岳の孫佛様はその山麓一帯の廣大な地域に亘つた村民に養蚕や雨乞ひ或ひは疾病回復の神様として非常に崇信せられて居りましたので、孫佛様の祭禮は相模國内随一と稱されて祭禮当日は山上に賑はふ盆茣座さへも敷かれたものだと云はれて居ります。孫佛様はまた勝負の神様でもあつたのでせう。」

祭の5月15日(昔は5月1日から月末まで)には大倉尾根で関八州の親分衆が勢揃いしての盛大な野天博打が行われ、尾根筋には酒屋、蕎麦屋、饅頭屋、菓子屋、おもちゃ屋、水を売る露店が犇めき、さらには山頂での踊りや歌も加わって殷賑を極めた尊佛詣り。
先づ孫佛様に詣でた村人は懇ろに「家内安全、村内安泰、五穀豊穣」の祈願をしてから持参の酒肴で無礼講の酒宴が盛大に催されたという。

当時の熱気は遠く歴史の彼方の風となり、今はただ黙して語らぬ二体の石仏が、かつての岩跡に鎮座して安寧の時をひっそりと守り続けている。

マイミクのみあままさんから「石仏は胎蔵界大日如来の印相ですので『おん あびらうんけん』の言葉を唱えてみてください」と言われたので、唱えてみた。
この呪文は大日如来への祈りの言葉で、「あらゆる事が成就されますように」の意という。

暫く佇んで物思いに耽り、登り返して安全な道を探しながら塔ノ岳の稜線を目指す。

斜陽に照らされて陰影を深める岩肌の凹凸に鈴なりに咲いたコイワザクラを愛でながら、北に丹沢山から蛭ヶ岳まで、丹沢山塊の脊梁の全貌を望む。

やがて草原の中に一筋の小径を見つけて忠実に辿ると、塔ノ岳北側の登山道に飛び出した。


5、無人の大倉尾根を下る

塔ノ岳の山頂には2、3人の人影があるだけで、草花の生えない荒涼とした大地には早くも冷気を帯びた西風が吹きつけている。
端に座ってカロリーメイトを頬張り、去り際に山頂を振り返ると、もう誰もいなかった。

靴紐を結び直し、17時ちょうどから大倉尾根の下りにかかる。
立ち止まると疲労による足の震えを感じるので、休まず着実に下り続ける。
いつもこの長い尾根下りにはうんざりして脂汗が出て来るのだが、今日は心の余裕があって苦ではない。

尾根の下部には「一本松」という場所があり、かつては大きな松があったそうだが、昭和9年の台風で倒れてしまったとの事だ。
今回は周囲をじっくり観察しながら歩いていて気づいたのだが、尾根中盤にはアカマツの木がとても多い。

大倉尾根では遅い時間でも大抵 数人程度には出会うのだが、この日は二度ばかりシカの足音を聞いただけで、誰にも出会う事は無かった。

無人の塔ノ岳、無人の大倉尾根。
昼間は大賑わいな山だけに、束の間の静謐を取り戻した山道に流れる貴重で好ましい時間を独り満喫する。

すっかり暮れ落ちた大倉バス停に着いて腰を下ろすと、何気なく向けたライトのすぐ傍に蹲る猫を発見して驚いた。

1年前にも夜間下山した時に寄ってきた人なつっこい猫だ。最初からそこにいたのか、あるいは気づかないうちに後ろからついてきていたのか。

まさか自分を一年前に会った人間だと認識したわけではあるまいが、猫好きとしては嬉しくて、手を伸ばして頭を撫でた。

ところがロータリーを回ってバスが入って来ても、歩道との段差の下に蹲った猫が動かない。
不審を感じて自分も段差を下りて今度は両手で猫の身体をさすったが元気が無いのか眠いのか、ほとんど動かない。頭を持ち上げると少し反応したがまた臥せてしまった。

後ろ髪を引かれる思いでバスに乗り、バスが発車してから「最終バスの時間まで一緒にいてやれば良かった」と強い後悔に苛まれる。
しかし身体が疲れきっていたので、渋沢駅に着くまでにいつしか眠りに落ちてしまった。

あの猫は今も元気だろうか。あの時はただ眠いだけだったのなら良いのだが。
願わくは、また大倉で会いたいものだ。


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(4月〜 事務局長)
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