「静かにしている」つもりが、ゆえあって出かけることに。とあるところで拾うものがないなあと思っていたらお店の人が追加してくださった。 『棺桶ひとつ』高木護(一九八七年五月一一日未来社)。高木本はどこでも高くはないですけど、百円とは格別であり
昨日、『続紙魚放光』の夢二の表紙を見て、アレ!似てるなあと思ったら、 『改訂續金色夜叉』長田幹彦の表紙も、ハンカチで顔を覆って泣いている絵柄でした。 こうゆう本に古本まつりの百円均一台で出会いたいな、と思ったらことごとく消えてしまって、残
まだ梅雨明けして間もないのにもはや夏バテか。いかにもはやすぎる。ごろんとしてこれながめている。 『続紙魚放光 尾上蒐文洞追悼集』。 谷澤永一さんは「本好き人好き」に、≪戦後の四十年を通じて、大阪の古書界は、百貨店における即売会が中心であっ
『M/Tと森のフシギの物語』(岩波同時代ライブラリー)のあとがき「語り方の問題」で、≪私が専心したのは、自分の記憶の耳と魂のなかに響きつづける祖母の語り口を、新しい小説の語り方(ナラティヴ)として再現することでした。それも、仏教のテキストに
大江本の15冊目はこちら(の予定)。 『M/Tと森のフシギの物語』(1990年3月9日岩波同時代ライブラリー)。 そうそう、先日古書会館で、すでに元版を持っているのに500円の値段に惹かれて買ってしまいました。 『ヨーロッパ文学講義』ナボコ
みどりのカーテンにはなっていません。 『人生の親戚』でもいろいろ引用されているのでひろい出してみると。 フラナリー・オコーナー、『神曲』岩波文庫、ショパンとサンドの話、「罪と罰」ドストエフスキー、「マクベス」、コールリッジ「悔恨」、スコッ
これらは最近買ったのではなくて、出版当時に手に入れていた大江本で、積み上がった底から掘り出してきたものだ。記憶のなかでは1967年の『万延元年のフットボール』だけが鮮明で、それ以降は大江本を手にしなかったと思い込んでいたのだが、1979年
「意外になが生きして」 八十歳にひとつきあまし ひとにはほこれるものは何もなく おのれにほこれるものは、 運だ。 あれ、 これ、 それ、 をさけることはできた。 そのくらいのことか。 そしてと
大江健三郎『河馬に噛まれる』(1985年文藝春秋)の一篇「河馬の昇天」にこんな件がある。≪「鑑賞世界名詩選」というシリーズの、深瀬基寛著『エリオット』。この本は、僕が大学に入った年の秋に、筑摩書房から出た。おなじ著者による『オーデン詩集』
『蒐書散書』坂本一敏(一九七九年三月十五日書肆季節社)署名落款、装幀政田岑生。 「上方漁書記」の「神戸」冒頭は、≪神戸の中心地省線元町駅で降りるとすぐ駅の近くに快男子黒木正男氏の黒木書店がある。明治大正文学、趣味本を中心とする店で、書痴が
この夏は、メグレ物が手に入らないので、こちらを揃えて一気に読もうと思っている。 あちこちの均一文庫台からなんとか4冊は確保したのだが、『夜の蝉』がまだ見つからずスタートできない。すでに蝉しぐれがにぎやかなのに困ったことだ。
図書館に『大江健三郎自選短篇』岩波文庫を返却する前に、どうせやるならと『河馬に噛まれる』所収の「「河馬の勇士」と愛らしいラペオ」の異同を数えたら、105ヶ所もあった。ずいぶん多い。 まだ途中なのだが、気になることがあって『さようなら、私の
これを見たら誰の本であろうと買うだろう、私の場合は、ですが。 『歌集 みたみわれ』影山正治(昭和十六年四月十日ぐろりあ・そさえて)。装幀は棟方志功。日本の古本屋に20件近く出ている中に函付はなく、「特装三百部限定」も見あたらない、とまあそ
雨の中を古書会館へ。久しぶりに詩集を二冊購入した。 『かっぱの皿』山田孝(昭和二十九年八月十五日時間社)裸本(函、帯、付録欠)、装幀は鐡指公藏。山田孝の略歴、≪1925年(大正15年)3月、中華民国天津市に生れた。同地の小、中学校を経て、
