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2016年03月31日11:32

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最近、考えたこと。Part0035


 さてと、話を続けますか。前回、「殯宮の制」と「八幡さま」の大勝利までいった。経緯については以前述べたのでそのとき国内では何が起こっていたのかについて語ろう。古代における「総本拠地」外への「遷宮」事例は以下のとおり。


「総本拠地」    初代神武天皇 紀元前60年?〜 推定254年間
                   ↓
奈良県奈良市  第09代開化天皇 西暦0195年?〜 推定 32年間 統一戦争
                   ↓
「総本拠地」  第10代崇神天皇 西暦0227年?〜 推定100年間

滋賀県大津市等 第12代景行天皇 西暦0327年?〜 推定 35年間 韓国建国戦争
                   ↓
「総本拠地」  摂政・神功皇后  西暦0362年 〜 推定 17年間
                   ↓
大阪府大阪市  第15代応神天皇 西暦0379年?〜 推定 49年間 対高句麗戦争
                   ↓
「総本拠地」  第17代履中天皇 西暦0428年 〜     5年間
                   ↓
大阪府松原市  第18代反正天皇 西暦0433年 〜 推定  5年間 (大阪廃都)
                   ↓
「総本拠地」  第19代允恭天皇 西暦0438年?〜 推定 16年間
                   ↓
奈良県天理市  第20代安康天皇 西暦0454年 〜 推定  3年間 (眉輪王の変)
                   ↓
「総本拠地」  第21代雄略天皇 西暦0457年?〜 推定 32年間
                   ↓
奈良県天理市  第24代仁賢天皇 西暦0488年?〜 推定 10年間 (皇子帰朝)
                   ↓
「総本拠地」  第25代武烈天皇 西暦0498年?〜 推定 09年間
                   ↓
大阪府枚方市等 第26代継体天皇 西暦0507年?〜 推定 19年間 (正統入都)
                   ↓
「総本拠地」  第26代継体天皇 西暦0526年?〜 推定126年間
                   ↓
大阪府大阪市  第36代孝徳天皇 西暦0652年 〜    03年間 (百済救援戦争計画)
                   ↓
「総本拠地」  第37代斉明天皇 西暦0655年 〜    12年間
                   ↓
滋賀県大津市  第38代天智天皇 西暦0667年 〜    05年間 (壬申の変)
                   ↓
「総本拠地」  第40代天武天皇 西暦0672年 〜    37年間
                   ↓
奈良県奈良市  第43代元明天皇 西暦0710年 〜    74年間
                   ↓
京都府向日市  第50代桓武天皇 西暦0784年 〜    10年間
                   ↓
京都府京都市  第50代桓武天皇 西暦0794年 〜  1074年間
                   ↓
東京都千代田区 第0124代明治天皇 西暦1868年 〜
                   ↓
現代・東京時代 第0127代今上陛下 西暦2016年  今年で149年目


 「八幡さま」こと応神天皇が対高句麗戦争の大本営として建設したのが難波大隅宮つまり大阪府大阪市だ。道が悪く外洋航海が酷く危険だった時代、大動員を駆けるためにはに内陸水運を使うのが最良の手段だったので淀川水系と琵琶湖水系を全体の半分で使える東海道が瀬戸内水運と並ぶ日本の大動脈となった。琵琶湖水運の末端の滋賀県大津市と淀川水運・瀬戸内水運の結節地である大阪に古代たびたび首都がおかれたのはこれが理由だ。この状態は基本的に海運が再編成される室町時代後期(戦国時代中期)まで続いた。そして何が起こったのか?それは


