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2016年04月02日07:48

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月僊和尚のi偉大なるケチ



伊勢の寂照寺の月僊(げつせん)和尚は僧としてより、画の名人として知られていました。何を書いても素晴らしく、しかも気品の高い絵でした。

しかるに和尚は絵を頼まれるとすぐ、いくらくれるかを交渉して金に執着しすぎるので、人は絵を激賞しながらもその人格を卑しんで、乞食月僊と仇名をして爪はじきしていました。

ある日、伊勢古市の遊女松ケ枝が月僊を呼んで、「和尚さん、これに描いてください」と言って白ちりめんの腰巻を出しました。和尚は「はいはい、画料1両2分です、よろしゅうございますか。では念入りに描きましょう」と腰巻を持って帰って、3日ばかりの内に見事な花鳥を描いて以てきました。これには松ケ枝も驚き1両2分を黙って投げ出すと、和尚は押しいただいて貰って帰り、そのことがパッと世間の評判になりました。

同じころ、京都に住んでいた池大雅は、かねて月僊の絵を尊敬していたので、その悪い評判を耳にして心を痛め、伊勢参宮に名を借りて月僊を訪ね、和尚の絵はまったく非凡であると誉めたたえたあとで、僧侶は無欲奉仕を旨とすべきであるのに、乞食と言われてもなお、金に執着するのは良くないと注意しました。その好意に、月僊も深く打たれたようでありましたが、少しも改まりませんでした。

そのころ、荒れはてた伊勢の参宮道路および橋などが修繕されたり架けかえられたりしていて、参拝者も近所の人も助かり、それをだれもが奉行所の仕事だとばかり思っていました。

そして月僊和尚は、文化6年の正月69歳で亡くなりました。死後遺物の中から、領収書や契約書・設計書などたくさん出てきて、それが全部参宮道路と橋の普請に関するものばかりで、乞食と軽蔑されながら社会奉仕をした彼は、にわかに尊敬されるようになりました。


・・・・以上、村岡満義「私と論語300選(上)」より。


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