五反田遊古会の目録は毎回たのしみにしている。 今回は、月の輪書林の特集が面白い。 「女流詩人★丹塚もりえ旧蔵品小特集」、≪東京裁縫女学院勤務のかたわら井上康文の詩集社(沼袋)に出入し、詩を書く。明治36年生れと推定。本名、鬼塚もりえ。≫
版元に予約していた本が届いた。 『天野さんの傘』山田稔(二○一五年七月十八日編集工房ノア)。装幀が林哲夫さんだった。 「天野さんの傘」の最後にこんな詩が。 《エーリッヒ・ケストナー作「雨の十一月」(板倉鞆音訳)の改作》と注がある。板倉訳の
下鴨の前にあったのですねえ。 「さんちか古書大即売会」の目録が届きました。7月30日〜8月4日まで。今回はトンカ書店さんも参加されるようで、品揃えが魅力的です。 『兵庫神戸のなんどいや』林喜芳(冬鵲房)も出ています。 さて、どうしましょう
「平成文学・私が選ぶこの10冊」(『能は死ぬほど退屈だ』)で小谷野先生は、≪これは私の持論だが、文学作品のよしあしに普遍的基準などというものはなく読者の生きている時代と地域、年齢、経験、嗜好などによって評価が違ってくるのが当然なのである。
土曜日に図書館で借りてきたのはこちら。 『能は死ぬほど退屈だ』小谷野敦(2010年11月20日論創社)。前半の演劇論は知識もないのでよく分からないところもあるが、文芸関係の短文は実に面白い。「荒川洋治がまたやってくれた」にこんな詩が紹介さ
昨日のこと。朝から図書館へ。 図書館ロビーでは「富士正晴 絵はがきになった16作品 原画展」が開催中。昨秋の講演会のときに絵はがきが販売されセットで購入したが、それの原画と富士の手がけた装丁本とそのもとになった絵が展示されている。なかには
今日は京都で「スムース再結成トークライブ」が開催される。残念ながら参加できないので、『sumus』を引っぱりだして眺めることにでもいたしましょう。
前々から気になって、見かけたら買おうと思っていた文庫。天三のT書店、岩波文庫が大量に入荷したのか、平台にずらりと並んだ中にありました。 『大隈言道歌集 草径集』(1991年10月9日第二刷岩波文庫)。校訂者正宗敦夫は解題で、≪佐々木信綱博士
T堺の均一初日に行ったところ、古本Kさんと古書Yさんには出会いましたが、これはという本にはであえず。しかたがないので未読の大江本を三冊仕入れて引き続き読む本を確保しました。 『燃えあがる緑の木』は第三部が欠けていますがそのうち見つかるでしょ
大江の『新しい人よ眼ざめよ』文芸文庫を読んでいる。この連作集からは四篇が岩波文庫の『自選短篇』に選ばれており、著者がおもきを置いていることがうかがわれる。なかの一編「落ちる、落ちる、叫びながら……」を読みおわり、思いついて『自選短篇』との
少し前に天三のT書店の百円台から拾ってきた。 『De Luxe われらの文学11 小島信夫』(昭和四十四年十月十二日講談社)。『われらの文学』といえば白い函にビニールカバーが掛っていた姿しか頭になかったのですが、「De Luxe」版が出ていたのですね。
図書館から借りてきたのはこちら。 『大江健三郎自選短篇』(2014年8月19日岩波文庫)。800ページをこえる大冊。あとがきで、≪私にとって読み直すことは部分的にであれ書き直すことです。いま短篇小説の総体からある数を選んで(そのようにして
T堺船場店でこちらを買った。 『戦後文学と編集者』松本昌次(1994年11月16日一葉社)。未来社の編集者だったときに関係の深かった著者について書かれた短文の集成で、登場するのはこちらの人々。 花田清輝を追悼した「『ボレロ』のように―追
T堺の天下茶屋店200円均一で、なんとも久しぶりに戦前の作品社本にめぐりあった。ヒット! 『ペルエイル家の人々』モオリアック・辻野久憲訳(昭和十年十二月十八日作品社)函少痛み、函の絵及口絵のモオリアックの肖像が誰の作なのか不明。 辻野久憲
『懐かしい年への手紙』をまもなく読了。 司修の口絵の中央は大檜。 そして次はこちらの予定。 『新しい人よ眼ざめよ』大江健三郎(2007年2月10日講談社文芸文庫)。