「武士(もののふ)」の勃興


だった。当たり前だろ、「戦争」やってんだから。一般の日本史では平安時代中期になーーーんの説明もなく「侍」たちが「突然」現れるが、人には親が居て、物事には順番と言うものがあるのだ。何事も「突然」なんてありえないの、いいかげん理解してほしいわ(-_-;)。ちょっとここで当時の国内制度について概説しておこう。神武東征によりわが国が建国されたとき、皇室の周囲は九州の「豪族」だったころから使えている譜代の家来たちが周囲を守っていた。それを率いて神武様はおん自ら白刃をふって戦い大和国(奈良県)を平定なされたわけだ。ところが残念なことに、本来大和軍の中核になるべき「譜代の家来」たちは以前書いた「タギシミミノミコトの乱」で反乱軍に参加して壊滅してしまう。以後大和軍の中核は皇室自身の支族(分家)と皇室に降伏した大和地生えの豪族が司る事となった。これが「臣(おみ=おんみ、つまり皇室の分家)」と「連(むらじ=連なるもの、つまり皇室の協力者・同盟者)」だ。これらの下に居る伴造(とものみやつこ=ともに造り上げる人、つまり技官・エンジニア)、百八十部(ももあまりやそのとも=多くの仕事をする人、つまり職人・棟梁)、国造(くにのみやつこ=国を作る人、つまり開拓団長)、県主(あがたぬし=あがなった地の主、つまり皇室に降伏した豪族)と共にこれを


「姓(かばね)の制」


と呼ぶ。おそらく「血筋・家系=株根=かぶね≒かばね=姓」だろう。最初は、日子(ヒコ=太陽の子、つまり皇子、彦)、日女(ヒメ=太陽の娘、つまり皇女、姫)、根(ネ=血筋の良い人、禰)、見(ミ=美しい人、美、耳、彌)、玉(タマ=輝く人、多模)、主(ヌシ=地主)、守(モリ=守る人、母理)、古利(コリ=古くから居る人・先輩、凝)、戸部(トベ=家を持ってる人、戸畔)、岐(キ=義理堅い人、支)なんて呼ばれていた豪族や棟梁たちは古代皇室の開拓や制覇行によって根・見・玉が国造に、主・守が県主に、古利・戸部・岐が伴造へと統合されていった。実際これしかなかっただろう。なにせ、「文字のない時代」だ。つまり「学校も教科書」も「ありえない時代」なんだから。教育は「家庭教育」しか存在できず、「法」も「技術」も北斗神拳とおんなじように「父子相伝」するしかなかったわけだ(-_-;)。おれたちゃ良い時代に生まれたね。造ってくれた祖先に感謝だ(笑)。ま、この制度にもそれなりに良いところもあるのだ。それは「子供の負担」が今よりずーーと軽いことだろう。親父の真似してれば良いんだからね(笑)。「お家=学校」で「親父=先生」だ。まさに習うより慣れろ、学ぶより真似ろだ。すごくしっくりくるに違いない。日本に長く続く「学者」や「職人」の家系が多いのはこんなところが原因なんだろう。この状態は一部例外(語学技術者)を除けば建国から1000年ほど続き、最終的に終了したのは145年前の明治4年(西暦1871年)の話だ。

 ちょっとずれた。話を元に戻そう。始まった戦争を「統帥」するためには「将軍」を任命し「指揮権」を与えなければならない。そして兵站補給、今で言えば「軍需動員」
を可能にするために「国内」の統制権を与えなければならなくなった。それを与えられたのが「連」の中の有力氏族である物部氏と大伴氏であり、与えられた者を「大連(おおむらじ)」と呼ぶ。皇室の側ではこれに対するカウンターバランスとして「臣」の中の有力氏族から「祭祀」を補佐する者を選んだこれを「大臣(おおおみ)」と呼ぶ。なんか聞いた話だと思わないか?そう、


この「大連」こそ「征夷大将軍」の原型なのだ。


「幕府」は古代、統一直後の4世紀からすでに始まっていたのである。少し飛ぶが後に「大連」の制度は一時廃止されてしまうが東北アイヌの統合のために「征夷大将軍」と言う形で東北限定で復活した。初代の「征夷大将軍」の名は大伴弟麻呂は「大連」大伴金村の6世孫(ひ孫のひ孫)だ。それを後に初代鎌倉将軍・源頼朝が受けついで「承久の変」で全国統治を施行して「幕府」を復興させたわけ。だから言ったでしょ。何事も「突然」なんてありえないって(笑)。さてと、今日はここまでにしときますか。続きはまた次回語ろう。とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。 ヒットあったけど全部チャイナの大連市の話の様な気がする。とほほ。

 「大連」

日記 検索 (5件)ひっと。
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