織田正信の『GISSING』を読了。『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫)しか読んだことがないから、ギッシングを外に何か見つけたいと思う。
せっかく『鷗外選集第十巻』を見つけたのだから、板倉鞆音訳の『クラブント詩集』と較べてみた。鷗外は十一篇訳していて、それらは≪すべて彼の処女詩集「曙だ! クラブントよ、日々の夜明けだ」のなかに見出されるもので、一九一三年(大正二年)にベルリンのエーリヒ・ライス書店から出版された七○頁の詩集には五四篇の詩が収められている≫(富士川英郎「詩集『沙羅の木』について」)そうだが、鷗外が訳したのは大正三年であるのに驚く。一方板倉訳がどの本によっているのか、同じ本でないことは詩篇の数でわかるのだが?(聞いたことがあるようなないような)。
同じ詩を訳しているのは以下の四篇。(まだあるかもしれない)
「己は来た」鷗外 「おれは来た おれは行く」板倉
「熱」鷗外 「熱」板倉
「物語」鷗外 「バラッド」板倉
「川は静に流れ行く」鷗外 「川は静かに」板倉
この中の鷗外訳「物語」の冒頭。
己の父は船頭だつた。
己の母はオランダから来た。
そして金(きん)の重さの明るい髪をしてゐた。
板倉訳「バラッド」では
おれの親父はあざらしだった
お袋はオランダからやってきた
金髪が金のように重かった
「船頭」と「あざらし」? 「あざらし」はドイツ語では「seehund」らしいが、船頭の意味もあるのだろうか。それとも鷗外は「あざらし」ではおかしいので「船頭」にしたのかしらん。原文がないのでわからない。あってもわからないけど。
富士川英郎によると、≪日常の言葉で、近代人の生活を歌う彼の詩風は、デーメル以来のドイツ近代詩の流れの一面を承けついだものであるとともに、やがてリンゲルナッツやケストナー等の所謂ノイエ・ザハリヒカイトの詩の一種の先駆をなしているである。≫だそうだから、リンゲルナッツやケストナーを訳してきた板倉鞆音は、少し遡ってみようとしたのだろうか。
富士川の文章に、鷗外の「前口上」の一節、
晩になると、己はボタンの穴に
ダリヤの花を挿して、魂を連れて散歩する。
己の名はスタニスラウスで、
魂の名はアマリイと云ふのだ。
を、室生犀星が『愛の詩集』(大正七年)の「大学通り」のなかで、
クラブントといふ独逸の大学生は
ボタンの穴に大きなダリヤの挿して
人ごみのした街を無邪気に歩いたといふ
その詩のことなぞも考へられるのであつた
使っていることが紹介されている。
『獨逸近代詩集』片山敏彦編(昭和十六年十月二十日ぐろりあ・そさえて)にはクラブントは二篇だけ収録されている。「五月」「イレーネのための子守歌」で、どちらも竹山道雄の訳である。板倉『クラブント詩集』には「イレーネ頌歌」という連作が収録されているがそれには含まれていないようだ。
結局何もわからずでありますが。
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